黒く、長い食卓。
どこまでも続いているように見えるその卓上には、無数の白い皿が並べられていた。
だが、そのすべてが空だった。
料理もない。
香りもない。
食器が触れ合う音さえ聞こえない。
あるのは、冷たく重い静寂だけ。
「……やはり、居ないか」
メリスタは食卓の端に立ち、誰も座っていない席を見回した。
ここはかつて、黒き饗宴の悪魔――ノスタルがいた場所。
メリスタが食った料理の記憶。
味。
香り。
喜び。
それらを喰らい続けていた悪魔の食卓。
以前なら、この場所を訪れれば必ず食事の音が聞こえていた。
皿の上に置かれた記憶を、ノスタルが黙々と食べ続けていた。
だが、今は空の皿が並んでいるだけだ。
「一体、どこへ行ったのだ……」
メリスタの声が、長い食卓の上を虚しく流れていく。
返事はない。
ノスタルがこの場所から姿を消したのは、数年前のことだった。
・・・
その日も、黒い食卓には無数の料理が並んでいた。
メリスタが過去に食べた食事。
忘れたくない味。
忘れてしまった味。
ノスタルはその一つ一つを、ゆっくりと口へ運んでいた。
「なあ、ノスタル」
メリスタは食卓の向かい側へ座り、腕を組んでいた。
「何ダ」
「わしな、自分だけのフルコースというものを作ってみようと思う」
その言葉を聞いた瞬間。
ノスタルの手が止まった。
皿から持ち上げられていた一切れの肉が、口へ運ばれる直前で静止する。
「……どうした?」
ノスタルは肉を見つめたまま、低い声で呟いた。
「ソウカ」
「む?」
「この宇宙から消えたはずの概念」
ゆっくりと顔が上がる。
「人生のフルコース。思いだしタノカ」
「む、そんな大層なことか?」
メリスタは首を傾げた。
「アマジンから聞いた時も、皆すぐに受け入れていたぞ!」
「アマジン……」
ノスタルの目が僅かに細くなる。
「ソウカ」
「何を一人で納得しておる」
「概念は連鎖的に広まル」
ノスタルは手にしていた肉を皿へ戻した。
「ましてや、本能の根幹に近いものハナ」
「一体なんの話をしておるのだ?」
「人生のフルコースを思い出したのナラ……」
ノスタルの声が、先ほどまでよりも低くなる。
「お前たち人類は、また脅威とされるカモシレヌ」
「脅威?」
メリスタは眉を寄せた。
「誰にだ?」
「……」
「ノスタル?」
返事はない。
この時のメリスタは、本当に軽い気持ちで伝えただけだった。
自分もアマジンのように。
いや、かつての人々のように。
人生を通して集める、自分だけのフルコースを作ってみたい。
ただ、それだけの話だった。
メリスタにとっても。
その話を聞いた多くの人々にとっても。
人生のフルコースという考えは、初めて聞いたにもかかわらず、不思議なほど自然に受け入れられるものだった。
好きな食材。
忘れられない料理。
人生を象徴する一皿。
誰もが一度聞けば、自分なら何を選ぶか考え始めた。
だが。
ノスタルにとって、その概念が再び現れたことは、非常に大きな出来事だったらしい。
「ここで食っている場合ではナクナッタ」
ノスタルが席を立つ。
「なんじゃ、急に」
メリスタも立ち上がった。
「おい、どこへ行く!」
「我のグルメ細胞の元へ、一度戻ル」
「グルメ細胞の元……まさか」
ノスタルの身体が黒い霧へ変わり始める。
食卓の上に並んでいた料理も。
食器も。
黒い椅子も。
次々に闇の中へ溶けていく。
「待て! まだ話は終わっておらんぞ!」
「確認しなければナラヌ」
「何をだ!」
ノスタルは答えなかった。
黒い霧は渦を巻き。
最後に残ったその目も、闇の中へ消えていく。
「おい、ノスタル!」
メリスタの声が響いた時には、すでに悪魔の姿はなくなっていた。
・・・
・・
・
・
そして現在。
ノスタルは、とある星へ来ていた。
星と呼ぶには、あまりにも小さい。
地球の月よりも遥かに小さく、強い重力も、大気の層もほとんど存在しない。
本来なら、生物が暮らせるような場所ではなかった。
だが、その小さな星の上には、一軒の小屋が建っていた。
木造の古びた小屋。
その隣には、小さな畑。
畑には不揃いな野菜が植えられ、弱い星明かりを浴びながらゆっくりと葉を揺らしていた。
小屋の前には、一人の老人が置いた椅子に座っていた。
白い髭。
痩せた身体。
麦わら帽子を顔の上へ乗せ、大きないびきをかいている。
ノスタルは老人の前へ立った。
「ギタウヌ会長」
「ぐごご……」
「オイ」
「ぐが……」
「オキロ」
返事がない。
ノスタルは老人の椅子を蹴った。
「ぬおっ!?」
椅子が大きく傾き、老人が地面へ転げ落ちる。
「なんじゃ! 隕石か! 敵襲か!」
「我ダ」
「ん?」
老人は地面へ座り込んだまま、ノスタルを見上げた。
眠そうだった目が、僅かに見開かれる。
「おお、ノスタル!」
老人はすぐに笑顔を見せた。
「久しぶりじゃのう!」
「ギタウヌ会長」
「あと、わしは元会長じゃ」
「そこはどうでもイイ」
「どうでもよくないわい。隠居してから何百年経ったと思っとる」
ギタウヌは立ち上がると、腰についた土を払った。
「それで、どうした。お前がここへ来るとは珍しい」
「人々が、人生のフルコースを思い出しタ」
「ほう、人生のフルコースを――」
ギタウヌの動きが止まる。
「なにぃ!?」
老人の叫び声が、小さな星全体へ響き渡った。
「絶対に思い出せんようになっていたはずじゃ!」
先ほどまでの眠気は完全に消えている。
「その発想にすら至らぬように……概念そのものを宇宙から切り離したはずじゃぞ!」
「アマジンという少年が言いだしたヨウダ」
「アマジン……」
ギタウヌはその名を口にし、目を閉じた。
記憶を探るように。
遠い過去を見つめるように。
やがて、その口から小さな息が漏れた。
「終末の食客の一人か」
「知ってイルノカ」
「名前だけはな」
ギタウヌは畑の向こう。
暗い宇宙に浮かぶ星々へ視線を向けた。
「なるほど……概念を持ったままだったか」
「ドウスル?」
「……」
しばらく沈黙が続いた。
畑の葉が揺れる。
風など存在しない星であるにもかかわらず、何かの気配に怯えるように。
「一度、地球へ戻るとしよう」
ギタウヌが呟く。
「思い出したというのなら……詳細を伝えるべきじゃ」
「全てヲカ?」
「そうじゃ」
ギタウヌは小屋へ向かって歩き始めた。
「中途半端な状態が、一番危険じゃ」
「人生のフルコースを知るだけデカ?」
「知っただけならば、まだよい」
小屋の扉へ手をかける。
「問題は、集め始めた時じゃ」
ギタウヌは振り返らない。
「人生のフルコースは、ただ好きな料理を並べる遊びではない」
ノスタルは黙って聞いている。
「集める者の食欲を完成させる」
古びた扉が軋みながら開く。
「そして完成した食欲は、世界の在り方すら変えてしまう存在を生む」
「……」
「かつて、それによって宇宙は滅びかけた」
小屋の中は暗い。
だが奥には、長い間使われていなかった装備や衣服が並べられていた。
ギタウヌは麦わら帽子を脱ぎ、椅子の背へ置く。
「だから消したのじゃ」
「人生のフルコースという概念ヲ」
「そうじゃ」
ギタウヌは棚から、古びた上着を取り出した。
袖を通し。
長く眠っていた杖を手に取る。
曲がっていた背筋が、ゆっくりと伸びていく。
畑で眠っていた老人の姿が消え。
そこに立っていたのは、かつて巨大な組織の頂点にいた男だった。
「じゃが、再び現れた」
ギタウヌは小屋の外へ出る。
その目には、先ほどまでなかった鋭い光が宿っていた。
「ならば、逃げていても仕方あるまい」
「地球へ行くノカ」
「うむ」
ギタウヌは小さな畑へ目を向ける。
「少しばかり、留守にするぞ」
誰に言うでもなくそう告げると、杖の先で地面を一度叩いた。
小さな星が震える。
畑の周囲に埋められていた石が浮かび上がり、光を放ち始めた。
星空の一部が歪む。
遥か彼方。
青い星へ続く道が開かれていく。
「行くぞ、ノスタル」
「分かっタ」
「地球の者たちがどこまで知っているのか、確かめねばならん」
ギタウヌとノスタルは、歪んだ空間の前へ並ぶ。
「そしてアマジンという青年にも、会わねばならんようじゃ」
二人は光の中へ足を踏み入れた。
小さな星には、再び静寂が戻る。
古びた小屋。
小さな畑。
風のない場所で揺れる葉。
その傍らに残された麦わら帽子だけが、星明かりを浴びていた。