老いの洞穴は、不気味なまでに静かだった。
ただ静かなだけじゃない。
無音室にいるような、耳の奥が変になる静けさだ。
足音はする。
俺たちの声も聞こえる。
でも、その音が洞穴の中へ広がっていかない。
響かない。
残らない。
すぐに消える。
「なんか……変な静けさだな」
「時間が加速したり、遅くなったりしているからでしょう」
ブラウスがワープキッチンを維持しながら答える。
「それに合わせて、音もおかしくなっているのだと思います」
「音までか……」
老いの洞穴。
やっぱり普通じゃない。
俺たちはシャボン玉のようなワープキッチンに包まれながら、長く続く一本道をゆっくり進んでいた。
グルメデバシーには、林膳の情報を入れてもらっている。
名前。
顔。
食欲反応。
最後に確認された座標。
だが、今のところ反応はない。
「林膳さん、本当にこの奥にいるのかな」
「いる可能性が高い、というだけですね」
「悪魔化してる可能性もあるんだよな」
「はい」
ブラウスの表情が少し硬くなる。
「もしそうなら、簡単な相手ではないはずです」
「メリスタさんより強いんだもんな」
「ええ」
悪魔共食なしで最強格。
食欲エネルギーで木べらを作る男。
林膳。
まだ姿も見ていないのに、妙な緊張感がある。
しばらく進むと、道の先が二つに分かれていた。
「ついに来たな、分かれ道」
「そうですね」
ブラウスが左右の道を見比べる。
食材の探索であれば、ブラウスが迷うことはほとんどない。
ブラウスには、食材へ続く道筋が見える。
食材の気配。
流れ。
匂い。
その道がどちらへ続いているのかを感じ取れる。
だが今回は人探しだ。
林膳は食材ではない。
ブラウスの食欲には一切反応しない。
「どうする?」
「手がかりがない以上、どちらかを選ぶしかありませんね」
「うーん……」
俺は左右を見る。
右。
左。
どちらも同じように暗い。
どちらも同じように静かだ。
その時。
左の道の壁際に、何かがいた。
「おおお、ブラウス!」
「何か分かりましたか?」
「いや、見ろよあっち!」
俺は左の道を指さす。
「ゼンマイツムリだぞ! 実物初めて見る……!」
「……」
ブラウスは少し黙った。
「ぶれないですね、アマジン」
「こっちの道に行こう」
「理由は?」
「きっとゼンマイツムリが正解を教えてくれたんだ」
「絶対に食欲で選んでますよね」
「食欲は大事だろ!」
「否定はしませんけど……」
ブラウスは少し呆れながらも、ワープキッチンを左の道へ進めた。
俺たちはゼンマイツムリの近くまで移動する。
壁に張り付いているそれは、名前の通りゼンマイのような殻を持つツムリだった。
殻には時計の文字盤のような模様があり、ゆっくりと回転している。
「こいつは、老いの洞穴、つまり二十万倍のスピードで時間が流れている環境に慣れているんだったな」
「そうです」
ブラウスが慎重に観察する。
「このままワープキッチンに入れると、逆に灰になってしまいます」
「逆に?」
「はい。ゼンマイツムリからすれば、ワープキッチン内の時間は異常に遅すぎます。急に環境を変えれば、体内の時間調整が崩れてしまうんです」
「難易度が高そうだな……」
「高いですね」
ブラウスは両手へさらに食欲エネルギーを集める。
「だから、ワープキッチンをこうやって手袋のようにして……」
ブラウスがワープキッチンの内側からゆっくりと手を伸ばした。
すると、シャボン玉の膜がぐにゃりと伸びる。
ブラウスの手にだけ、ワープキッチンが薄く纏ったような状態になった。
その手で、ブラウスはゼンマイツムリをそっと掴む。
ワープキッチンの中へ無理やり入れるのではない。
ゼンマイツムリの周囲だけは、外の環境のまま。
その空間ごと、ゆっくりとワープキッチンの中央へ移動させている。
「すげえ器用だな……」
俺は思わず呟いた。
「俺のワープキッチンは、そこまでできないかも……」
「さすがに神経使いますけどね」
ブラウスは真剣な表情のままだ。
「間違って手を入れないでくださいね。絶対」
「ああ、分かってる……!」
今、あそこに手を突っ込んだらどうなるんだろう。
指だけ老いるのか。
逆に時間が止まるのか。
考えたくない。
ブラウスはゼンマイツムリを中央に置くと、慎重に調理を始めた。
まず殻へ手をかける。
時計の盤面を外すように、ゼンマイ状の殻を外した。
「おお……」
中はまるで精巧な機械だった。
小さな歯車のような部品。
バネのような筋。
時計の中身を覗き込んでいるようだ。
「まるで機械部品だな……」
「この殻の細かい部品を、正しい手順で外していきます」
ブラウスは薄い包丁を取り出す。
「すると、身が取り出せますよ」
「手のひらサイズなのに、中身はぎちぎちにたくさん入ってるんだってな!」
「そうですね。ゼンマイツムリは外見より遥かに身が大きい食材です」
「早く食いたいな、はむまる!」
「きゅ!」
「目的を忘れてはだめですよ?」
「分かってる」
俺は頷いた。
「でも、カロリー補給はしないとな!」
「それは事実ですから、否定しづらいですね……」
ブラウスは手際よく部品を分解していく。
歯車のような部分を外し、薄い膜を切り、見えない留め具のような部分を順番に外していく。
少しでも順番を間違えれば、身が傷むらしい。
だが、ブラウスの手つきは迷いがなかった。
そして。
カチリ。
小さな音がした。
その瞬間、殻がバラバラにほどける。
中に詰まっていた身が、一気に飛び出した。
「うおおお! でか!」
手のひらサイズだったツムリから、純白の身がどんどん伸びていく。
うなぎのように長い。
いや、特大のうなぎより遥かにでかい。
「すごいなこれ!」
「こうなれば、もうワープキッチンに入れても平気です」
ブラウスはゼンマイツムリの身を完全にワープキッチン内へ入れる。
それから、すぐに調理へ移った。
まずは薄く切る。
純白の身は艶があり、包丁が入るたびに表面がきらりと光った。
軽く炙っただけの刺身。
次に、海墨醤油を垂らして香ばしく焼いたもの。
さらに、一部は塩だけで炙る。
老いの洞穴の中だというのに、ワープキッチンの中だけは小さな調理場のようだった。
香ばしい匂いが広がる。
「あああ……うまそうだ!」
「できましたよ」
「いただきます!」
「いただきます」
「きゅ!」
俺たちはさっそく食べる。
まずは炙った刺身。
口へ入れると、表面だけがほんの少し温かい。
中はしっとりしていて、噛むと不思議な弾力がある。
「うまっ!」
食感は、うなぎというより馬刺しのたてがみに近い。
ねっとりしているのに、しつこくない。
脂のような甘みがあるのに、後味は驚くほど軽い。
「これ、すごいな!」
「時間の層が身に折り込まれているんです」
ブラウスも一口食べて頷く。
「噛むたびに食感が少し変わりますね」
「本当だ!」
次に海墨醤油で焼いたものを食べる。
香ばしい。
甘い。
海墨醤油の黒い旨味が、白い身に絡んでいる。
噛むと、中からじわっと濃い味が出てくる。
「うまい……!」
「きゅうう!」
はむまるも満足そうに食べている。
「はむまる、アースは食うなよ」
「きゅ」
「今の返事ちょっと怪しいな」
「アースではなく、目の前の料理を食べてください」
「きゅ!」
俺たちはしばらくゼンマイツムリを堪能した。
老いの洞穴の中にいることを、一瞬だけ忘れそうになる。
でも、食べ終わるとすぐに、あの変な静けさが戻ってきた。
「ふぅ……」
俺は口元を拭く。
「さて、とりあえずここからまた一本道だな」
「はい。ゼンマイツムリがいた道を選んだ以上、このまま進んでみましょう」
「おう」
俺は周囲を見る。
グルメデバシーに林膳の反応はない。
だが、何かはある。
ゼンマイツムリがいた。
それだけでも、この道を選んだ価値はあった。
「いっかい進んでみようぜ」
「はい」
「きゅ!」
ブラウスがワープキッチンを整える。
はむまるは大きな体のまま、頬袋を揺らさないように静かに座っている。
俺たちは再び、老いの洞穴を奥へと進んでいった。