グリドは、豪華に装飾された食卓の前に立っていた。
どこまでも広い空間。
天井は見えない。
壁も見えない。
けれど、そこには確かに部屋のような気配があった。
静かで。
清潔で。
美しい。
目の前には、豪華な机。
長く、大きく、磨き上げられた食卓。
その上には皿が並んでいる。
ナイフ。
フォーク。
グラス。
見たこともない料理。
どれもまだ手をつけられていない。
そして、豪華な椅子。
食卓の中央に近い位置に、一脚だけ。
誰かを待つように。
ただ、静かにそこにある。
「……すごいとこやな」
グリドは呟いた。
ここがアマジンの中。
グルメ細胞の奥。
食欲の中心。
そして、空いていた席。
グリドはゆっくりと食卓へ近づく。
その瞬間。
空間の奥から、声が聞こえた。
『座るな……』
低い声。
女の声。
母のようで。
怪物のようで。
腹の奥から響くような、赤黒い声。
グリドは足を止めなかった。
「ここでお前の声をまた聞くとはな」
グリドは笑う。
「マザーグリード……しつこい奴やな……」
『許さぬ……』
声が濃くなる。
食卓の皿が、かすかに震えた。
『消えろ……』
「嫌や」
グリドは堂々と食卓に近づく。
椅子の前に立つ。
手を伸ばし、椅子を引いた。
ギィ、と音がする。
その音が、やけに大きく響いた。
『そこは、主――』
「お前の意思は関係ないわ!!」
グリドは、その言葉の続きを聞かせなかった。
空間全体が揺れる。
「アマジン本人がええって言うたんや!」
グリドは椅子をさらに引く。
目に見えない赤黒い気配がまとわりつく。
押し返そうとする。
追い出そうとする。
だが、グリドは笑った。
「お前が消えんかい!!」
そして、どん、と座った。
豪華な椅子が、グリドの重みを受け止めた。
その瞬間。
『……許さ……ぬ……』
声が遠のいていく。
『器……我が……』
「もうちゃう」
グリドは背もたれに体を預ける。
「ここはアマジンの食卓や」
声はさらに遠くなる。
赤黒い気配が薄れていく。
完全に消えたわけではない。
どこか奥にまだ沈んでいる。
だが、椅子の周りからは退いた。
食卓が静かになる。
「ふぅ」
グリドは息を吐いた。
「座っただけで一仕事やな」
その時だった。
食卓の向こう側に、人影が現れた。
白い給食着のような衣。
黒髪。
見慣れた顔。
「グリド!!」
「おお、アマジン!」
アマジンが走ってくる。
そして、そのままグリドに抱きついた。
「うおっ!」
グリドは椅子に座ったまま受け止める。
以前より、力が強い。
体の密度も違う。
センターを飲み、地球のフルコースを食べ終えたアマジンの食欲が、目の前にある。
「よかった……!」
アマジンの声が震えていた。
「無事……無事なのか、これ?」
「ああ」
グリドは少し笑った。
「少なくとも、わいはお前の中で生きとる」
「本当に?」
「本当や」
グリドは豪華な食卓を見回した。
「食卓を開いてくれりゃ、話もできるやろ」
「よかった……!」
アマジンは心底安心したように笑った。
その顔を見て、グリドは少しだけ目を細める。
いい顔をするようになった。
零山脈で会った時より、ずっと。
だが、その瞬間だった。
ドン。
大きな音が響いた。
心臓の鼓動のような音。
いや、アマジンの中心が跳ねた音。
「え?」
アマジンが顔を上げる。
ドン。
もう一度。
空間の空気が重くなっていく。
豪華な食卓の皿が震える。
グラスが揺れる。
見えない圧力が、上からのしかかる。
アマジンの背後に、巨大な影が映った。
アマジンではない。
人間でもない。
巨大な捕食者の影。
牙。
爪。
翼。
尾。
いくつもの猛獣の形が重なり、食卓の周囲に揺らめく。
「なんやこれ……」
グリドは椅子から半分立ち上がった。
「フェイク・プレデター……」
自分の技。
過去に見た猛獣の気配を借りる技。
敵を惑わせ、威圧し、別の存在に見せる技。
だが、目の前のこれは違う。
「いや、フェイクじゃあらへん」
「グリド?」
「気配だけじゃない」
グリドはアマジンの背後に重なる影を見る。
ただの幻ではない。
ただの威圧でもない。
アマジンの食欲エネルギーが、外側に形を作ろうとしている。
グルメスモック。
アマジンが得意とする、食欲を纏う技。
そこに、自分の借威幻獣の知識が混ざった。
猛獣の気配を借りる。
だが、アマジンは気配だけで終わらせない。
食べた食材。
味わった記憶。
見た猛獣。
触れた食欲。
それらを、衣として纏おうとしている。
「体の外側に、何か乗っとるで」
グリドは低く言った。
その瞬間。
食卓が大きく揺れた。
「うわっ!」
アマジンがよろめく。
椅子が軋む。
皿が跳ねる。
空間そのものが、アマジンの外側で起きている変化に引っ張られている。
「まてまて」
グリドは急いで椅子に座り直した。
両手を食卓につく。
座る。
ここに座る。
この席から、アマジンの食欲の流れを押さえる。
「おお……」
グリドは目を見開いた。
「これ、すごいで……」
「何が!?」
「フェイク・プレデターの上位版やんけ……!」
グリドは食卓に流れ込む感覚を読む。
借りた気配を外へ出すだけではない。
アマジンのグルメスモックが、その気配を衣にしている。
捕食者の影を纏い、体の反応にまで乗せようとしている。
攻撃。
防御。
威圧。
反射。
存在感。
すべてが少しずつ引き上げられている。
だが、制御できていない。
「抑えな暴走しそうや……」
「暴走!?」
「アマジン」
「何だよ!」
「お前、こっちに来てるせいで、多分本体眠っとる」
「え?」
「つまり外の体が半分勝手に動いとる!」
「それ危ないじゃん!」
「せやから、まずは戻れ!」
「え、分かった!」
「早よ!」
アマジンは慌てて頷いた。
その体が薄れていく。
食卓。
椅子。
グリド。
巨大な影。
全部が遠ざかる。
最後に、グリドの声が聞こえた。
「大丈夫や! わいはここにおる!」
その言葉を聞いた瞬間。
俺の意識は、現実へ戻った。
・・・
「……っ!」
ふと意識が戻る。
俺は、その場で倒れていた。
ベンチから落ちて床に転がっている。
体が重い。
でも、痛みはない。
ただ、心臓がやけに大きく鳴っていた。
はむまるは少し離れた場所にいた。
毛を逆立て、目を丸くしている。
怯えていた。
「はむまる……」
「きゅ……」
はむまるはすぐには近づいてこない。
かなり怖がらせてしまったらしい。
「ごめん、はむまる」
俺はゆっくり起き上がる。
「グルメスモックが勝手に暴走して……」
自分の体を見る。
今は元に戻っている。
白いグルメスモックも出ていない。
巨大な捕食者の影もない。
空気の重さも消えている。
でも、床には少しだけへこみがあった。
ベンチの金具も軋んでいる。
何かが起きたのは間違いなかった。
「何だったんだ……」
俺は胸に手を当てる。
グリドの声は、今は聞こえない。
でも、さっきとは明らかに変わっている。
俺の中に、何かがある。
空席に座った存在。
逃げた食欲。
グリド。
そして、それとは別に。
大きな力が、俺の中に加わっているのが実感としてある。
グルメスモック。
借威幻獣。
それらが混ざった何か。
まだ名前も分からない。
使い方も分からない。
ただ、今のまま放っておいたら危ない気がした。
「……とりあえず」
俺ははむまるへ手を伸ばす。
はむまるは少し迷った後、ゆっくり近づいてきた。
そして、俺の手の匂いを嗅ぐ。
「きゅ……」
「大丈夫。もう何もしない」
はむまるはようやく膝に戻ってきた。
俺はほっと息を吐く。
とにかく、今は休む。
メリスタにも、一週間は家で休めと言われた。
本当に休んだ方がいい。
いや、これはさすがに報告案件な気もするけど。
今また研究所に戻ったら、確実に検査コースだ。
そして、たぶん帰れなくなる。
「まずは家に帰ろう」
俺はそう決めた。
グリドは俺の中にいる。
声は聞こえないけれど、確かにいる。
なら、慌てなくていい。
ちゃんと休んで。
ちゃんと飯を食って。
それから考える。
俺ははむまるを抱え直し、そのまま家に帰ることにした。