千年後のグルメ時代   作:鳩夜(HATOYA)

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のろま雨の丘

 黒い霧を抜けた先に広がっていた景色は、穏やかだった。

 少なくとも、毒雨草原と比べれば。

 紫に染まった草原。

 足を取る毒の泥。

 スコールのように降り注ぐ毒雨。

 視界を塞ぐ黒い霧。

 それらを抜けた先にある、のろま雨の丘。

 

 そこは、不思議な静けさに包まれていた。

 緩やかな丘陵地帯が広がっている。

 草は青く、所々に白い花が咲いている。

 空は薄い灰色。

 毒雨草原のような濁った紫ではない。

 遠くには、小さな川のようなものも見えた。

 その水面に、大粒の雨が落ちている。

 ただし、その雨は普通ではなかった。

 

 遅い。

 

 大粒の雨が、まるで空中を漂うようにゆっくりと降っている。

 一粒一粒が透明な球のように見え、空から地面へ向かって、のろのろと落ちていく。

 手を伸ばせば、簡単につかめそうだ。

 

 雨というより、空から落ちてくる水の実に近い。

 ここが、のろま雨の丘。

 エアが実る場所へ続く、最後の地帯。

 

「……変な場所だな」

 

 俺は小さく呟いた。

 景色は穏やかだ。

 だが、奇妙だった。

 

 空気が重い。

 

 毒雨草原のように肺を刺すわけではない。

 むしろ、呼吸はしやすい。

 だが、空気そのものが体にまとわりつくような感覚がある。

 腕を動かす。

 

 遅い。

 

 いや、正確には、俺の動きそのものが遅くなっているわけではない。

 空気が俺の動きに遅れてついてきて、抵抗しているような感じだ。

 水の中ほどではないが、全身に薄い膜が張りついたように動きにくい。

 これが、のろま雨の影響なのか。

 グルメスモックを纏っていても、この感覚は完全には防げない。

 

 隣を見ると、ブラウスも不思議そうに手を開いたり閉じたりしていた。

 

「体が……少し重いです」

 

「だよな。毒雨よりはマシだけど、これはこれで厄介だ」

 

 だが、少なくとも休める。

 

 毒雨草原と比べれば、ここは天国みたいなものだ。

 俺はずるずると引っ張ってきた毒沼蛇を地面に下ろした。

 

 かなり重かった。

 

 毒雨草原の泥の上を引きずってきたせいで、体力もカロリーもかなり削られている。

 正直、エアへ向かう前に休憩しなければ厳しい。

 

「ブラウス、ここで少し食べよう。こいつ、調理できるか?」

 

 俺が毒沼蛇を指差すと、ブラウスは目を細めた。

 疲れているはずなのに、料理の話になると表情が変わる。

 

「できます。毒腺を傷つけないように処理すれば、身はかなり美味しいはずです」

 

「頼む」

 

「はい」

 

 ブラウスはケースを開き、響金包丁ハルシアを取り出した。

 金色の包丁が、のろま雨の淡い光を受けて静かに輝く。

 

 昨日見た時と同じ。

 いや、調理を始めるブラウスの手に握られると、包丁はさらに光を増すように見えた。

 

 俺は周囲を警戒しながら、グルメスモックの状態を確認する。

 二人分を維持し続けた影響で、カロリー消費が激しい。

 

 毒雨草原での移動。

 毒沼蛇との戦闘。

 三重番重落とし。

 キッチンハサミ。

 

 さらにブラウスのスモック維持。

 

 食べてはいたが、それでも消耗は大きかった。

 一方でブラウスは、毒沼蛇を前にしててきぱきと動いていた。

 

 のろま雨の影響で全体的に動きは鈍いはずなのに、包丁の動きだけは滑らかだ。

 毒沼蛇の腹を開き、毒腺を慎重に取り出す。

 

 ぬめりのある皮を剥ぎ、身を部位ごとに分けていく。

 骨の位置を見極め、筋に沿って刃を入れる。

 

 普通の包丁なら滑りそうな鱗も、ハルシアはまるで最初からそこに切れ目があったかのように通っていった。

 包丁と料理人が一体化している。

 そんな言葉が、また頭に浮かぶ。

 

 毒沼蛇の身は淡い紫色をしていた。

 加熱すると、その色が少しずつ白へ変わっていく。

 ブラウスは毒雨草原で採った酸味のある実を潰し、少量の胡椒ぜんまいと合わせる。

 

 さらに、昨日使っていたメルクの星屑をほんの少しだけ振りかけた。

 限られた道具。

 限られた食材。

 それでも、料理は成立していく。

 やがて、香りが立ち上った。

 

 蛇肉特有の淡白な香りに、毒由来の刺激的な旨味。

 そこへ酸味と香辛料が重なる。

 

 毒沼蛇という名前からは想像できないほど、上品な匂いだった。

 

「できました」

 

 ブラウスが差し出した料理は、薄く切られた毒沼蛇の焼き身に、紫がかったソースがかけられたものだった。

 見た目は少し毒々しい。

 だが、香りは信じられないほど食欲をそそる。

 

「いただきます」

 

 俺たちは手を合わせた。

 さっそく口へ運ぶ。

 瞬間、舌に電気が走った。

 

「うまっ……!」

 

 毒ではない。

 刺激だ。

 ほんのわずかに残された毒の風味が、旨味に変わっている。

 蛇肉はふわりと柔らかく、それでいて噛むと弾力がある。

 淡白な身に、毒雨草原の酸味のある実がよく合う。

 胡椒ぜんまいの香りが、最後に鼻へ抜けた。

 

 毒沼蛇。

 

 名前だけ聞けば危険なモンスター。

 さっきまで俺たちを襲ってきた敵。

 それが、今は体を温める最高の料理になっている。

 ブラウスも一口食べ、ほっと息を吐いた。

 

「よかった……うまく毒が抜けています」

 

「これで失敗の可能性あったのかよ」

 

「もちろんあります。毒沼蛇は処理を間違えると、食べた瞬間に舌が痺れて三日くらい味が分からなくなるそうです」

 

「怖すぎるだろ」

 

 そう言いながらも、箸が止まらない。

 いや、箸ではなく簡易ピックだが。

 

 とにかく、うまい。

 

 食べるたびに体内へ熱が戻ってくる。

 グルメ細胞が毒沼蛇の栄養を吸収し、消耗した体を修復していくのが分かる。

 

 俺たちはほとんど無言で食べ続けた。

 そして、完食後。

 

 少しだけ休憩することにした。

 

 のろま雨は、相変わらずゆっくりと降っている。

 大粒の雨が地面に落ちるたび、草の葉が重そうに揺れた。

 

 毒雨草原のような緊張感は薄い。

 だが、不思議な圧迫感はある。

 

 俺は地面に座り、体の状態を確認した。

 カロリーはかなりチャージできた。

 毒沼蛇料理は、思った以上に栄養価が高い。

 

 だが、それでも万全ではない。

 

 二人分のグルメスモック。

 技の使用。

 毒雨草原での移動。

 

 それらで大幅に消耗している。

 

 万全の状態が百だとすれば、今は三十ほどか。

 体は動く。

 戦うこともできる。

 だが、余裕はない。

 

 大型モンスターと連戦になれば厳しい。

 

 まして、エアの収穫にはまだ何が起こるか分からない。

 休めるならもっと休みたい。

 

 だが、ここで長居しすぎるのも危険だ。

 のろま雨の丘は穏やかに見える。

 

 しかし、地球のフルコースが実る場所だ。

 安全なはずがない。

 

「エアはすぐそこだ。早速行こうか」

 

 俺はそう言って腰を上げた。

 ブラウスもケースを閉じ、立ち上がる。

 

「はい」

 

 その時だった。

 

 前方の茂みが揺れた。

 

 のろま雨がゆっくりと落ちる中、その茂みだけが不自然に震えている。

 俺は反射的に身構えた。

 

 何かが現れる。

 小型の獣か。

 のろま雨に適応したモンスターか。

 だが、茂みから姿を現したものは、俺の想像とはまるで違っていた。

 

 緑色の肌。

 

 黒いこん棒。

 一見すると、ゴブリンのような姿。

 だが、俺が知っているゴブリンとは大きく異なる。

 そいつは三メートルほどのサイズがあった。

 そして、恐ろしいほど鍛え上げられた肉体を持っていた。

 肩は岩のように盛り上がり、腕は丸太より太い。

 背中には黒い紋様のようなものが走り、皮膚の下で筋肉がうねっている。

 

 手にした黒いこん棒は、ただの武器ではない。

 まるで骨と金属と木が混ざり合ったような、不気味な質感をしていた。

 

 俺の全身に鳥肌が立った。

 空気が変わる。

 のろま雨の重い空気が、さらに押し潰されるような感覚。

 今までに感じたことのない威圧感。

 

 ガララワニでもない。

 

 毒沼蛇でもない。

 

 学園の実技訓練で戦ったモンスターでもない。

 

 明らかに、格が違う。

 

「ブラウス!! 下がれ!!!」

 

 俺は叫び、すぐにそいつから庇うように前へ立った。

 ブラウスが息を呑む気配がする。

 俺はグルメスモックの密度を上げた。

 だが、分かる。

 これで守れる相手ではない。

 

「なんだこいつは……」

 

 声が震えた。

 恐怖ではないと言いたかった。

 だが、違う。

 これは恐怖だ。

 

 初めて感じる種類の恐怖。

 

 勝てるかどうかを考える前に、体が危険だと叫んでいる。

 その瞬間、簡易食材鑑定キットが反応した。

 端末が震える。

 表示が乱れる。

 そして、信じられない文字列が浮かび上がった。

 

『グリーンニトロ系外宇宙勢力』

『捕獲レベル1000・B』

 

 捕獲レベル1000。

 

 強さ、B。

 

 ゴッドのDをはるかに凌ぐ強敵。

 地球最強と呼ばれた食材すら上回る、宇宙から来た存在。

 俺の喉が乾いた。

 

「旨そうなニオイがしたと思ったら……もう全部食っちまったのか?」

 

 そいつが口を開いた。

 声は低く、濁っている。

 だが、はっきりと意味のある言葉だった。

 

「言葉を話せるのか……?」

 

 俺が思わず呟くと、そいつは片眉を上げた。

 

「ハ? そりゃそうだろう」

 

 当たり前のように返される。

 会話ができる。

 知能がある。

 そして、敵意もある。

 俺は唾を飲み込んだ。

 

「グリーンニトロの仲間か……? 地球で何をしているんだ」

 

「何ってそりゃあ……」

 

 そいつは黒いこん棒を肩に担いだ。

 口元が歪む。

 

「リベンジだよ。九百年越しのな」

 

 その言葉で、俺は確信した。

 こいつは、ただのモンスターではない。

 かつてグリーンニトロと共に地球を征服しようとした勢力の一人。

 九百年前の地球の危機。

 

 グリーンニトロの軍勢。

 

 それに連なる宇宙勢力。

 教科書や資料でしか知らなかった存在が、今、目の前にいる。

 

「そんなことをしたら……八王たちが黙っていないぞ」

 

 俺は強がるように言った。

 八王。

 グルメ界に君臨する、地球最強の王たち。

 彼らが本気で動けば、いくら宇宙勢力でも簡単にはいかないはずだ。

 そう思いたかった。

 だが、そいつは笑った。

 

「カッハッハ」

 

 腹の底から響くような笑い。

 

「おいら達はなにも、地球を破壊しに来たわけじゃあない」

 

「……何?」

 

「人間に代わって、地球を管理するために来ただけだ」

 

 背筋が冷えた。

 

「管理……?」

 

「ああ。地球は良い星だ。フルコースも良い。だが、人間どもは食い散らかすだけだろ?」

 

「ふざけるな」

 

「ふざけちゃいねえよ。事実だ。おいらたちが管理するほうがいい」

 

「管理なんて許されるはずがない。八王が反撃するだろ!」

 

 俺が叫ぶと、そいつは肩をすくめた。

 

「しねえよ」

 

 あまりにもあっさりと言った。

 

「八王は別に人間の味方じゃねえ。地球と、そのフルコースを守るために行動する」

 

「……」

 

「まぁ、人間びいきな八王もいるそうだがな。だが、おいら達は八王と敵対する気はねえ」

 

 黒いこん棒で、地面を軽く叩く。

 それだけで、地面が鈍く沈んだ。

 

「なんなら、人間どもより地球のフルコースを新鮮で高度に管理できるぜ? 八王は喜ぶかもな!」

 

「そんな……!」

 

 言い返せなかった。

 人間は地球の味方なのか。

 八王は人間を守るのか。

 当たり前だと思っていたことが、こいつの言葉で揺らぐ。

 

 八王は、地球の王だ。

 人間の守護者ではない。

 

 地球とフルコースが守られるなら、人間が支配者である必要はない。

 その可能性に気づいてしまった。

 

「さて……話し過ぎたな」

 

 そいつは、こん棒を握り直した。

 その瞬間、空気が爆ぜた。

 

 見えなかった。

 

 一瞬で、そいつが俺の前にいた。

 黒いこん棒が、頭上から振り下ろされる。

 

「ぐっ……!」

 

 俺は両腕を上げて受けた。

 グルメスモックの密度を最大まで上げる。

 だが、衝撃はそんなものでは止まらなかった。

 

 計り知れない力。

 

 骨が軋む。

 

 両腕に激痛が走る。

 

 足が地面にめり込んだ。

 

 のろま雨で柔らかくなった土に、膝近くまで沈む。

 呼吸が止まる。

 視界が白く弾けた。

 

「お……?」

 

 そいつが、少しだけ目を丸くした。

 

「すげえなお前。エア付近にいたやつらは、これで粉々になったってのによ」

 

 その言葉で、さらに血の気が引いた。

 エア付近にいたやつら。

 つまり、こいつはもう誰かを襲っている。

 

 そして、粉々にした。

 

 俺が受けられたのは、グルメスモックのおかげか。

 それとも、ただの偶然か。

 考える余裕はない。

 

 俺は歯を食いしばり、食欲のエネルギーを頭上へ集めた。

 

「五重・番重落とし!!」

 

 毒沼蛇に使った三重では足りない。

 今出せる限界の重さ。

 五重に積まれた巨大な番重が、そいつの頭上に出現する。

 そして、一気に叩きつけられた。

 

「うお……?」

 

 そいつの体が、わずかに沈んだ。

 

 地面がひび割れる。

 

 のろま雨が衝撃で飛び散る。

 

 だが、倒れない。

 

「もっかい!」

 

 俺はさらに食欲を絞り出す。

 

「五重・番重落とし!!」

 

 二度目の番重が、そいつを上から押し潰すように落ちた。

 渾身の攻撃。

 今の俺にできる最大級の一撃。

 

 だが――。

 

 そいつは、膝まで地面にめり込んでいるだけだった。

 ダメージは一切ない。

 皮膚に傷すらない。

 黒いこん棒を肩に担ぎ直し、面倒くさそうに首を鳴らしている。

 

 無理だ。

 

 勝てる気がしない。

 

 俺の中で、初めて明確な敗北の予感が生まれた。

 

「ブラウス! 逃げるぞ――」

 

 そう叫んだ瞬間だった。

 そいつの姿が消えた。

 次に見えた時、ブラウスのすぐ横にいた。

 

「え……」

 

 ブラウスの声。

 緑の腕が伸びる。

 ブラウスの頭を、片手で掴んだ。

 

「ブラウス!!」

 

 俺は叫んだ。

 ブラウスは苦しそうに顔を歪めている。

 頭を掴まれ、足が地面からわずかに浮いていた。

 グルメスモックがぎしぎしと軋む。

 俺から伸びる白い紐が震えている。

 切らしたら終わりだ。

 グルメスモックを切らしたら、ブラウスは絶対に死ぬ。

 

 毒雨ではない。

 

 こいつの手に握り潰される。

 俺は必死にカロリーを送り込んだ。

 白いスモックの密度を上げ、ブラウスの頭部を守る。

 だが、そいつの指の力が強すぎる。

 守りきれない。

 ブラウスの顔が苦痛に歪む。

 

「こいつはまずそうだな……」

 

 そいつはつまらなさそうに言った。

 そして、ブラウスを投げた。

 乱暴に、まるで食べ残しを捨てるように。

 

「ブラウス!」

 

 俺は地面から足を引き抜き、必死に駆けた。

 ブラウスの体を受け止める。

 衝撃で俺も後ろへ転がった。

 だが、グルメスモックが受け止めてくれた。

 ブラウスは咳き込みながらも、意識はある。

 

「ア、アマジンさん……」

 

「大丈夫か!?」

 

「はい……なんとか……」

 

 ほっとする暇はなかった。

 そいつはまだそこにいる。

 黒いこん棒を担ぎ、俺たちを見下ろしている。

 俺はブラウスを背に庇い、立とうとした。

 だが、足が震えた。

 腕も痛い。

 

 体内のカロリーが一気に減っている。

 

 五重番重落としの連発。

 

 ブラウスへの防御維持。

 

 攻撃を受けた衝撃。

 

 もう余裕がない。

 勝てる気がしない。

 

 初めて感じる恐怖が、体の奥から湧き上がってくる。

 俺は今まで、どこかで思っていたのかもしれない。

 

 この世界は千年後で、地球は開拓されていて、危険区も管理されている。

 だから、本当にどうにもならない相手には出会わない。

 どこかでそう思っていた。

 

 違った。

 

 宇宙は、地球の外は、こんなものを平然と送り込んでくる。

 俺の憧れたグルメ時代の先には、こんな怪物がいる。

 食材に辿り着くどころか、見逃されなければ死ぬ。

 

「だが」

 

 そいつは、つまらなさそうに鼻を鳴らした。

 

「人間を食いすぎると腹を壊すからなあ……エアも確認できたから、今日はもういいか」

 

「……?」

 

 俺は息を止めた。

 そいつは俺たちに興味を失ったように、体を反転させる。

 

「まぁ、遅かれ早かれダナ」

 

 意味深な言葉を残し、そいつは歩き出した。

 向かう先は、俺たちが来た毒雨草原の方だった。

 一歩ごとに地面が沈む。

 のろま雨が、そいつの緑色の肌をゆっくりと濡らしていく。

 だが、そいつはまるで気にしていない。

 

 黒い霧の方へ。

 

 毒雨草原へ。

 

 俺たちを完全に無視して進んでいく。

 俺は動けなかった。

 ブラウスも、俺の背後で震えている。

 

 追いかける?

 

 無理だ。

 

 逃げる?

 

 足が動かない。

 

 声を出すことすらできない。

 ただ、そいつの背中が黒い霧の中へ消えていくのを見ていた。

 やがて、完全に姿が見えなくなった。

 それでも、俺たちはしばらく動けなかった。

 のろま雨だけが、ゆっくりと降り続けている。

 俺はその場に膝をついた。

 全身から力が抜ける。

 肩で息をしながら、ブラウスの無事を確認する。

 

 生きている。

 

 俺も、生きている。

 

 勝ったわけではない。

 

 逃げ切ったわけでもない。

 

 ただ、見逃された。

 

 それだけだ。

 

 俺はその幸運に、ほっと肩をなでおろした。

 そして同時に、腹の奥が冷たくなるのを感じた。

 エアはすぐそこにある。

 けれど、それ以上に大きな何かが、もう地球へ来ている。

 いや、もう始まっているのかもしれない。

 俺が憧れた宇宙の冒険。

 

 その入口は、想像していたよりずっと恐ろしく、ずっと遠かった。

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