操縦席から眺める宇宙は、想像していたよりずっと静かだった。
黒い空間の中に、遠くの星々が小さく瞬いている。地球から見上げていた時より近くにあるはずなのに、こうして船の中から見ると、逆に果てしなく遠く感じた。
はむまる号は、赤い宇宙の中を進んでいる。
目指すはレコル星。
食が記録から消えた星。そして、宇宙のフルコースのスープが眠るかもしれない星だ。
「なんだか、思ってたより宇宙に猛獣っていないんですね」
隣でブラウスが言った。
「ああ。基本的には、宇宙に住む猛獣はいないとされてる」
「そうなんですか?」
「宇宙を移動するやつとか、たまに星を食うやつとかはいるみたいだけどな。あくまで一時的に宇宙へ出るだけって話だ」
俺は窓の外を見る。
そこには何もない。
本当に、何もない空間がどこまでも続いている。
「基本は、自分の住む星の中にいる」
「そうなんですねー」
「まぁ、宇宙は広すぎるしな。何もない区間は、まじで食べ物も星も何もない」
食欲の世界とはいえ、宇宙のすべてが食材で満ちているわけじゃない。むしろ、何もない場所の方が圧倒的に多いのだろう。
だからこそ、星に辿り着く意味がある。
「人が住む星は、レコル星へ向かう間にあるんですか?」
「正直、通り道にはないみたいだな」
俺は星図を確認する。
レコル星へ続く航路は、まだあまり開拓されていない。中心に寄っているせいか、記録も少ない。
すると、後ろでアールシが静かに言った。
「知的生命体はいないですが、美味しい惑星ならありますよ」
「本当か、アールシ!」
俺はすぐに振り返った。
「資料にはそんな場所は……」
「レコル星まで向かう航路は、まだあまり開拓されていませんからね。とはいえ、私の情報も新しいわけではありません」
アールシは端末を操作し、星図に小さな点を表示した。
「ちなみに、どんな星なんだ?」
「クッキースターです。半径は約三千四百キロメートルくらいの星ですね」
「よし、行こうか」
「判断が早いですね、アマジン!」
ブラウスが思わず声を上げた。
「だって、もう名前で旨そうじゃないか」
「名前だけで決めましたね」
「調査だ、調査!」
「アマジン……調査と言えば何でも許されると思ってません……?」
「思ってない!」
「少しは思ってますよね?」
「少しだけな!」
「認めましたね」
アールシは星図を見ながら、少しだけ考えた。
「正直、私も気になるので行ってみましょう」
「よっしゃ! 航路を再設定だ!」
「きゅい!」
はむまる船長も、船長席で元気よく鳴いた。
こうして俺たちは、予定を少し変えてクッキースターへ向かった。
・・・
・・
・
しばらく進むと、星が見えてきた。
緑と青が混じったような色の星だった。
大気はある。海のような場所も見える。
だが、俺が想像していたものとは違った。
「ぱっと見は、うまそうな色ではないな……もっと小麦色っぽいクッキーの星かと思ったけど……」
アールシが端末を読み上げる。
「クッキースターは、訪問者の食欲履歴を星に残す性質を持つ記録星です。古い宇宙語では、“痕跡を保存する小片”という意味に近い」
「ん?」
「クッキースターに降りた者は、自分が過去に食べた料理の匂いを感じる。地面や大気に食欲の痕跡が焼き付き、星が訪問者を識別し、次に何を求めるかを記録するための現象だとされています」
「いや待て……」
俺はようやく気づいた。
「クッキーって、そっちのcookie!?」
「そっち?」
ブラウスが首を傾げる。
「あ、いや……なんでもない」
「菓子のクッキーではないようですね」
「先に言ってほしかった!」
「名前で即決したのはアマジンですよ」
「それはそうだけど!」
俺の中で、焼きたてクッキーの星という夢が少し崩れた。
いや、まだ分からない。
名前がそっちでも、食材がうまければ問題ない。
俺たちは小型グルメシップへ乗り込み、クッキースターの地上へ降り立った。
今回降りるのは、俺とブラウス、はむまる、それからアールシだ。トキサダとフワ爺は、はむまる号に残っている。
地上へ出ると、最初に感じたのは匂いだった。
「……あれ?」
甘い。
でも、ただ甘いだけじゃない。
焼いた肉、炊きたての米、母さんの味噌汁、ブラウスの料理、デスフォールで食べたサンサングラミー、ビリオンバードの卵。そのどれもが一瞬ごとに混ざり合い、別の匂いへ変わっていく。
「アマジン、さっきよりちょっとテンション下がってません……?」
「いや、そんなことはないぞ!」
「本当ですか?」
「本当だ!」
「菓子のクッキーじゃなかったからでは?」
「そんなことは……少ししかない!」
「やっぱり少しあるんですね」
「きゅ」
はむまるまで、分かると言いたげに鳴いた。
「アマジン」
アールシが近くの地面を指した。
「あの花を触ってみてください」
「お?」
そこには、変な花が生えていた。
花びらが四角く、薄くて、少し硬そうで、中央に丸い穴のような模様がある。その形だけ見れば、前世の記憶にあるフロッピーに似ていた。
「なんだこれ……フロッピーみたいな花だな」
「フロッピー?」
「古い道具だ」
俺はゆっくりとその花へ触れた。
瞬間、何かが全身を駆け巡った。
舌から喉、胃、腹の奥まで、今まで食べたものの記憶を指先から一気に読み取られるような感覚だった。
「うおっ!?」
花が震え、さっきまで地味な色だった花びらが、俺の食欲に反応するように虹色へ変化した。
匂いも急に美味しそうになる。
焼き菓子に近い。
でも、その奥に肉や魚や野菜の匂いまで混じっている。
「僕も色が変わりました!」
ブラウスが別の花に触れていた。
そちらは深い赤に変わっており、辛味と香ばしさを感じる匂いを放っている。
「履歴ビスケットです」
アールシが説明する。
「触れた者の食欲履歴を読み取り、色と香りを変える食材ですね」
「ビスケット!」
俺のテンションが少し戻った。
そして虹色に変わった履歴ビスケットを摘み取る。
「いただきます!」
「いただきます」
「きゅい!」
はむまるも小さなビスケットを両手で持っている。
俺はさっそくかじった。
その瞬間。
「うわ!」
味が流れ込んできた。
今まで食べた料理の味が、ほんの数秒、一気に蘇る。
多分、常人であれば舌で何が起こったのか分からなかっただろう。味が多すぎて、速すぎて、情報量が多すぎる。
だが、俺とブラウスは舌を鍛えられている。
一瞬で過ぎていった今までの味を、しっかりと味わえた。
最初に来たのは、俺が覚えていないはずの味だった。
母乳。
そこから離乳食。
柔らかく煮た野菜、薄い味付けの粥、子供の頃に食べた母さんの飯、給食、家で食べた肉、初めて食べたグルメ食材、地球のフルコース、ブラウスの料理。
それから、グリド。
ミルカ。
マザーグリード。
全部が、一瞬だけ舌の上を通り過ぎていく。
「うま……懐かしい……」
俺は思わず立ち尽くした。
たった数秒なのに、その数秒で人生を一口食べたような感覚だった。
「これは……すごいですね」
ブラウスも静かに呟いた。
「味の記録そのものを食べるようです」
「だな……」
俺は手の中の履歴ビスケットを見る。
「てか、ちゃんとクッキーあるな。厳密にはビスケットだけども……」
はむまるは自分のビスケットを食べたあと、しばらく固まっていた。
「きゅ……」
「どうした、はむまる」
「きゅう」
たぶん、今まで食べたひまわりの種や木の実、それから俺たちの料理の味が一気に来たのだろう。その顔は、かなり幸せそうだった。
クッキースターには、猛獣の姿が見えなかった。
静かな星だ。
ただ、植物のような食材はあちこちに生えている。そのどれもが、こちらに反応するように色を変えたり、香りを変えたりした。
次に見つけたのは、追跡チョコチップ。
黒く小さな粒が、地面に点々と生えている。
一度食べた者の食欲を星が覚え、次に来た時に好みの味へ近づく食材らしい。
「つまり、二回目に来るともっと好みの味になるのか」
「そういうことです」
アールシが頷く。
「星が食欲履歴を保存するため、再訪時には味の最適化が起こります」
「便利だけど、ちょっと怖いな」
「分かります」
ブラウスも頷いた。
「勝手に好みを覚えられるのは、不思議な感覚ですね」
試しに食べてみると、甘味の奥にほんの少しだけサンサングラミーの香ばしさが混じっていた。
「もう反映されてないか、これ?」
「食欲の強い人ほど、反映が早いのかもしれません」
「俺のせいか?」
「多分」
「きゅ」
はむまるも同意した。
次に見つけたのは、キャッシュテンロール。
くるくると巻かれた、ロールケーキのような見た目の食材だ。
説明によると、星が食べた者の中で十番目に美味しいと感じている味を再現するらしい。
「十番目って微妙だな」
「一番ではないところが面白いですね」
「なんで十番目なんだ?」
「上位の味は強すぎて、正確に再現できないのかもしれません。または、一番好きな味を直接再現すると、食べた者の精神に影響が出る危険があるのかもしれません」
「急に怖いこと言うなよ」
「記録星ですから」
俺はキャッシュテンロールを食べた。
口の中に広がったのは、懐かしい給食の味だった。
完璧にうまいというより、妙に安心する味。
前世の給食ではない。
今世で子供の頃に食べた、学校の給食だ。
「あー……これ十番目なのか」
「何の味でした?」
「給食」
「いいですね」
「うまいっていうか、懐かしい」
ブラウスも食べる。
少し考えるように目を閉じた。
「僕は、父のまかない料理でした」
「ガウンの?」
「はい。正式な料理ではなく、余った食材で作ってくれたものです」
「それが十番目か」
「たぶん、順位というより、今の自分に必要な味を十番目という形で引き出しているのかもしれません」
「なるほどな」
なんというか、この星は不思議だ。
食材そのものは間違いなくうまい。けれど、勝手に自分の食歴を覗かれ、反映されるのは、なんとも気持ち悪い感じがする。
自分の舌の中を、星に読まれている。
腹の奥に残っている味まで、勝手に掘り返される。
便利で面白いが、少し怖い。
「アールシ」
「はい」
「この星、知的生命体はいないんだよな?」
「記録上はいません」
「本当に?」
「少なくとも、会話可能な存在は確認されていません」
「星そのものがこっちを見てるみたいなんだけど」
「その表現は、かなり近いかもしれませんね」
「近いのかよ」
「クッキースターは、訪問者を識別し、記録し、再訪時に反応を変える星ですから」
俺は足元を見る。
地面に小さな光の線が走っていた。それは俺たちが歩いた場所に残り、しばらくすると消える。
いや、消えているように見えるだけかもしれない。
星の中に保存されているのだろうか。
俺たちの食欲履歴が。
「なんか、油断するとすごい個人情報抜かれてる気分だな」
「個人情報?」
「あ、いや、食歴情報ってことだ」
「確かに、食歴情報ですね」
ブラウスは妙に納得していた。
はむまるは足元の追跡チョコチップをこっそり頬袋に入れようとしていた。
「はむまる」
「きゅ?」
「それ、次回来た時にお前好みの味になりすぎるやつだぞ」
「きゅい!」
「嬉しそうにするな!」
とはいえ、俺はもう一つ、履歴ビスケットをかじった。
また味が流れ込んでくる。
今度は少し違った。さっき食べたキャッシュテンロールの味まで混じっている。
星が、俺の履歴を更新したのだ。
少しぞっとする。
それでも、うまいものはうまい。
「旨いな、マジで!」
「はい。美味しいです!」
「きゅい!」
俺たちはクッキースターの食材を堪能した。
菓子のクッキーの星ではなかった。
でも、食欲の履歴を焼き付ける星であり、食べたものを記録し、次の味へ繋げる星だった。
レコル星へ向かう前に、俺たちは妙な場所へ来てしまったのかもしれない。
記録。
履歴。
痕跡。
食べたものは消える。
だが、味はどこかに残る。
この星は、それを嫌というほど教えてくる。
俺は最後に、虹色の履歴ビスケットをもう一枚だけ摘み取った。
「これは持って帰って、みんなで食おうぜ」
「いいですね。トキサダさんたちがどんな味を感じるのか、興味があります」
「フワ爺とか、とんでもない深海の味が出そうだな」
「きゅ!」
「はむまる、お前はもう食っただろ」
「きゅう……」
「少しだけな」
「きゅい!」
はむまる号へ戻る小型グルメシップの中で、俺はクッキースターを振り返った。
緑と青の星。
ぱっと見は、ちっともうまそうじゃなかった星。
でも、その中には確かに味があった。
俺たちが食べてきた味。
俺たちがこれから食べる味。
その履歴を、静かに保存する星。
「クッキーって、奥が深いな……」
「まだ菓子の方を引きずってます?」
「少しな」
ブラウスは笑った。
俺も笑った。
そして、はむまる号は再びレコル星へ向けて進み始めた。