「トキサダ!」
花陰のカウンター。
大きな花と木の根に包まれた隠れ家の扉を開けると、そこには以前と変わらない姿の老人がいた。
古い時代のバーテンダーのようであり、どこか武士の礼服のようにも見える。
背筋は真っ直ぐ。
手元には、古びた銀色のシェイカー。
「元気だった?」
「久しいな、アマジン」
トキサダは静かにこちらを見た。
「ブラウスも息災であるか」
「はい。お久しぶりです、トキサダさん」
「うむ」
トキサダは短く頷く。
そして、俺の肩に乗っているはむまるを見た。
「はむまるも変わらぬようであるな」
「きゅ!」
「いや、変わったぞ。たぶん少し太った」
「きゅ!?」
はむまるが抗議するように鳴いた。
いや、最近かなり食ってるだろ。
俺の分の肉まで普通に持っていく時あるし。
トキサダは小さく笑った。
「それで、いつ出発する?」
「出発?」
「宇宙である」
「ああ!」
俺は頷いた。
「もうすぐお金もたまるんだ。それから船を買って、たぶんあと二年後くらいかな」
「二年か」
トキサダは少し目を細める。
「長いようで、短い時であるな」
「トキサダも来るんだろ?」
「もちろんである」
その返事は早かった。
「我も久しく、星の外の味を歩いておらぬ。楽しみにしている」
「そっか!」
俺は笑う。
「じゃあ、行ってくるよ。グルメの園」
「うむ」
トキサダはシェイカーを持ち上げた。
「花を踏むな。味を荒らすな。急ぎすぎれば、食は道を閉ざす」
「分かってるって」
「その言葉を信じよう」
「ちょっと信用低くない?」
「己の胸に問うがよい」
「……」
少し黙った。
ブラウスが横で苦笑している。
「では、行って参れ」
「ああ!」
俺たちはトキサダに見送られ、抜け道へ向かった。
・・・
抜け道を抜けると、空気が変わった。
グルメの園。
一面の花畑。
視界いっぱいに花が広がっている。
赤、青、黄、白。
色とりどりの花が風に揺れているが、ただ綺麗なだけの場所ではない。
匂いが濃い。
甘い。
苦い。
酸っぱい。
花ごとに違う香りが重なり合い、普通なら数分で鼻と頭がやられる。
でも、もう慣れたものだ。
「相変わらず、すごい匂いですね」
ブラウスが鼻を少し押さえながら言った。
「前より平気そうだな」
「はい。前よりは」
グルメの園の花は、一本一本が繊細だ。
花びらを傷つけるだけでも危ないが、特にまずいのは茎だ。
茎を一本でも踏めば、そこから連鎖するように花が腐食していく。
そして腐った匂いに引き寄せられ、大型のハエのような猛獣が群れでやってくる。
以前ここを通った時は、番重を出した瞬間だけ空中で固定される性質を利用した。
番重を足場にして、飛ぶように越えていったのだ。
「さて、今回はどうやって行きますか?」
ブラウスが花畑を見ながら聞いてくる。
「そうだな」
俺は肩のはむまるを見る。
「はむまるに乗っていこうか」
「……はい?」
「はむまる、元のサイズに戻って!」
「きゅ!」
そう言うと、はむまるは俺の懐から元気よく飛び出した。
小さな丸い体が空中で膨らむ。
ぽん、と音が鳴りそうな勢いで姿が変わり、次の瞬間には大きな蔵頬ハムスターになっていた。
俺とブラウスが乗っても余裕があるサイズだ。
「久しぶりにはむまるの大きな姿を見ましたが……また一段と大きくなりましたね」
「たくさんうまいもの食ってるからな……」
「きゅ!」
はむまるは得意げに胸を張った。
いや、胸なのか頬なのか分かりづらいけど。
「しかも見ろ」
俺ははむまるの背中を指さす。
「座る場所をつけたんだ。二か所あるぞ」
「本当だ……」
ブラウスが近づいて確認する。
はむまるの背には、二人分の座る場所がしっかり固定されていた。
「すごいですね。サドルも一緒に大きくなるんですか」
「ああ。はむまるの抜け毛で作ったんだ」
「抜け毛で?」
「しっかり固定してると、一緒に大きさが変わる」
「便利すぎませんか?」
「はむまるだからな」
「理由になってます?」
「きゅ!」
はむまるはなぜか誇らしげだ。
ブラウスはしばらくサドルを見ていたが、すぐに花畑へ視線を戻した。
「いや、というより……はむまるの背に乗ってどうやって抜けるんですか!?」
「まぁ乗ってみ!」
「すごく不安なんですが……」
「大丈夫だって」
ブラウスは不安そうにしながら、はむまるの背に乗った。
俺も続けて乗る。
座り心地は悪くない。
はむまるの毛がふかふかなので、下手な高級シートより気持ちいいくらいだ。
「よし」
俺ははむまるの背を軽く叩いた。
「はむまる! 絶食足で花畑を進むぞ!」
「きゅ!」
「絶食足……?」
ブラウスが聞き返す。
はむまるは蔵頬ハムスターという種族だ。
大きな状態なら、荷物を頬袋に保管できる。
ただし、たまに食われる。
食材を入れておくと、気づいた時には減っていることがある。
そこは本当に困る。
だが、それ以外の能力はかなり優秀だ。
すばしっこいのに、非常に繊細な動きができる。
小さな隙間を抜け、大きな体でも音を立てずに動く。
その中で、はむまるが身につけた技。
絶食足。
はむまるの体から、気配が消えた。
「……!」
ブラウスが目を見開く。
「すごいです。乗っているのに、気配を一切感じない……不思議です……」
「だろ?」
「きゅ」
はむまるが小さく鳴く。
だが、その鳴き声すら花畑へ溶けていくようだった。
「行けるか?」
「きゅ!」
はむまるはゆっくりと歩き出した。
花畑の中へ入る。
俺は足元を見る。
はむまるは花を避けている。
大きな体なのに、花びらには触れない。
ただ、茎までは完全に避けられていないはずだ。
どう見ても踏んでいる。
だが。
花は反応しなかった。
腐食も始まらない。
匂いも変わらない。
まるで風に揺られただけと錯覚しているように、花はただ自然に揺れている。
「本当に大丈夫なんですね……」
「絶食足だからな」
「どういう理屈なんですか?」
「はむまるが、食べる気配を完全に消してる」
「食べる気配?」
「この花畑は、傷つけられたとか、食われるとか、そういう気配に敏感なんだと思う。だから、はむまるが自分の食欲を完全に隠して歩けば、ただ風か何かが通ったようにしか感じないんだ」
「なるほど……」
ブラウスは感心したようにはむまるを見る。
「でも、なぜアマジンより隠密が上手いんですか?」
「……」
「アマジン?」
「俺は正面突破の方が得意だから」
「それは知ってます」
「きゅ」
はむまるが少し得意げに鳴いた。
なんか負けた気がする。
花畑の奥。
遠くに、アースの気配がある。
地球のフルコースの一つ。
俺は前を見た。
「すごいぞ、はむまる」
「きゅ!」
「このままアースの元へ行こう」
「はい!」
はむまるは静かに、そして堂々と花畑を進んでいく。
花は揺れるだけ。
腐らない。
猛獣も来ない。
俺たちは悠々と花畑を越えていった。