数日が経った。
いよいよ明日、俺はIGO第一食材宇宙研究所へ向かう。
美食屋ライセンスの認定。
検査。
登録。
その他、たぶん色々。
メリスタは「一週間は家で休め」と言っていた。
だから俺は、ちゃんと家で休んだ。
ビオトープには行っていない。
危険地帯にも行っていない。
偉い。
俺は偉い。
ただし、家の中が平和だったかというと、そうでもない。
理由は一つ。
ミルカだ。
この数日、ミルカの成長がすさまじかった。
最初は、本当に何も知らなかった。
いただきますも知らない。
フォークもナイフも知らない。
名前も知らない。
服の着方も怪しかった。
会話もたどたどしく、単語をつなげるだけだった。
それが、数日で変わった。
きっかけは、俺の部屋にあった教科書だ。
ミルカは、棚に並んでいた古い教科書に興味を持った。
小学校の時に使っていたものだ。
食材の基礎。
グルメ細胞の一般知識。
現代社会。
読み書き。
算数。
歴史。
俺としては懐かしい本だ。
正直、今読むとかなり簡単に見える。
いや、小学校の教科書だから当たり前なんだけど。
ミルカは、その一冊をじっと見ていた。
「それ、気になるのか?」
「本」
「そう。教科書だな。子どもが勉強するやつ」
「勉強……」
「読んでみるか?」
俺は本を棚から取って、ミルカに渡した。
「お、読んでみるか」
「読む」
ミルカは両手で教科書を受け取った。
そして、床に座って読み始めた。
ページをめくる。
じっと見る。
まためくる。
かなり真剣だ。
俺は少し嬉しくなった。
最初は絵を見るだけでもいい。
文字が分からなくても、興味を持つのはいいことだ。
そう思っていた。
数分後。
「これ返す」
ミルカは教科書を差し出した。
「お、飽きたのか?」
「全部読み終えたから次」
「え!? もう!?」
俺は思わず声を上げた。
全部読み終えた。
いや、数分しか経っていない。
絵本じゃない。
教科書だ。
文字もある。
説明もある。
問題もある。
「内容、分かったのか?」
「分かった」
「本当に?」
「グルメ細胞は、生物の食欲と生命力に深く関係する特殊な細胞。現代ではワクチン処置によって安定化され、生後初期から体内環境に馴染ませることが一般的」
「めちゃくちゃ分かってる!」
俺は固まった。
ミルカは首を傾げる。
「次」
「ま、待て待て」
俺は慌てて別の教科書を渡した。
国語。
算数。
食材史。
現代社会。
生活科。
ミルカは読む。
読む。
読む。
どんどん読む。
ページをめくる速度が速い。
けれど、雑に見ているわけではない。
ちゃんと内容を理解している。
次。
次。
次。
気がつけば、俺の小学校時代の教科書は全部読み終わっていた。
その後、学園でやった基礎教本にも手を伸ばした。
初等部から中等部。
食材分類。
捕獲レベルの歴史。
グルメ細胞の応用。
食材倫理。
調理基礎。
生態系保護。
美食屋制度。
ミルカは、それらを短期間ですべて読んでいた。
驚異的だった。
いや、驚異的という言葉でも足りない。
もしかしたら、ミルカは知らないだけで、覚えるための器官が最初からあるのかもしれない。
空っぽだった器に、知識が流れ込んでいく。
そんな感じだった。
そして、夕食の時。
ミルカは椅子に座り、手を合わせた。
「いただきます」
最初は、ただ真似をしていた言葉。
でも今は少し違う。
ミルカは真面目な顔で言った。
「ミルカは理解した。いただきますは、食べ物と作った人への挨拶」
「そのとおりよ!」
母さんが嬉しそうに笑う。
「えらいわねえ」
「えらい」
ミルカは小さく頷いた。
自分で納得しているらしい。
それから、目の前の皿を見る。
今日は野菜たっぷりの肉炒め。
魚のスープ。
白いご飯。
はむまる用の小皿もある。
ミルカはフォークを手に取り、もう手づかみはしない。
まだ少しぎこちないけれど、数日前とは比べ物にならない。
「ミルカは、アマジンの家の飯が好き」
ミルカが言った。
「うまいだろ?」
俺は笑う。
「遠慮せず食えよ!」
「食べる」
ミルカは肉を口に運ぶ。
もぐもぐと噛む。
飲み込む。
目が少しだけ細くなる。
「うまい」
「だろ!」
母さんはそれを見て、嬉しそうに次の皿を出した。
父さんも笑っている。
はむまるは小皿の前で「きゅ!」と鳴いている。
ミルカは俺の横に座っている。
グルメスモックを欲しがる回数は、少し減った。
普通の飯だけでも、かなり満たされるようになってきたらしい。
それでも時々、俺の袖を引く。
「アマジン」
「ん?」
「ぶわっと、少し」
「少しだけな」
「少し」
俺がグルメスモックを少しだけ出すと、ミルカはそれを羽織って満足そうにする。
そして、ほんの少し吸う。
前みたいに一気に吸われることは減った。
食べ方を覚えたからか。
体が少し安定したからか。
それとも、普通の飯の味を知ったからか。
分からない。
ただ、ミルカはだんだん人間の食卓に馴染んでいた。
俺の家に。
父さんと母さんに。
はむまるに。
俺に。
なんだか本当に、妹ができたような感じになっていた。
もちろん、普通の妹ではない。
空間から落ちてきた。
背中に大きな傷がある。
俺をお兄ちゃんと呼んだ。
グルメスモックを食べる。
教科書を数分で読み終える。
普通ではない。
絶対に普通ではない。
でも。
今、ミルカはうちの食卓で飯を食っている。
いただきますを言って。
うまいと言って。
それだけで、十分な気もした。
・・・
次の日。
玄関に荷物をまとめる。
俺。
ミルカ。
はむまる。
第一食材宇宙研究所へ向かう。
本当はミルカを連れて行くか迷った。
でも、置いていく選択肢はなかった。
ミルカは俺のグルメスモックを必要としている。
それに、何者なのか分からない以上、第一研究所で見てもらう必要もある。
ミルカ本人も、俺の服の袖をつかんで離さなかった。
「じゃあ、行ってくるよ」
俺は父さんと母さんに言った。
「ええ、気を付けてね」
母さんは俺を見て、それからミルカを見る。
「ミルカちゃんも!」
「いい子にする」
ミルカは真面目に答えた。
この数日で覚えた言葉の一つだ。
母さんが何かを頼む時、ミルカはだいたいそう言う。
そして、本当にできるだけ守ろうとする。
「きゅ!」
はむまるも胸元で鳴いた。
「はむまるちゃんもね!」
「きゅ!」
はむまるは誇らしげだった。
俺は少し笑う。
でも、胸の奥に少しだけ寂しさがあった。
「またいつ帰れるか分からないけど……連絡はするからね」
「ええ、そうね」
母さんは優しく頷いた。
「いつでも帰ってらっしゃい」
父さんも言った。
「無理はするなよ」
「分かってる」
「本当に?」
「本当に!」
たぶん。
いや、できるだけ。
俺はそう思いながら頷いた。
ミルカが俺を見る。
「アマジン」
「ん?」
「帰る場所、ここ?」
「そうだよ」
俺は少し驚きながら答えた。
「ここが俺の家」
「ミルカも、帰っていい?」
母さんが先に答えた。
「もちろんよ」
ミルカは母さんを見る。
目をぱちぱちさせる。
そして、小さく頷いた。
「分かった」
それだけだった。
でも、ミルカの口元は少しだけ緩んでいた。
俺は玄関の扉を開ける。
外の光が差し込む。
第一食材宇宙研究所。
美食屋ライセンス。
ミルカの正体。
グリド。
俺の中の食卓。
たぶん、また色々起こる。
でも、その前に。
俺は一度振り返った。
「行ってきます!」
「行ってらっしゃい!」
そうして、俺とミルカ、はむまるは家を出た。