――ギタウヌ書記。
人生のフルコース。
かつて、それを決めることは当たり前のことだった。
美食屋だけではない。
料理人だけでもない。
老若男女。
身分も。
種族も。
暮らす場所も関係なく。
誰もが自分の人生を彩る料理を選び、それを一つのフルコースとして記していた。
前菜には、初めて食欲を知った一皿を。
スープには、凍えた身体を温めてくれた一杯を。
魚料理には、海を越えた先で出会った食材を。
肉料理には、生涯を懸けて捕獲した獲物を。
主菜には、自らの人生を変えた味を。
サラダには、大切な者と育てた野菜を。
デザートには、幼い頃から愛した甘味を。
ドリンクには、最期の瞬間にも口にしたい一杯を。
その内容は、人によって違った。
高価な食材を選ぶ者もいれば、どこにでもある家庭料理を選ぶ者もいた。
生涯を費やさなければ捕獲できない幻の食材を求める者もいた。
家族が作った一皿を、何よりも大切にする者もいた。
正解など存在しない。
他者と比べるものでもない。
人生のフルコースとは、その者が何を食べ、何を愛し、どのように生きたのかを示すものだった。
誰もが自分だけのフルコースを探していた。
そして誰もが、他者のフルコースを尊重していた。
素晴らしい世界だった。
食欲は、人と人を結びつけた。
異なる種族を結びつけた。
争っていた国の者たちでさえ、同じ食卓を囲めば互いの人生を知ることができた。
一つのフルコースには、その者の生きた証が詰まっていた。
だからこそ。
人生のフルコースを完成させた者がこの世を去った後も、その料理と食欲は語り継がれた。
しかし。
世界は、いつまでも地球だけではなかった。
人々は空を越えた。
月へ。
星へ。
銀河へ。
やがて、地球の食欲は宇宙へ広がっていった。
かつて地球という星は、宇宙に存在するごく一部の者にしか認識されていなかった。
無数の星々の中に浮かぶ、取るに足らない小さな惑星。
外宇宙の者たちにとっては、その程度の認識だった。
だが、今は違う。
地球の名は、我々が暮らす赤い宇宙の全域にまで知れ渡っている。
地球から生まれた食材。
地球で育った美食屋。
地球に宿るグルメ細胞。
それらを求め、数え切れないほどの生命が宇宙を渡るようになった。
その大きな要因の一つが、センターである。
地球のフルコース。
その前菜であるセンターは、現在では宇宙のフルコースの一つとして数えられている。
本来ならば、一つの星のフルコースにすぎなかった食材。
それが宇宙全体の食欲を刺激する一皿となった。
センターを求める者。
その味を知ろうとする者。
センターに匹敵する食材を探し出そうとする者。
地球の存在を知った宇宙の生命は、次々にその星へ目を向けた。
だが、地球が注目された理由は、食材だけではない。
地球人には、もう一つ特異な性質があった。
悪魔を、その身に宿すこと。
悪魔と対話すること。
悪魔の力を借りること。
そして時には。
悪魔を使役すること。
その可能性を持つ生命は、この宇宙において決して多くない。
グルメ細胞を持つ者が、すべて悪魔と共存できるわけではない。
強大な悪魔を身に宿せば、多くの生命は自我を食われる。
身体を奪われる。
食欲に飲み込まれる。
だが地球人は違った。
悪魔を宿しながら、自らの意志を保つ者が現れた。
悪魔と向き合い。
その力を引き出し。
時には悪魔すらも成長させた。
地球の人類が持つその可能性は、宇宙の者たちにとって希望であると同時に、脅威でもあった。
そして。
人生のフルコースは、悪魔と深く結びつく概念だった。
人生のフルコースを探すということは、自らの食欲を知るということ。
自らの食欲を知るということは、体内に潜む悪魔の正体へ近づくということ。
一皿を選ぶたびに。
一つの味を求めるたびに。
人と悪魔の食欲は、同じ方向へ整えられていく。
やがてフルコースが完成した時。
人の食欲と悪魔の食欲もまた、一つの完成へ至る。
それが何を意味するのか。
当時の我々は、正しく理解していなかった。
いや。
理解するのが遅すぎた。
決め手となったのは、白い宇宙から飛来した存在である。
我々の赤い宇宙とは異なる場所。
光も。
時間も。
生命の成り立ちさえも違うとされる、白い宇宙。
その彼方から、一体のゴーレムが現れた。
名を――
ホワイトディメンション。
それは、すべてを飲み込むゴーレムだった。
星を食った。
大地を食った。
海を食った。
そこに暮らす生命を食った。
光さえも。
空間さえも。
星に刻まれていた歴史までも、その白い身体へ取り込んだ。
ホワイトディメンションは小さな悪魔だった。
遥か遠い宇宙で人生のフルコースに魅入られた悪魔。
その悪魔は、一人の生命が完成させた人生のフルコースを知った。
八つの料理に込められた記憶。
八つの料理によって完成した食欲。
悪魔は、その美しさに魅了された。
自らも完成させたいと願った。
だが。
悪魔には、人のような人生がなかった。
何を食べても満たされない。
どれほどの星を巡っても、自らの一皿を選ぶことができない。
悪魔はやがて、他者の人生を食べ始めた。
他者の食欲を奪い。
他者が選んだ一皿を奪い。
数え切れないほどの人生のフルコースを、自らのものにしようとした。
それでも完成しなかった。
食えば食うほど。
奪えば奪うほど。
空腹は大きくなった。
そして、その食欲が形を得たものこそが、ホワイトディメンションである。
すべての人生を飲み込み。
すべてのフルコースを喰らい。
自らの空白を埋めようとする、白きゴーレム。
ホワイトディメンションは、赤い宇宙へ入った。
人生のフルコースを持つ者たちの食欲を感じ取り、その星々を襲った。
多くの命が失われた。
多くの星が消えた。
我々は戦った。
人も。
悪魔も。
それぞれの人生のフルコースを守るために戦った。
だが同時に、我々は思い知った。
人生のフルコースという概念は、あまりにも強い。
それは生命の食欲を育てる。
人を強くする。
悪魔を強くする。
世界を豊かにする。
しかし。
使い方を誤れば、宇宙すら食い尽くす食欲を生み出してしまう。
我々は苦渋の決断を下した。
人生のフルコースという概念を、宇宙から隠すことを。
人々の記憶から消すだけでは足りない。
記録を処分するだけでも足りない。
いずれ誰かが同じ発想へ辿り着く。
前菜。
スープ。
魚料理。
肉料理。
主菜。
サラダ。
デザート。
ドリンク。
それらに人生を重ね、自分だけのフルコースを作ろうとする者が、いつか必ず現れる。
だから我々は、悪魔たちの協力を求めた。
食欲の根幹へ干渉できる悪魔。
食の記憶を食べる悪魔。
概念を隠す悪魔。
多くの悪魔の力を借り、人生のフルコースへ至る道を閉じた。
その言葉を聞いても、意味を見いだせないように。
料理を八つに分けても、それを自らの人生と結びつけられないように。
自分だけのフルコースを作ろうという発想すら、生まれないように。
人生のフルコースは、宇宙から消えた。
最高の人生のフルコースを持つ伝説の料理人や美食屋達の名と共に。
その歴史を知る者は、ほんの僅かとなった。
それでよいと思っていた。
人々は人生のフルコースを失っても、食べることをやめなかった。
家族と食卓を囲み。
新たな食材を求め。
それぞれの人生を生き続けた。
概念がなくとも、食欲は残る。
そう信じていた。
だが。
閉ざされたはずの扉は、再び開かれた。
一人の少年が口にした。
自分だけの人生のフルコースを作ると。
その言葉を聞いた者は、不思議に思わなかった。
誰もが自然に受け入れた。
そして自分ならば何を選ぶのか、考え始めた。
概念は連鎖する。
一人から二人へ。
二人から百人へ。
百人から一つの国へ。
一つの国から、一つの星へ。
そして一つの星から、宇宙全体へ。
人々の食欲は止まらない。
止めることなど、できるはずがない。
人々は人生のフルコースを思い出した。
それは、失われていた素晴らしい文化の復活なのかもしれない。
人々は再び、自らの人生を料理として残すことができる。
大切な者とフルコースを語り合うことができる。
己の食欲と向き合うことができる。
だが同時に。
かつて人生のフルコースに魅入られた者たちも、その復活を知ることになる。
完成した食欲を求める者。
他者のフルコースを奪う者。
人の身体に眠る悪魔。
宇宙の果てで眠る悪魔。
そして。
白い宇宙に残された、すべてを飲み込む食欲。
人と悪魔。
止まっていたすべてが、再び動き始めるだろう。
これが正しかったのか。
再び概念を隠すべきなのか。
それとも今度こそ、人々へすべてを伝えるべきなのか。
ワシには、まだ分からない。
ただ一つだけ、確かなことがある。
人生のフルコースは、単なる料理の一覧ではない。
それは一つの生命が歩んだ人生。
育て上げた食欲。
そして最後に辿り着く――
その者だけの完成形である。
――記録者、ギタウヌ。