俺たちは、なんとかエアの実がなる場所へと到達した。
のろま雨の丘の奥。
ゆっくりと降る大粒の雨を抜け、重い空気の中を進んだ先。
そこには、不思議な景色が広がっていた。
丘の斜面に、奇妙な植物がいくつも生えている。
太い茎。
風船のように膨らんだ葉。
そして、その先端に実る丸い果実。
エア。
地球のフルコースの一つ。
前世で漫画を読んでいた頃から、ずっと憧れていた食材。
今、俺の目の前にある。
だが――。
「……誰もいない」
俺は足を止めた。
エアの実る場所には、本来なら他の挑戦者がいてもおかしくないはずだった。
危険区とはいえ、ここは特別管理ビオトープ。
美食屋候補やハンター、料理人、観察員。
少なくとも、誰かしら人の気配があると思っていた。
だが、見える範囲に人影はない。
あるのは、散らばったポシェット。
壊れた装備。
泥にまみれたグルメID同期端末。
そして――人骨と思われる骨の残骸だった。
喉が詰まる。
ブラウスが息を呑む音が聞こえた。
骨は、いくつもあった。
一人分ではない。
何人もの挑戦者が、ここで命を落としたのだ。
理由は考えるまでもない。
先ほどのグリーントロル。
あいつが言っていた。
エア付近にいたやつらは、粉々になったと。
実際には、粉々というより食われた後なのだろう。
散らばった荷物。
残された骨。
そして、生きている者が一人もいないこの場所。
全てが、あいつの通った跡だった。
「もし……」
俺は無意識に呟いていた。
もし、毒沼蛇を食っていなかったら。
もし、ブラウスを見つけず、もっと早くにここへ到達していたら。
もし、あのグリーントロルがエアを確認しに来た時、この場所に俺たちがいたら。
考えるだけで恐ろしかった。
俺たちは強くなったわけではない。
勝ったわけでもない。
ただ、運が良かった。
毒沼蛇を仕留めたこと。
ブラウスを見つけたこと。
料理を食べて休んだこと。
その一つ一つが、偶然にも俺たちを死の時間からずらしてくれただけだ。
俺は改めて、自分たちがどれほど危ない橋を渡っていたのかを実感した。
隣では、ブラウスが骨の残骸をじっと見つめていた。
青ざめているのかと思ったが、少し違う。
彼は恐怖だけではなく、何かを観察するような目をしていた。
「どうした?」
俺が声をかけると、ブラウスは少し迷ってから答えた。
「いえ……何というか、綺麗に食べてるなと……」
「……綺麗に?」
俺は思わず聞き返した。
ブラウスは小さく頷く。
「はい。猛獣に食い荒らされた跡というには、食い跡が綺麗すぎます」
言われて、俺も骨を見る。
たしかに。
残されたのは、ほとんど骨だけだった。
肉の部分はほとんど残っていない。
噛み砕かれた骨もあるが、全体的に無駄が少ない。
ただ暴れて食い荒らしたというより、食べられる部分を的確に食べたようにも見える。
グリーントロル。
あいつはただの獣ではない。
知性があり、言葉を話し、食材を選ぶ。
人間を食いすぎると腹を壊す、と言っていた。
つまり、あいつにとって人間は完全な食材ではない。
それでも、食った。
必要だからか。
邪魔だったからか。
あるいは、ただ味見しただけなのか。
「いや……そこに注目するのか……」
俺は思わず少し引いた。
ブラウスは慌てて首を振る。
「す、すみません。料理人として、つい……」
「いや、分かる。分かるけど、今のはちょっと怖かった」
「すみません……」
こんな状況で、少しだけ空気が緩んだ。
ありがたい。
でなければ、俺は恐怖に飲まれて動けなくなっていたかもしれない。
俺は深呼吸し、視線を上げた。
「とはいえ!」
あえて明るく声を出す。
「見ろこれ! エアがたくさんなっているぞ!」
目の前には、スイカほどのサイズのエアがいくつも実っていた。
漫画で見た、あの超巨大なものではない。
現在のビオトープで育つ保護管理種だからだろう。
だが、それでも嬉しかった。
エアだ。
本物のエア。
地球のフルコースの一つ。
前世からの憧れ。
俺は思わず近づき、手を伸ばしかけた。
そして、固まった。
ここで、重大な問題を思い出した。
二千万円。
エアを収穫し、持ち帰る場合、一玉につき二千万円の管理費用が発生する。
調理費用込みとはいえ、俺の所持金では到底払えない。
今、目の前にエアがある。
たどり着いた。
だが、金がない。
現実が強すぎる。
「……どうする」
俺は頭を抱えた。
ここで食べるならどうなる?
持ち帰らなければ管理費用は発生しないのか?
いや、収穫した時点で登録されるのか?
そもそも勝手に食べていいのか?
入場時の規約をもっとしっかり読んでおくべきだった。
あの時は二千万円の衝撃で頭が真っ白になっていた。
そんなことを考えていると――。
「アマジンさん!」
ブラウスの声がした。
振り向く。
ブラウスは、両腕にエアを抱えていた。
しかも一つではない。
三つ。
「とってきましたよ!」
「おま……お……」
俺は言葉にならない声を漏らした。
「三つで六千万円だぞ!!?」
思わず叫ぶ。
のろま雨の丘に、俺の声が響いた。
「もいだらもう、ここで食うか持って帰るかしないとダメだろう!」
ブラウスはきょとんとしている。
俺ほど金額の重さを感じていないらしい。
いや、違う。
ブラウスはたぶん、金銭感覚が俺と違う。
響金包丁ハルシアやメルクの星屑を持っていた時点で薄々分かっていたが、彼はかなり特殊な家の出なのかもしれない。
「アマジンさん、一つずつ持って帰って、一つはここで食べましょう!」
「いやでも俺、実は……」
言うのが恥ずかしかった。
だが、言わないわけにはいかない。
「二千万円も持ってねーんだ……」
ブラウスは目を瞬かせた。
そして、当然のように言う。
「何言ってるんですか。そんなの僕が出しますよ」
「いや、さらっと言うな!」
「ここまで来られたのは、アマジンさんのおかげなんです」
ブラウスは、抱えたエアを大事そうに見下ろした。
「僕一人だったら、毒雨草原で死んでいました。アマジンさんが見つけてくれて、食材を分けてくれて、グルメスモックで守ってくれたから、ここまで来られたんです」
「いや、でも……」
「お願いします。このくらいしか、お礼ができません」
真っ直ぐな目だった。
俺は言葉に詰まった。
本当は、簡単に受け取るべきではないのかもしれない。
二千万円。
いや、三つなら六千万円。
俺の感覚では、とんでもない金額だ。
でも、ここで断ることが本当に正しいのか。
ブラウスは、自分の意思でお礼をしたいと言っている。
俺も、エアを食べたい。
美食屋になるために、地球のフルコースを食べたい。
しばらく悩んだ。
そして、俺は頭を下げた。
「……分かった。ありがたく乗らせてもらう」
ブラウスの顔が少し明るくなる。
「はい!」
「ただし、いつか絶対返す。金じゃなくても、何かの形で」
「楽しみにしてます」
そう言って、ブラウスは笑った。
俺も笑う。
ようやく、少しだけ心が軽くなった。
「じゃあ、食べよう」
「はい」
俺たちは、のろま雨の丘に腰を下ろした。
周囲にはまだ骨が残っている。
グリーントロルの痕跡もある。
不安が消えたわけではない。
だが、今は食べる。
目の前にある食材と向き合う。
それが、美食屋を目指す俺にできることだった。
ブラウスは、エアを丁寧にさばいていった。
響金包丁ハルシアの刃が、エアの表面に触れる。
果実というより、空気の塊に刃を入れているようだった。
切れ目が入るたびに、ふわりと透明な香りが広がる。
空気に香りがある。
そんな矛盾した表現が、一番しっくりきた。
トリコがいた頃、エアはそのまま食べるのが一番うまいとされていた。
それは今現在でも変わっていないらしい。
もちろん、もし小松たちがここにいたなら、さらに美味しい調理法を既に知っているかもしれない。
あの料理人なら、エアをもっと高次元の一皿へ変えてしまうのかもしれない。
だが、今の俺たちにできる最高は、これだった。
「エアは、そのままが美味しいんです」
ブラウスは言う。
「ですが、斬り方を工夫すると旨味が増すんです」
「斬り方で?」
「はい。エアは中に含まれる空気の層が複雑なんです。力任せに切ると、香りが逃げてしまいます。でも、層に沿って切れば、口に入れた時に空気がほどけるように広がります」
そう言いながら、ブラウスはエアを切っていく。
刃は静かだった。
肉を切る時のような音も、野菜を刻む時のような音もない。
ただ、空気を整えるように、包丁が動く。
皿代わりの大きな葉の上に、エアが盛られていく。
透明で、瑞々しく、光を含んだ果肉。
のろま雨の大粒が近くに落ち、その光を反射する。
皿に盛られたエアは、本当に美味しそうだった。
俺は手を合わせた。
この世界に来てから約十五年。
転生して、憧れたトリコの世界が千年後だと知って、少し落ち込んで。
それでも美食屋を目指そうと決めて。
学園で一位を取って。
エアのビオトープへ来て。
ガララワニを食べて。
毒雨草原を越えて。
ブラウスと出会って。
グリーントロルに殺されかけて。
そして今、俺は夢にまで見た地球のフルコースの一つを口にしようとしている。
「いただきます」
エアを口に運んだ。
瞬間――世界が開いた。
最初に感じたのは、味ではなかった。
呼吸。
息がうまい。
空気が食材になる。
いや、食材が空気になる。
噛むたびに、口の中で透明な旨味がほどけていく。
甘い。
だが、果物の甘さではない。
涼しい。
だが、冷たいわけではない。
軽い。
なのに、体の奥へ深く沈んでいく。
エア。
その名の通り、空気そのもののような食材。
けれど、ただの空気ではない。
生命が呼吸することの喜び。
酸素が体に満ちることの快感。
生きているという感覚そのものが、味になっている。
細胞が躍動する。
一嗅ぎしただけで、高濃度の酸素が目の毛細血管の隅々まで行き渡る。
視界が一瞬で広がった。
丘の先。
空の彼方。
雲の流れ。
地上から宇宙が見渡せるほど、視力が上がったような錯覚。
いや、錯覚ではない。
見える。
遠すぎるものが、今だけ少し近く見える。
食べると、呼吸で体内に入ってくる酸素量が増大するという。
血流が良くなり、新陳代謝が活発になる。
一呼吸で擦り傷が消え、二呼吸で切り傷が塞がり、三呼吸でナイフの深い刺し傷も治り始める。
さらに呼吸を重ねると、骨折や重い火傷すら治るほど自然治癒力が上がる。
食べた直後なら、海に何十時間も潜っていたり、酸素の全くない場所で数日過ごせるようになる。
資料にはそう書かれていた。
今なら分かる。
実感として、それがある。
グリーントロルのこん棒を受けた両腕。
骨まで響いていた痛み。
毒雨草原で削られた体。
疲労。
傷。
それらが、呼吸のたびに消えていく。
一呼吸。
痛みが引く。
二呼吸。
熱が戻る。
三呼吸。
腕の違和感が消える。
さらに呼吸を重ねる。
完治した。
あのこん棒で叩かれた腕が、もう治っている。
俺は自分の両腕を見た。
動く。
痛くない。
グルメ細胞が、エアの力を取り込んでいる。
「旨すぎる……」
言葉が漏れた。
ただ美味いだけではない。
生き返る味だ。
命が息を吹き返す味。
俺は夢中で食べた。
ブラウスも黙々と食べている。
彼の白い髪が、エアの光を受けて淡く輝いていた。
俺たちは二人で、その食事をひたすらに堪能した。
のろま雨がゆっくりと降る。
エアの香りが広がる。
遠くには、誰かの骨がある。
死と、生。
恐怖と、味。
その全てが、この一皿に詰まっている気がした。
俺は心から思った。
来てよかった。
怖かった。
死ぬかと思った。
それでも、ここまで来てよかった。
俺は確かに、地球のフルコースの一つを食べた。
・・・
食事を終えた俺たちは、残りのエアを慎重に保存した。
一つは俺が持ち帰る。
一つはブラウスが持ち帰る。
持ち帰り登録と管理費用については、ブラウスが端末であっさり処理してくれた。
画面に表示された金額を見て、俺は心臓が止まりそうになった。
だが、ブラウスは本当に平然としていた。
すごい。
金銭感覚が違いすぎる。
帰路につく頃には、俺たちの体力はかなり戻っていた。
エアのおかげで呼吸が楽だ。
毒雨草原を戻るのも、来た時よりずっと楽になるだろう。
もちろん油断はできない。
グリーントロルが向かった方向も、毒雨草原だった。
再び遭遇する可能性はゼロではない。
だが、俺たちは進むしかなかった。
のろま雨の丘を後にし、黒い霧へ向かう。
その道中、俺はブラウスに聞いた。
「ブラウス、これからどうするんだ?」
ブラウスが振り向く。
白い髪が、のろま雨の中で揺れた。
俺としては、残りのフルコースも共に取りに行きたい。
だが口に出さなかった。
ブラウスの料理はすごい。
一緒にいてくれれば、これ以上心強い相棒はいない。
俺が食材を捕り、ブラウスが料理する。
それは、きっと最高の旅になる。
でも、それは俺の都合だ。
ブラウスは、自分の意思でここへ来たわけではない。
無理やり連れてこられ、毒雨草原に放り込まれた。
彼は料理が好きだ。
食材を取りに行くことが好きなわけではない。
ブラウスはしばらく黙っていた。
そして、静かに口を開く。
「僕は、アマジンさんと出会えたことに本当に感謝しています」
その声は、昨日よりもずっと落ち着いていた。
「僕は、アマジンさんに出会わなければ死んでいたかもしれません」
「そんな大げさな……」
「大げさじゃありません」
ブラウスは首を振る。
「でも……やはり、料理だけしたいという気持ちは変わらないです」
「そうか……!」
俺は頷いた。
少しだけ胸が痛んだ。
だが、不思議と嫌ではなかった。
ブラウスは逃げているわけではない。
自分のやりたいことを、ちゃんと分かっている。
それはむしろ、すごいことだと思った。
「エアを持って帰って、もう一度父を説得します!」
ブラウスの目には、はっきりとした意志があった。
「僕は食材を取りに行くより、料理がしたい。けれど、何も知らないまま嫌だと言うのではなく、ちゃんとエアまで行って、食べて、それでも料理がしたいんだと伝えます」
「説得、頑張れよ!」
「はい!」
ブラウスは少し笑った。
それから、今度は俺に聞く。
「アマジンさんは、残りのフルコースも集めるんですか?」
「おう!」
俺は迷わず答えた。
「俺は美食屋になりてーからな!」
ブラウスは目を細めた。
「あんな怖い目にあっても……全然折れないんですね」
俺は少し考えた。
怖かった。
それは間違いない。
グリーントロルに出会った時、俺は本気で死を感じた。
勝てる気がしなかった。
ブラウスを守れないかもしれないと思った。
今思い出しても、手が震えそうになる。
でも。
「怖かったが……美食屋になりたいって気持ちは変わらねえ」
俺は正直に言った。
「むしろ、もっと強くならなきゃって思った。あんな奴がいるなら、なおさらだ。俺はまだ何も知らない。地球のフルコースも、宇宙も……全部、まだ遠い」
俺は拳を握る。
「だから、行く。残りのフルコースも食う。ちゃんと美食屋になる」
ブラウスは、しばらく俺を見ていた。
そして、穏やかに笑った。
「そうですか。応援しています」
「ありがとう!」
その言葉は嬉しかった。
正直、寂しい。
ブラウスと一緒なら、もっと楽しい旅になると思った。
彼の料理を、もっと食べたいと思った。
でも、無理やり連れて行くものではない。
そんなことをすれば、ブラウスの父親と同じになってしまう。
俺は美食屋になりたい。
食材を追いたい。
でも、誰かの食欲を無理やり自分の旅に巻き込むような美食屋にはなりたくない。
俺たちは並んで歩いた。
目指すは入口。
帰り道はまだ長い。
毒雨草原も、蜂の巣平野も、ビオトープの出口も越えなければならない。
それでも、来た時より心は軽かった。
俺はエアを食べた。
地球のフルコースの一つを、この体に刻んだ。
ブラウスは自分の言葉で父を説得すると決めた。
俺たちは、それぞれの道へ進もうとしている。
別れは少し寂しい。
だが、これは終わりではない。
きっとまた、どこかの食卓で会える。
そんな気がした。