水面下で――すでに侵攻は始まっていた。
エリア七。
産声の樹。
その奥深くに存在する、ペアの泉。
そこは、この世のものとは思えないほど美しい場所だった。
巨大な樹々が天を覆い、幹の隙間から差し込む光は、七色の霧となって空気中に漂っている。
草木は静かに揺れ、風が吹くたびに、どこかで赤子の泣き声にも似た音が響く。
それは不気味ではない。
むしろ、生命が生まれる瞬間のような、神聖さを伴った音だった。
その中心に、泉がある。
ペアの泉。
水面は透明でありながら、見る角度によって金にも銀にも、青にも赤にも変わって見える。
ただの水ではない。
液体でありながら、味そのものが光になっているような輝き。
飲めば、新しい味覚が開く。
同時に、体が逆の性別になってしまう。
それがペアという食材の持つ特性だった。
地球のフルコースのスープ。あまりにも特殊な一品。
だが、その詳細は多く残されていない。
味、効能、危険性、摂取条件。
断片的な資料はある。
しかし、ペアそのものの発生原理については、現代でもほとんど解明されていなかった。
巨大な泉の中心には、繊細に輝く球体が浮かんでいる。
それは果実にも見え、宝石にも見え、胎児を包む膜にも見えた。
球体の表面から、絶えず淡い雫が溢れている。
その雫が泉へ落ち、ペアとなる。
なぜ湧き出すのか。
いつまで湧き出すのか。
誰にも分からない。
この場所も、現在では特別ビオトープとなり、IGOによって厳重に管理されている。
周囲には多重結界型の防護設備が張られ、空中には監視用の食材ドローンが飛び、地中には外敵感知用のグルメマテリアルセンサーが埋め込まれている。
地球のフルコースはどれも貴重だ。
だが、ペアだけは少し事情が違う。
養殖に成功していない。
人工培養も不可能。
成分解析はできても、発生条件を再現できない。
現代において、唯一、人の手で増やすことに成功していない食材。
それが、ペアだった。
故に、最も希少性が高い。
ペアの泉は、地球の食を支える宝の一つであると同時に、絶対に失うわけにはいかない場所だった。
その泉の前に、メリスタは立っていた。
IGO宇宙食材研究所所長。
白髪交じりの髪を後ろへ流し、深い皺の刻まれた顔で、静かに泉を見つめている。
普段の豪快さはない。
笑みもない。
彼はただ、何かを待つように立っていた。
周囲の警備員たちは、すでに下がらせている。
この場に残っているのは、メリスタ一人。
風が吹く。
産声の樹の葉が揺れる。
泉の中心で、ペアを生む球体が淡く脈打った。
「……来たか」
メリスタが呟いた。
次の瞬間、空気が歪んだ。
泉の向こう側。
木々の影から、一体の巨体が姿を現す。
緑色の肌。
岩のように盛り上がった筋肉。
手には黒いこん棒。
三メートルを超える体躯を持つ、ゴブリンにも似た宇宙の怪物。
グリーンニトロ系外宇宙勢力。
グリーントロル。
それは周囲を見回し、泉を見て、そしてメリスタに視線を止めた。
「お? まだ生きている奴がいたノカ」
濁った声。
人語。
知性。
そして、隠す気のない敵意。
メリスタは表情を変えなかった。
グリーントロルは、まるで挨拶でもするかのようにこん棒を持ち上げる。
そして、すぐに振り下ろした。
速い。
巨大な体からは想像できない速度で、黒いこん棒がメリスタの頭上へ落ちる。
並の美食屋なら、反応すらできずに潰されていただろう。
だが。
メリスタは片腕で、それを受けた。
轟音。
衝撃が地面を伝い、泉の水面が大きく揺れる。
周囲の草が円形に倒れ、樹々の葉が舞った。
それでも、メリスタは一歩も退いていない。
片腕でこん棒を受け止めたまま、静かに言う。
「グリーントロル……各地でちらほら発見情報はある。本攻めの前の斥候か?」
グリーントロルの目が細くなる。
「オマエ……どこまで知っている……?」
「全然知らん!」
メリスタは即答した。
そして、にやりと笑う。
「だからお前を捕獲し、情報をもらう」
「ハ……?」
グリーントロルの口元が歪んだ。
「ただの人間がカ?」
その言葉に、メリスタは笑った。
怒るでもなく、怯えるでもなく。
まるで懐かしい冗談を聞いた老人のように。
「ふふ。お前らにとっては、約千年という年月は小さなものかもしれぬ」
メリスタの足元から、静かに気配が立ち上る。
食欲。
長い年月をかけて積み上げられた、美食屋としての食欲。
それは炎のようでもあり、黒い霧のようでもあった。
「だが……その間に人間はより進化したぞ!」
メリスタが構える。
その瞬間、周囲の空気が重くなった。
ペアの泉の輝きが、わずかに陰る。
産声の樹がざわめく。
グリーントロルが、初めて警戒するように眉を動かした。
「悪魔共食(あくまきょうしょく)――」
メリスタの背後に、黒い影が広がった。
それは食卓だった。
闇でできた長いテーブル。
闇でできた皿。
闇でできたナイフとフォーク。
そして、その中央に座る巨大な何か。
顔は見えない。
ただ、口だけがあった。
星をも呑み込みそうな、大きな口。
「黒き饗宴(ブラック・バンケット)」
その名が告げられた瞬間、メリスタの中に眠るグルメ細胞の悪魔が目を開いた。
悪魔共食。
それは、発動者の肉体を燃料にする技ではない。
発動者の中に刻まれた“食欲の記憶”を燃料にする技である。
これまで食べてきた食材。
積み上げてきた経験。
細胞に刻まれた味。
美食屋として歩んできた人生そのもの。
それらを、自らのグルメ細胞の悪魔に喰わせる。
悪魔は記憶を味わい、喰らい、代償として一時的に莫大な力を与える。
ただし、使いすぎれば失う。
食材の味を。
出会った料理の感動を。
美食屋として積み上げてきた記憶を。
そして最後には、食への喜びそのものを。
だからこそ、それは禁じ手だった。
勝つために使う技ではない。
守るために、失う覚悟を決めた時だけ使う技。
メリスタは、静かに息を吐いた。
脳裏を、無数の味が流れていく。
若き日に初めて食べたグルメ界の果実。
命懸けで捕獲した猛獣の肉。
宇宙探査で口にした、重力の味がするスープ。
仲間と分け合った食卓。
帰還祝いの料理。
研究所で徹夜明けに食べた安いまかない。
それらの一部が、黒い食卓に並べられる。
悪魔が、口を開く。
そして、喰った。
メリスタの体から、黒い食欲が噴き上がる。
「なんだコレワ……!」
グリーントロルが一歩下がった。
その目には、メリスタの背後にいる巨大な怪物の姿が見えていた。
黒い食卓に座る、巨大なグルメ細胞の悪魔。
それは食材を見る目ではなく、料理を見る目でグリーントロルを見ていた。
「グルメ細胞の悪魔か……!?」
「さあな」
メリスタの声が、低く響く。
「お前らが口に合うかは知らんが、わしの悪魔は悪食でな」
次の瞬間、メリスタが消えた。
いや、消えたように見えた。
グリーントロルの反応速度を超え、懐へ入る。
黒いこん棒が動くよりも早く、メリスタの片手がグリーントロルの首へ伸びた。
指が食い込む。
グリーントロルの目が見開かれる。
「ナ――」
声は最後まで出なかった。
メリスタは、片腕を振り抜いた。
ぶちり、と鈍い音。
グリーントロルの首が、胴体から引きちぎられた。
巨体が一瞬遅れて崩れ落ちる。
地面が揺れた。
首を失った体が痙攣し、やがて動かなくなる。
グリーントロルは、絶命した。
戦闘と呼ぶには短すぎる。
圧倒。
それ以外に言葉はなかった。
「ふう……」
メリスタは小さく息を吐いた。
背後の黒い食卓が、霧のように消えていく。
悪魔の口も閉じた。
同時に、メリスタの体から力が抜ける。
膝をつくほどではない。
だが、明らかに消耗していた。
額に汗が滲み、呼吸が少し荒い。
たった数秒。
ほんの少しの時間だけだった。
それでも、悪魔共食は重い。
肉体ではなく、記憶を喰わせる技。
失った味は、戻らない。
「……今のは、何の味だったかのう」
メリスタは一瞬だけ眉をひそめた。
何かの記憶が欠けている。
だが、それを思い出そうとはしなかった。
今は、目の前の仕事が先だ。
彼は足元に転がるグリーントロルの頭部を見下ろす。
「頭部を潰さずに回収……かなり神経を使ったわ」
殺すだけならもっと簡単だった。
だが、目的は情報だ。
脳組織、細胞情報、記憶断片、通信痕跡。
捕獲できれば理想だったが、相手がペアの泉へ接近している以上、長引かせるわけにはいかなかった。
首を残したまま殺す。
それが、今できる最善だった。
上空から音が近づいてくる。
IGOのヘリだった。
迷彩加工された大型ヘリが、産声の樹の上空に現れる。
機体の横にはIGOのマーク。
下部ハッチが開き、太い梯子が垂れ下がる。
メリスタはグリーントロルの頭部と胴体をまとめて担ぎ上げた。
巨体は三メートルを超え、重量も常識外れだ。
だが、メリスタはそれを荷物のように肩へ担ぐ。
そして、地面を蹴った。
一気に跳躍する。
大木の枝を越え、ペアの泉の上を通り、上空のヘリへ向かう。
彼は空中で梯子を掴んだ。
片手で梯子を握り、もう片方でグリーントロルの遺体を担いでいる。
ヘリの中から隊員が叫ぶ。
「所長、ご無事ですか!」
「問題ない。すぐ研究所へ運べ。頭部を最優先で解析する」
「了解!」
メリスタは下を見た。
産声の樹。
ペアの泉。
中心で輝く球体。
そこから溢れ続ける、地球のフルコースの一つ。
この場所は守られた。
だが、これで終わりではない。
各地でグリーントロルの発見情報がある。
本攻めは、まだ先。
これは斥候。
あるいは、地球のフルコースの状態を確認するための先遣隊。
つまり、敵は本気で地球を狙っている。
メリスタの目が鋭くなる。
「グリーントロル……好きにはさせんぞ」
ヘリは高度を上げる。
巨大な樹々の上を越え、IGO研究所へ向けて飛び立っていく。
その下で、ペアの泉は何事もなかったかのように輝き続けていた。
美しい水面。
生命の音。
そして、その奥に潜む静かな危機。
水面下の侵攻は、すでに始まっている。
だが、人類もまた、ただ待つだけではなかった。