「ただいま!」
玄関を開けて、俺は声を上げた。
「おかえり、アマジン!」
「おかえり」
家では父さんと母さんがくつろいでいた。
リビングのテーブルにはお茶と茶菓子。
母さんは湯呑みを持っていて、父さんは菓子を片手にテレビを見ている。
普通の家。
普通の空気。
普通の匂い。
それが、なんだかものすごく懐かしかった。
「はむまるちゃんもおかえり」
「きゅ!」
はむまるが俺の肩で元気よく鳴く。
母さんは笑いながら、小皿に小さな茶菓子を置いてくれた。
はむまるはそれを嬉しそうに受け取る。
俺もテーブルについた。
湯呑みから立つ湯気。
茶菓子の甘い匂い。
家の匂い。
ああ。
帰ってきたんだな。
「それで、どうだった?」
父さんが聞いてきた。
「危ないことはなかったのか?」
「危ないことは……」
ありすぎた。
センター。
エリア0。
アールシ。
終末の食客。
マザーグリード。
グリド。
俺の中の食卓。
全部話すには重すぎる。
いや、そもそもどこまで話していいのか分からない。
グリドのことは、まだ言えないな。
俺の中に別の存在がいる。
そんなこと、今ここで父さんと母さんにどう説明すればいい。
だから、俺は一番明るい報告をした。
「俺、ついに美食屋になれる!」
父さんと母さんの目が丸くなる。
「一週間後に第一食材宇宙研究所に行って、資格をもらえるんだ」
「本当に?」
「本当!」
俺は胸を張った。
「地球のフルコース、全部食べたからな!」
母さんは湯呑みを置いた。
そして、目を細める。
「本当によくやったね」
その一言で、胸が熱くなった。
メリスタに認められた時とも違う。
ガウンさんに褒められた時とも違う。
母さんにそう言われると、なんというか。
ちゃんと帰ってきた感じがする。
「ありがとう」
俺は素直にそう言った。
父さんも大きく頷いた。
「すごいな、アマジン。美食屋か」
「まだ正式には一週間後だけどな」
「それでもすごいよ」
「うん」
茶菓子を一つ口に入れる。
うまい。
特別な食材ではない。
高級料理でもない。
でも、うまい。
こういう味も、俺の食卓なんだと思った。
「てか」
母さんがふと立ち上がった。
「突然だから夕食の材料が足りないわ」
「あ、そうなの?」
「あなたが帰ってくるって分かってたら、もっと用意しておいたんだけど」
「なら俺が買ってくるよ!」
「いや、あなたは休んでなさい!」
即座に止められた。
メリスタにも言われた。
一週間は休め。
母さんにも言われた。
休め。
分かっている。
分かっているけど。
「行きたいんだ」
俺は言った。
「久しぶりに商店街に行きたい!」
母さんは少しだけ驚いた顔をした。
父さんも俺を見る。
「商店街か」
「うん。なんかさ、帰ってきたって感じがするから」
ビオトープ。
深海。
多重力の谷。
老いの洞穴。
ゴッドの記憶。
エリア0。
すごい場所ばかり行ってきた。
でも、俺が育ったのはここだ。
家で飯を食って、商店街で買い物して、近所のおばちゃんに声をかけられる。
そういう場所だ。
「そう?」
母さんは少し考えてから笑った。
「ならお願いしようかしらね」
「よっしゃ!」
「ただし、寄り道しすぎないこと」
「分かってるって」
「おやつ一個買っていいわよ!」
「よっしゃ!」
俺は夕飯メモを受け取った。
はむまるは俺の肩に乗る。
母さんがメモに追加でいくつか書き込む。
野菜。
肉。
調味料。
ついでに茶菓子。
よし。
任せろ。
「行ってきます!」
「行ってらっしゃい」
「気をつけてな」
「きゅ!」
俺は夕飯メモを持って、買い物に出かけた。
・・・
商店街を歩く。
夕方の匂い。
揚げ物の匂い。
焼き魚の匂い。
果物の甘い匂い。
人の声。
店の呼び込み。
子どもの笑い声。
なんだか懐かしいな……。
まだ一年も経っていない。
というか、俺が地球のフルコースを巡り始めてから、実際にはそんなに長い時間は経っていないはずだ。
それなのに、このあたりの記憶が遠い昔のようだ。
毒雨草原。
零山脈。
深海。
アース。
ゴッド。
センター。
それだけ濃い体験をしたのだろう。
「アマジンちゃん!」
声をかけられた。
振り向くと、八百屋のおばちゃんが手を振っていた。
「あら、アマジンちゃん! ちょっと見ない間に立派になったねえ!」
「おばちゃん!」
俺は笑って近づく。
「相変わらず元気そうだね!」
「元気だけが取り柄だからねえ!」
おばちゃんは豪快に笑った。
昔からこの商店街では、よく手伝いをしていた。
荷物運び。
棚出し。
掃除。
迷子の案内。
何でもやった。
その頃も自分では結構動けると思っていたけど、今思うと全然違う。
体の感覚がまるで違う。
そんなことを考えていると。
上空から機械音が近づいてきた。
ドローンのような配送機械が、大きめのコンテナを吊り下げている。
それがゆっくり降りてきて、ドン、と店の横に置かれた。
「おや、ちょうど新鮮な野菜が届いたねえ」
おばちゃんがコンテナを見る。
「結構な量だな」
俺は中を覗き込んだ。
箱の中には、野菜がぎっしり詰まっている。
葉物。
根菜。
巨大なトマトみたいなもの。
ねじれたキュウリみたいなもの。
千年後の野菜は、見た目もなかなかすごい。
「手伝ってやるよ!」
「あら、いいのかい?」
「朝飯前だ!」
俺は軽く腕を振る。
食欲エネルギーを出す。
番重。
白く光る給食用の箱が、いくつも空中に現れた。
昔より、出すのがずっと楽だ。
形も安定している。
重さも制御しやすい。
俺は番重を使って、コンテナの野菜を丁寧に持ち上げた。
葉を傷めないように。
根を折らないように。
棚の高さに合わせて、番重を足場のように動かす。
手で運ぶよりずっと早い。
でも雑にはしない。
食材だからだ。
俺は野菜を棚に移していく。
番重をいくつも出して、仕分けて、並べて、傷んだ葉を外して、見栄えを整える。
作業は数分で終わった。
「よし」
俺は手を払った。
「こんな感じでいい?」
「アマジンちゃん、助かったわあ!」
おばちゃんは目を丸くしている。
「いつもは全部やるのに半日はかかるのよ」
「朝飯前だ!」
いや、本当に朝飯前だ。
今ならコンテナ十個くらい来てもいける気がする。
番重は戦うだけじゃない。
人助けにもよく使える。
昔から商店街で手伝いなどをしていたが、その時より遥かに番重が成長しているため、手際がかなり良くなっていた。
これも旅の成果だ。
毒雨草原で身につけた防御。
零山脈での修行。
深海での圧力。
多重力の谷での重さ。
全部、こういう場所にも生きている。
俺は少し嬉しくなった。
「じゃあ、買い物していくよ」
「ちょっと待ちなさい」
「ん?」
「アマジンちゃん、お礼にこれ持っていきなさい」
おばちゃんは袋いっぱいに野菜を詰めてくれた。
「え、いいの?」
「いいのいいの。助かったんだから」
「ありがとう!」
俺は野菜の詰め合わせを受け取った。
番重に乗せる。
すでに夕飯メモの分より多い。
でも、母さんならたぶん使い切る。
「アマジン!」
隣の魚屋のおじさんも顔を出した。
「うちで働かないか?」
「俺は美食屋になったんだ! 働けないよ!」
「美食屋!!」
おじさんの声が商店街に響く。
「すごいなあ! 頑張りな!」
「ありがとう!」
その声に、他の店の人たちも顔を出す。
「アマジンちゃん、美食屋になるのかい?」
「大出世だねえ!」
「今度うちの荷物も頼むよ!」
「有料ならな!」
「ちゃっかりしてるねえ!」
笑い声が広がる。
やっぱり、ここはいい。
なんというか。
俺の始まりの味がする。
・・・
帰り道。
俺の番重は食材でいっぱいになっていた。
野菜。
肉。
魚。
ついでにもらった果物。
おやつ。
母さんのメモよりだいぶ多い。
はむまるは番重の上を見て、頬袋を膨らませそうな顔をしている。
「家まで我慢な」
「きゅ」
少し不満そうだった。
でも夕食が楽しみだ。
母さんがこれを見たら驚くだろう。
父さんはたぶん笑う。
俺は美食屋になる。
でも、その前に今日は家で夕飯を食う。
それが今は一番楽しみだった。
そんなことを考えながら歩いていると。
突然、目の前の空間が裂けた。
「……え?」
空気が薄く切れる。
まるで、透明な布に刃を入れたように。
そこから、何かが落ちてきた。
人だ。
いや、少女だった。
俺は反射的に番重を出し、落下を受け止める。
白い番重の上に、少女の体が倒れ込んだ。
「おい、大丈夫か!?」
衰弱している。
呼吸が浅い。
背中には大きな傷。
翼をもぎ取られたような、裂けた跡。
髪は緑色。
少し尖った耳。
肌は真っ白。
人間に見える。
でも、普通の人間ではない。
そして。
「服……!」
服を着ていなかった。
俺はすぐに視線を外し、グルメスモックを出す。
白い給食着のような食欲の衣を、少女に着せた。
覆う。
包む。
隠す。
守る。
そのつもりだった。
だが、次の瞬間。
「な……」
俺の体から、一気に力が抜けた。
「めちゃくちゃ吸われる……!」
着せたグルメスモックから、ストローで吸うかのようにエネルギーを吸収されていく。
普通じゃない。
はむまるに着せる時とも、ブラウスに着せる時とも違う。
流れる。
抜ける。
飲まれる。
少女の体が、俺のグルメスモックから直接カロリーを吸っている。
「ぐっ……!」
俺は膝をつきかけた。
だが、止めなかった。
この子は死にかけている。
吸っているというより、飢えている。
今止めたら、消えてしまう気がした。
少女の頬に、ほんの少しだけ色が戻る。
真っ白だった肌に、わずかな生気が差す。
呼吸が少しだけ整った。
そして、少女が一瞬だけ目を開けた。
緑色の瞳。
焦点の合わない目。
でも、その目はまっすぐ俺を見た。
「お兄ちゃん……」
「お兄ちゃん!?」
俺は思わず叫んだ。
少女はそれだけ言って、また気絶した。
番重の上。
俺のグルメスモックに包まれたまま。
緑色の髪の少女は、静かに眠っている。
はむまるは俺の肩で毛を逆立てていた。
「きゅ……」
「いや……」
俺は少女を見る。
空間が裂けた場所は、もう閉じている。
何もなかったように、夕方の道が続いている。
でも、俺の目の前には確かに少女がいる。
背中に大きな傷を負った、謎の少女。
俺を、お兄ちゃんと呼んだ少女。
「どうしよう……」
家に帰る途中だった。
夕飯の材料を持っていた。
今日は普通に飯を食うつもりだった。
なのに。
「……とりあえず」
俺は少女を見た。
このまま放っておく選択肢はない。
「家に連れて帰るしかないよな」
はむまるが小さく鳴いた。
「きゅ」
俺は番重の上の食材を整理し、もう一つ番重を出す。
少女をそっと抱き上げる。
軽い。
驚くほど軽い。
でも、グルメスモックからはまだ少しずつエネルギーを吸っている。
「大丈夫だ」
俺は、誰に言うでもなく呟いた。
「飯なら、うちにある」
そうして俺は、謎の少女を抱えたまま家へ向かった。