小袋が震えている。
車両から降りてもずっとだ。
零山脈でグリドから預かった小袋。
ずっと持っていた。
何度か気にはなった。
でも、開けるなと言われていた。
だから開けなかった。
その小袋が、今、俺の手の中で小さく震えている。
「震えてるな……」
「きゅ! きゅ!」
はむまるが膝の上で身を乗り出す。
目をきらきらさせながら、小袋に鼻を近づけている。
かなり反応していた。
俺は近くの公園のベンチへ座る。
「はむまる、分かるのか?」
「きゅ!」
分かるらしい。
いや、たぶん俺より分かっている。
小袋の中から、何かの匂いがしているのだろう。
俺には、懐かしいような、少し変なような気配しか分からない。
「いやでもこれ……開けるなって言われてるからな……」
俺は小袋を見つめる。
グリドは確かに言っていた。
必要な時まで開けるな、と。
今がその必要な時なのか。
でも、勝手に開けていいのか。
グリドはどこにいるのか。
「きゅ!」
「あっ、はむまる!」
はむまるが小袋の隙間に鼻を突っ込んだ。
いや、鼻どころか、体ごと入りかけている。
「ちょ、待て! 勝手に入るな!」
俺が慌てて止めようとした、その時。
「いた! おい噛むな! お、はむまるか!」
小袋から、懐かしい声が聞こえた。
俺の体が固まった。
「……」
聞き間違いじゃない。
この声。
この関西弁。
この軽い感じ。
「グリド!」
俺は叫んだ。
「おう、アマジン! 久しぶりやな」
小袋の中から声がする。
本当に声がする。
俺はすぐに小袋を開け、中身を取り出した。
出てきたのは、緑色のガムボールのような球だった。
丸い。
小さい。
でも、ただの球ではない。
肌触りはグミのようにフニフニしている。
押すと少しへこむ。
しかも、ほんのり温かい。
はむまるはそれを見て、さらに「きゅきゅ!」と鳴いた。
「噛むなよ、はむまる!」
「せや。さっきちょっと噛まれた気がするわ」
「グリド!」
俺は緑色の球を両手で持った。
「え、なんなのこれ? 通信機?」
「通信機……ではないなぁ」
グリドの声は、球から聞こえている。
顔はない。
目もない。
口もない。
でも、確かにグリドの声だった。
「お前に触れられると、よう分かる」
「何が?」
「かなり成長しとるな!」
「いや、そういう話じゃなくて!」
俺は思わず声を上げた。
「グリド、今どこにいるんだよ。これどういう状態なんだよ」
「話すと長いんやけどな……」
「じゃあ話してくれよ!」
「わいは、グリーントロルを支配していた主……マザーグリードという悪魔の元へ向かった」
「マザーグリード……」
俺はその名を繰り返す。
初めて聞く名前。
でも、聞いた瞬間、胸の奥がぞわりとした。
センターを飲んだ時に見えた、黒く赤い何か。
母のような声。
戻れ、と呼ぶ気配。
あれと繋がる名前だと、直感で分かった。
「名前は初めて聞くな」
「あれ? そこもまだ言ってなかったか?」
「言ってないよ!」
「そうか。まぁ色々あったしな」
「それでどうなったんだよ!」
「そんで今に至るってわけや」
「いや! すっ飛ばしすぎだろ!」
俺は叫んだ。
「マザーグリードの元へ行ったことしか分かってない!」
「しっ!」
グリドの声が急に低くなった。
「アマジン、お前はその名前をあまり言わん方がええ」
「え?」
「とにかく、それは守れ。分かったな」
軽い声ではなかった。
冗談でもない。
グリドがここまで真剣な声を出すのは珍しい。
俺は思わず頷いた。
「分かった」
「ええ」
「とりあえず、ちゃんと教えてくれよ……」
「ああ」
グリドは、少しだけ黙った。
そして、話し始めた。
・・・
俺と別れた後、グリドは宇宙へ飛び出した。
グリーントロルの元へ戻り、大規模前哨基地Aサイトへ入り込んだこと。
元総長でありながら、今は下位戦士として扱われたこと。
それでも情報を集めたこと。
食材調達任務につきながら、アマジンに繋がるデータを消そうとしたこと。
回復食を汚し、マザーグリードの回復を遅らせようとしたこと。
そして、ついにAサイト最深部へ潜り込んだこと。
マザーグリードが、繭へエネルギーを注いでいたこと。
そこに器があるはずだったこと。
グリドは隙をつき、マザーグリードの食欲の線を切り、彼女を両断した。
けれど、悪魔はそれでは死ななかった。
羽が刃になり、グリドを切り裂いた。
致命傷だった。
そして最後に。
グリドは超新星爆弾を使った。
Aサイトを光で包んだ。
自分ごと。
「……」
俺は、言葉が出なかった。
「その戦いで、わいは死んだ」
グリドは、軽く言った。
軽く言いすぎた。
「死んだって……」
俺は球を握りしめる。
柔らかい。
温かい。
でも、そこにグリドの体はない。
「うそだろ、グリド」
「まぁ、実感湧かんよな。今、話しとるし」
「元に戻れないのか?」
「ああ。戻れん」
グリドは少しだけ笑った。
「すまんな。さすがにこの姿じゃ修行できんな」
「そんなのどうでもいい!」
俺は叫んだ。
はむまるが驚いて体を震わせる。
でも止まらなかった。
「グリド、なら俺が元に戻す方法を探す」
「アマジン」
「メリスタとかなら何か知ってるかもしれない。センターもある。復活の食材だろ? それに、アールシなら――」
「アマジン!」
グリドの声が強くなった。
俺は黙った。
「この姿でおられるのも、少しだけや」
「……」
「もう、すぐにでも消える」
「そんな……!」
俺は球を握る手に力を込める。
力を込めすぎないようにしながら。
壊れないように。
でも、手放したくなかった。
「俺は、グリドともっと話したかった」
声が震えた。
「飯も一緒に食いたかったよ。ブラウスや両親にも紹介したかった」
零山脈の食卓が頭に浮かぶ。
久しぶりに飯を食って、グリドが笑っていた。
あの時、もっと色々話しておけばよかった。
もっと飯を食えばよかった。
もっと修行してもらえばよかった。
「最高の師匠だって……」
言葉が詰まる。
視界が滲む。
「ふ……」
グリドは小さく笑った。
「お前はほんま……ええ奴やな」
「そんなことない」
「ええ奴や」
グリドの声は優しかった。
今までで一番、穏やかだった。
「アマジン」
「……何だよ」
「わいは、なんというか、微妙な存在や」
「微妙?」
「グルメ細胞の悪魔に支配されてたせいで、性質はそれに近くなっとる」
俺は黙って聞く。
「この姿になって、余計に分かるんかもしれん」
「何が?」
「お前のグルメ細胞は、ものっそい豪華やのに空席や」
「え?」
空席。
その言葉に、胸が反応した。
センターを飲んだ時に見えた、俺の中の食卓。
誰かが座るはずだった席。
だが今は、俺の食卓で埋まり始めている場所。
「最高級のレストラン」
グリドは続ける。
「いや、それ以上や」
「……」
「やけど、肝心の座るやつがどこにもおらん」
俺は自分の胸に手を当てた。
グリドの言葉が、妙に深く入ってくる。
俺のグルメ細胞。
豪華なレストラン。
空いた席。
そこに、何かが座ろうとしていた。
マザーグリード。
いや、その名前はあまり言わない方がいい。
だが、俺の中には確かに空席がある。
それを、センターを飲んで知った。
「アマジン」
グリドの声が、少しだけ真剣になった。
「わいがそこに座ってもええか?」
「……どういうことだ?」
表情は見えない。
緑色の球には、顔がない。
目もない。
口もない。
でも、その問いは真剣なものだった。
冗談ではない。
軽口でもない。
グリドは今、自分の最後を俺に預けようとしている。
そう分かった。
俺は、緑色の球を両手で包み込んだまま、少し目を瞑った。