センチュリースープ研究所。
その名前を見ただけで、俺の胸は少し熱くなった。
IGOの食材研究所は数多くある。
グルメ界の食材。
宇宙食材。
猛獣の生態。
調理技術。
食材保存。
研究分野はいくらでもある。
だが、一品の料理を求めるためだけに専用の研究所があるのは、非常に珍しい。
それだけ、センチュリースープという料理が特別なのだ。
現在、センチュリースープは四つ存在すると言われている。
近年完成した、宇宙食材を含んで作られたIGO研究所の四代目センチュリースープ。
妖食界で作られた三代目センチュリースープ。
そして、伝説の料理人が作った二代目センチュリースープ。
初代は、元々天然に存在したというセンチュリースープだ。
すべて笑みが止まらないほどに旨い。
だが、その味の構成は全く異なる。
それぞれ別の深みを持っているという。
現在、実際に口にできるのは三代目と四代目のみ。
初代の味は失われている。
だが今、二代目センチュリースープの再現研究が進められていた。
そして。
残る食材は一つ。
そこまで来ているそうだ。
その最後の一つが何なのか。
それを探るため、ブラウスに助言を求めたいという話だった。
「それで、僕が呼ばれたのですが……」
研究所の受付を通りながら、ブラウスが俺を見る。
「それを話したら、アマジンも行きたいと……」
「行きたいに決まってるだろ!」
俺が言うと、案内役の研究員がぱっと顔を明るくした。
「そうですか! それはありがたいです。最高の美食屋の意見もぜひ聞きたい!」
「分かった!」
俺は力強く頷いた。
「飲ませて!」
「絶対飲みたいだけですね!」
「きゅ!」
肩の上ではむまるが鳴く。
「違うとはむまるは言っているぞ!」
「そうです、って言ってるでしょ!」
「きゅ!」
「ほら!」
「どっちでも返事が同じなんですよ!」
ブラウスは呆れながらも、少し笑っていた。
俺たちは研究員に案内され、研究所の奥へ進んだ。
厨房区画。
いや、厨房というには大きすぎる。
そこは研究施設であり、調理場であり、歴史を追いかける場所でもあった。
センチュリースープ。
二代目というのは、きっと小松のセンチュリースープに違いない。
あと一品。
すごいところまで来ている。
俺は内心で興奮していた。
三代目と四代目も気になる。
ここでは飲めないようだが、いつか絶対に飲みたい。
ただ、少し気になることもある。
セツ婆のセンチュリースープの記録は残っていないのだろうか。
未完成とはいえ、あれが小松のセンチュリースープのきっかけだったはずだ。
小松が今の状況を見れば、少し寂しそうにするかもしれない。
そんなことを考えているうちに、俺たちは巨大なガラスの鍋の前へ来ていた。
「おお……」
鍋の中に入っている食材は丸見えだった。
透明なガラス越しに、いくつもの食材が静かに煮込まれている。
正直、小松が作ったセンチュリースープの原材料はほとんど知らない。
工程自体を詳しく見られたわけではないからな。
だが、それでも感動する。
たとえ再現だとしても。
千年後の研究者たちが、失われかけた味を追いかけている。
その事実だけで、胸が熱くなった。
「とりあえず飲んでみてください」
研究員がスープを小さな皿に入れてくれた。
綺麗な透明なスープだった。
透き通っている。
だが、完成品にあったはずのオーロラは出ていない。
やはり未完成のようだ。
「いただきます」
「いただきます」
「きゅ」
俺は皿を口へ運んだ。
まず、香りが来た。
透明なのに深い。
いくつもの食材が複雑に絡み合っているのに、邪魔していない。
次に味。
「うまい……」
思わず声が漏れた。
透明とは思えない濃厚さ。
油っぽいわけではない。
重いわけでもない。
なのに、舌の上に幾重にも味が重なっていく。
甘味。
塩味。
旨味。
香り。
温度。
喉を通る頃には、体の中に小さな笑みが生まれるようだった。
未完成でこれか。
だが。
原作を知っているせいなのか。
確かに、何かが足りない気がする。
「確かに、何かが足りない感じがしますね」
俺が言う前に、ブラウスが言った。
さすがだ。
ブラウスは皿を置き、すぐに集中した表情になる。
「食材同士の繋がりはあります。味の重なりも綺麗です。ただ、最後に全体を笑わせるものがない」
「全体を笑わせるもの……」
研究員が小さく呟いた。
「少し、見てもいいですか?」
「もちろんです!」
ブラウスは鍋へ近づき、食材を一つずつ見始めた。
香りを確かめる。
スープの流れを見る。
火の入り方を確認する。
スプーンで一滴だけ掬い、舌に乗せ、また考える。
俺はその様子を、はむまると一緒にスープを飲みながら眺めていた。
「きゅ……」
「うまいよな」
「きゅ」
「でも、完成したらもっとすごいんだろうな」
「きゅい」
はむまるも興味津々だった。
いや、たぶん飲みたいだけだ。
俺も似たようなものだけど。
ただ。
俺には答えが分かる気がしていた。
最後の一品。
原作と同じであれば、ウォールペンギンの唾液に違いない。
でも、これを言ってしまっていいのか。
非常に迷う。
俺の知識は、普通の知識ではない。
前世で読んだ物語の知識だ。
まだ、ブラウスにも前世のことは話していない。
どう説明すればいい。
偶然知っていたと言うには、あまりにも核心に近すぎる。
そんなことを考えているうちに、俺はいつの間にかうとうとしていた。
目を覚ますと、数時間ほど経っていた。
研究所の照明は変わらない。
巨大なガラス鍋も、静かに湯気を上げている。
そしてブラウスは、いまだにセンチュリースープと向き合っていた。
資料を見ている。
食材を見ている。
スープを少量ずつ味わっている。
眉間には、少し疲れが見えた。
「ブラウス、ちょっと休もうぜ」
「……そうですね」
ブラウスはゆっくりと息を吐いた。
珍しく、はっきりと疲れている。
それだけ本気で向き合っていたのだろう。
俺たちは少し離れた休憩スペースへ移動した。
はむまるは俺の膝の上で、まだスープの余韻に浸っているように丸くなっている。
「どうだ? 分かりそうか?」
俺が聞くと、ブラウスは静かに言った。
「正直……分からないです」
「ブラウスでも分からないのか」
「はい」
ブラウスは悔しそうではあったが、それ以上に真剣だった。
「多分、最後のピースはこちらから探すものではないんです」
「こちらから探すものじゃない?」
「きっと何か……きっかけがあって。そう。歩み寄ってきてくれるような食材です」
「すごいな。そんなことも分かるのか……!」
俺は本気で感心した。
実際、原作のウォールペンギンは小松を選んだ。
その結果、センチュリースープは完成した。
ブラウスは答えを知らない。
それでも、そこまでにじり寄っている。
だが、ここには肝心のウォールペンギンがいない。
歩み寄ってくるような状況でもない。
そして、あの時点で絶滅危惧種だった。
今も存在しているのか。
その不安がある。
理由は四獣だ。
原作では、四獣がアイスヘルを破壊して進んでいた。
小松の元にいたウォールペンギンが、最後の一匹だったかもしれない。
もしそうなら。
もう、この世界には存在していない可能性もある。
しかし、ブラウスはそこまで迫っている。
なら。
俺は、言うべきなのかもしれない。
「ブラウス」
「はい」
「ここだけの話として聞いてほしい」
ブラウスの表情が変わった。
「俺、最後の食材が分かるかもしれない」
「え!?」
ブラウスが大きく目を見開く。
研究員たちには聞こえないよう、俺は声を落とした。
「だけど、言うか迷ってる。俺の知っているそれは、絶滅危惧種だった」
「絶滅危惧種……!」
ブラウスの顔が真剣になる。
「その食材は、絶滅危惧種を殺さないといけないのですね……」
「いや、そいつの唾液だから殺さずとも……!」
「アマジン!」
ブラウスが俺の言葉を遮った。
珍しい。
そして、その目はかなり輝いていた。
「なら教えてください」
「え?」
「研究のために、スープを少し分けてもらいます。現地で完成させてみましょうよ!」
「そ……それならいいか……?」
思っていたより、ブラウスは乗り気だった。
いつもなら慎重に止める側なのに。
今日は違う。
ブラウスは、もう一度ガラス鍋の方を見た。
「このスープ、再現と言っていましたが、すごいんですよ」
「すごい?」
「はい。なんというか、その方の歴史や重みをひしひしと感じます」
ブラウスの声には、料理人としての敬意があった。
「レシピをなぞっているだけではありません。失われた味を、必死に追いかけている。伝説の料理人が見た景色を、もう一度見ようとしている」
「……」
「すごくリスペクトできます」
ブラウスは静かに、しかしはっきりと言った。
「僕もその景色を見たい。ぜひこの手で完成させたいです」
俺は少し黙った。
小松。
伝説の料理人。
俺は前世で、その凄さを読んで知っている。
でもブラウスは違う。
資料と味だけで、その凄さを感じ取っている。
そして、自分の手で向き合おうとしている。
なら、俺も隠している場合じゃない。
全部はまだ言えなくても、今言えることはある。
「そこまで言うなら……」
俺は頷いた。
「行くか」
「はい!」
「アイスヘルへ!」
その名前を口にした瞬間、胸の奥が熱くなった。
氷の地獄。
天然のセンチュリースープが存在した場所。
そして、ウォールペンギンがいた場所。
千年後のアイスヘルに、まだ何が残っているのか。
それは分からない。
だが、行くしかない。
俺たちは、未完成のセンチュリースープを完成させるため、次の目的地を決めた。