原作の頃とは違い、俺たちははるか上空を高速ヘリで飛んでいた。
眼下に広がるのは、どこまでも続く海。
その先に、白い氷の塊がいくつも見え始めている。
アイスヘル。
かつて、センチュリースープが眠っていた氷の地獄。
俺は窓の外を見ながら、手元の資料に目を落とした。
一度、アイスヘルは四獣にばらばらにされてしまった。
その時、人類は大きく消沈したらしい。
無理もない。
美食の歴史に残る場所が、あっけなく砕かれたのだから。
だが、その後の調査で別の事実も分かった。
氷が割れた結果、地下深くにあったメタンハイドレートがかなり地表近くまで寄せられ、採掘が容易になっていたそうだ。
人類は一時、メタンハイドレートの採掘に力を入れた。
エネルギー資源としては魅力的だったのだろう。
しかし、ほどなくして再生屋協会から待ったがかかった。
理由は単純だ。
このまま採掘を続ければ、アイスヘルの冷気の流れが失われる。
冷気の流れが失われれば、氷はすべて溶ける可能性がある。
海域の温暖化が進み、暖流が流れ込めば、アイスヘルは一変してしまう。
そこに住む生物たちは、絶滅するかもしれない。
食材を得るために、食材が生きる場所を壊してしまう。
その危険がある以上、再生屋協会が止めたのは当然だった。
「見えてますよ。アイスヘル群島」
ブラウスの声に、俺は資料から顔を上げた。
「おお……」
窓の外。
そこには、俺の記憶にあるアイスヘルとは違う景色が広がっていた。
砕けた氷は、長い年月をかけて再び固まり、くっついている。
だが、以前のようなフラットな氷の世界ではない。
ひどく凸凹していた。
巨大な氷塊が斜めに突き出し、割れ目が谷のように走り、海から氷の柱が何本も伸びている。
中央にあったはずの大きな氷山も、もうない。
そこには、砕けた氷の残骸が寄り集まってできた、歪な白い大地があるだけだった。
「中央付近で降ります」
操縦席の研究員が言った。
今回、俺たちはセンチュリースープ研究所の調査協力という名目でここへ来ている。
俺とブラウス。
そして、はむまる。
ブラウスの保温容器には、未完成の二代目センチュリースープが少量だけ入っている。
もし最後の食材が見つかれば、ここで試すつもりだった。
そして、グルメマテリアルで作られたヘリは、温度変化などに非常に強いらしい。
人間界で侵入できない場所は、ほとんどないそうだ。
改めて思うが、すごい時代になったものだ。
かつては命を懸けて辿り着いた場所へ、今は空から行ける。
便利になった。
でも、その便利さが少しだけ寂しくもある。
ヘリは巨大な氷塊のそばに降りた。
風が冷たい。
顔を刺すような冷気がある。
だが、昔の記録にあるような、触れただけで命を削られるほどの地獄ではない。
アイスヘルは、確かに変わっていた。
目の前には、巨大氷塊でできた洞窟があった。
透明度の高い氷が重なり、入口は青白く輝いている。
かつて、天然のセンチュリースープが眠っていた場所に続く道。
資料と地形照合では、ここが最も近いらしい。
「まずはこの中を調査してみよう」
「はい」
「きゅ」
はむまるは俺の肩の上で、寒そうに丸くなっていた。
「大丈夫か?」
「きゅ」
「寒いなら中に入ってろ」
俺が服の胸元を少し開けると、はむまるはすぐに潜り込んだ。
ちゃっかりしている。
俺たちは洞窟の中へ入った。
内部は、綺麗な氷で包まれた世界だった。
壁も。
天井も。
床も。
すべてが青白く透き通っている。
光が氷の中で折れ曲がり、虹のような線を作っていた。
外の荒れた氷塊とは違い、洞窟の中は静かで、美しかった。
「美しいですね」
「ああ」
俺は小さく息を吐いた。
「実際に見ると、本当に違う……」
前世で読んだ景色。
記憶の中にある光景。
それは確かに俺の中に残っている。
だが、実際にこの目で見る氷の世界は、それとはまるで違った。
冷気の匂い。
足音の響き。
氷の奥で揺れる光。
全部が現実だ。
俺たちは光景に目を奪われながらも、慎重に進んでいった。
やがて、開けた場所に出た。
少し崩れてしまっている。
天井の一部は落ち、壁には大きな亀裂が走っていた。
だが、間違いない。
ここだ。
ごくわずかなセンチュリースープが眠っていた場所。
俺の記憶では、鉄平が最後の一滴を絞り上げた。
その時に散った、やせ細った食材たち。
それらが、地面で再び氷に埋まっている。
枯れたような肉片。
細くなった骨。
葉のようなもの。
貝のような殻。
何なのか分からない食材が、氷の中に閉じ込められていた。
ブラウスは、その食材をじっと見ていた。
「これが、太古のセンチュリースープの食材たちだと思う」
俺は言った。
「なるほど……!」
ブラウスの目が大きく開く。
「素晴らしいです」
「素晴らしいのか?」
「はい。センチュリースープは最初、天然物だったと聞いて、にわかには信じられませんでした。ですが……これを見れば納得です」
ブラウスは氷に顔を近づける。
「一つの料理としてまとまるような食材たちが、自然にこの場所へ集まり、長い時間をかけて溶け合っていた。これは人間の鍋ではなく、地球そのものが作った鍋だったんですね」
「地球そのものが作った鍋か……」
その言葉は、しっくりきた。
天然のセンチュリースープ。
誰かが作ったわけではない。
地球が、食材と時間で作った料理。
ブラウスは氷の中の食材をじっくりと見た。
だが、しばらくして少し眉を下げた。
「さすがに分からない食材が多いですね」
「そうか」
「太古の食材で、そのまま再現するのは難しそうです。多分、絶滅した食材も含まれているでしょうし……」
「だよな」
俺は氷の中の食材を見る。
ここにあるのは、もう食べられない過去だ。
味の残骸。
記録の欠片。
それでも、残っているだけすごいのかもしれない。
その後、俺たちは周辺をしっかり調査した。
氷の奥。
割れた通路。
崩れた空間。
かつて生物が隠れていそうな場所を必死に探した。
ブラウスは食材の気配を探り、俺も美食物質の線を追った。
はむまるも鼻をひくひくさせて、氷の隙間を覗き込んでいた。
だが。
生命の音が、一切しなかった。
風の音。
氷の軋む音。
遠くで海がぶつかる音。
それだけだ。
生き物の気配がない。
ウォールペンギンどころか、小さな猛獣の気配すらなかった。
「一時、メタンハイドレートの採掘が盛んで、機械も多く搬入されていたと聞きます」
ブラウスが静かに言った。
「その時に……生物は皆、どこかへ散ってしまったのかもしれませんね」
「そう……か」
俺は返事をした。
だが、言葉がうまく続かなかった。
小松のセンチュリースープを飲めると思った。
もしかしたら、ウォールペンギンが残っていて、あの最後の一品に辿り着けるかもしれないと思った。
だが、現状では難しそうだ。
ここは完全に氷だけの世界に変わってしまった。
美しい。
けれど、静かすぎる。
かつて食材たちが集まり、天然のスープを作っていた場所。
そこに今あるのは、氷と記録だけだった。
「残念だな……」
俺は小さく呟いた。
ブラウスは少し考えてから、明るく言った。
「でも、きっと元々いた生物もどこかで暮らしていると思いますよ!」
「……」
「採掘が止まったのなら、戻ってくるものもいるかもしれません。あるいは別の場所で命を繋いでいるかもしれません」
「いつかまた会える、か?」
「はい。いつかまた会えます!」
俺はブラウスを見る。
ブラウスは本気でそう言っているようだった。
料理人として、食材を信じている。
命は簡単には終わらないと信じている。
「そうだな」
俺は頷いた。
「きゅ」
胸元から顔を出したはむまるも、小さく鳴いた。
慰めてくれているのかもしれない。
「ありがとうな、はむまる」
「きゅい」
俺たちは最後にもう一度、センチュリースープが眠っていた場所を見た。
氷の中で、太古の食材たちは静かに眠っている。
小松のセンチュリースープ。
鉄平が絞り上げた最後の一滴。
その記憶は、もうここにはないのかもしれない。
でも、完全に消えたわけではない。
研究所が追いかけている。
ブラウスが感じ取った。
俺も見に来た。
なら、まだ終わってはいない。
さみしい気持ちを残しつつも、俺たちはアイスヘルを後にした。
高速ヘリが氷の群島から離れていく。
窓の外で、凸凹した白い大地が少しずつ遠ざかる。
俺はそれを黙って見ていた。
現実は厳しいな。
前世で読んだ場所が、そのまま綺麗に残っているとは限らない。
千年という時間。
四獣の爪痕。
人類の採掘。
再生屋協会の警告。
守られたもの。
失われたもの。
全部がそこにあった。
一瞬、目を背けたくなる気持ちも出た。
原作の記憶のまま、美しい思い出として残しておきたい気もした。
だが、それでも。
俺は見ておきたい。
その後の世界を。
変わってしまった場所も。
残っている場所も。
もう食べられない味も。
いつかまた出会えるかもしれない命も。
全部、俺の足で巡っておきたい。
「次は、どうしますか?」
ブラウスが聞いた。
俺は少しだけ考えて、窓の外の白い世界を見たまま答えた。
「まだ行こう」
「はい」
「地球には、まだ見てない場所がたくさんあるからな」
「きゅい」
はむまるが肩の上で鳴いた。
俺は小さく笑った。
失われた味を探す旅は、簡単じゃない。
でも、だからこそ。
見に来てよかったと思った。
――帰り道
「アマジン」
ブラウスが、少しだけ明るい声で言った。
「気分転換に、水族館でも行きますか?」
「水族館か!」
俺は思わず顔を上げた。
「そういえば、入ったことはないな」
「最近の水族館はすごいですよ。食材展示だけではなく、生態保護や繁殖研究も兼ねていますから」
「へぇ……」
「それに、ウォールペンギンのショーがすっごく可愛いらしいです!」
「ウォールペンギンのショー!?」
俺は思わず声を裏返らせた。
ブラウスはグルメデバシーを操作し、画面を俺に見せてくれる。
そこには確かに、こう書かれていた。
ウォールペンギン・スマイルショー。
ころころしたウォールペンギンたちが、氷のステージの上で並んでいる写真まで載っている。
「ウォールペンギンって、絶命危惧種じゃないの?」
「え?」
ブラウスが不思議そうに首を傾げた。
「いっぱいいますよ」
「……そうか」
俺は画面に映るウォールペンギンを見つめた。
小さくて、丸くて、どこか頼りない顔をしている。
でも、ちゃんと生きている。
しかも、水族館でショーができるほどに。
「じゃあ、今度見に行こうぜ!」
「はい!」
「きゅい!」
はむまるも元気よく鳴いた。
よかった。
ウォールペンギンは、長い年月をかけて絶滅危惧種ではなくなっていたんだな。
アイスヘルにはいなかった。
でも、世界から消えたわけじゃなかった。
そう思うだけで、胸の奥に残っていた冷たいものが、少しだけ溶けた気がした。