「もうすぐレコル星です」
操縦室にアールシの声が響いた。
「おお! 楽しみだな!」
俺は前方の巨大な観測窓へ身を乗り出した。
暗い宇宙の中で、一つの白い星が少しずつ大きくなっている。
レコル星。
食が記録から消えた星であり、アールシの故郷。そして、宇宙のフルコースのスープが眠っている可能性のある星だ。
クッキースターを出てから、俺はずっとこの瞬間を楽しみにしていた。
だが。
レコル星が近づくにつれて、胸の奥に妙な感覚が生まれ始めた。
「……なんだ?」
食欲がざわついている。
危険な猛獣を前にした時とは違う。
腹が減った時とも違う。
もっと、気持ちの悪い感覚だった。
「なんでしょうか。なんだか嫌な感じがしますね……」
ブラウスも同じらしい。
「ああ」
俺は白い星を見つめた。
「だが、気にしていても仕方がない! 降り立ってみようぜ!」
「結局そうなりますよね」
「来るためにここまで来たんだからな!」
はむまる号を星の周辺軌道へ残し、俺たちは小型グルメシップへ乗り込んだ。
今回も俺とブラウス、アールシ、そしてはむまるの四人だ。
「きゅい!」
「行くぞ、はむまる!」
小型グルメシップがはむまる号から離れ、白いレコル星へ向けて降下を始めた。
最初は何も問題なかった。
だが、大気圏へ近づいたところで船体が突然揺れた。
「うおっ!?」
操縦桿を握る。
「……あれ?」
反応しない。
「制御ができなくなったぞ……!」
「記録装置がぐるぐるしてますね……」
アールシは計器を見つめている。
「冷静に判断してる場合じゃないですよ!」
ブラウスが声を上げた。
「そうですね」
「いやアールシも落ち着きすぎだろ!」
船体が大きく傾いた。
だが、レコル星へ落ちているわけではない。
本来の軌道から外れ、何か別の場所へ引っ張られている。
「なんだ、あれ……」
進行方向の宇宙が歪んでいた。
空間そのものが、何枚もの本のページを重ねたように波打っている。
白い文字。
黒い文字。
知らない絵。
星。
食材。
人。
無数の何かが一瞬ごとに浮かんでは消えていく。
巨大な本を高速でめくっているようにも見えた。
アールシの顔色が変わる。
「あれは……知識の海……!」
「知識の海!?」
「待ってくださ――」
最後まで聞こえなかった。
小型グルメシップごと、そのうねりへ吸い込まれる。
視界が白く染まり、そのまま何も見えなくなった。
・・・
・・
・
「……あれ?」
目を開ける。
「ここは……?」
最初に感じたのは、硬い地面だった。
俺は崖下のような場所に倒れていた。
体を起こし、周囲を見る。
乾いた大地がどこまでも続いている。
草もない。
木もない。
水もない。
空は薄暗く、雲すらほとんど見えなかった。
そして何より不気味なのは――。
「匂いが……ない?」
土の匂いすらない。
空気はある。
呼吸もできる。
なのに、鼻に入ってくるものが何もない。
こんな場所は初めてだった。
「ブラウス! アールシ!」
少し離れたところで、二人が起き上がった。
「うぅ……」
「ここは……」
はむまるも転がっていたが、すぐに起き上がって俺のところへ走ってくる。
「きゅい!」
「皆、無事か!」
「ええ。しかし、ここは一体……」
アールシが周囲を見回した。
その瞬間。
ドォォォォォン!!
凄まじい轟音が響いた。
地面が揺れる。
「上か?」
崖の向こうだ。
「乗れ!」
俺は巨大な番重を出し、その上へブラウスとアールシ、はむまるを乗せる。
自分は岩壁を蹴りながら、番重を足場にして一気に崖上へと登った。
そして。
「……なんだ、これ」
そこにも、何もなかった。
乾いた大地が地平線まで続いている。
やはり匂いはない。
まるで世界から食べ物という概念そのものが消えてしまったような場所だった。
だが。
遠くで、何かが動いている。
巨大な白い何か。
その周囲で、一人の人間が戦っていた。
衝撃が走るたびに、大地が捲れ上がっている。
アールシがそれを見た瞬間、息を呑んだ。
「あれは……ホワイトディメンション……!」
「何!?」
「なぜレコル星に……」
俺は立ち上がり、遠方の戦いを凝視した。
白い巨体。
その前を高速で動き回る男。
見間違えるはずがない。
前世で何度も見た。
この世界へ来てからもずっと憧れていた。
「……嘘だろ」
心臓が大きく鳴った。
「間違いない」
伝説の美食屋。
「トリコだ!」
気がついた時には、俺は走っていた。
「アマジン!?」
「ちょっと待ってください! 危ないですよ!」
「トリコがいるんだぞ!」
「だから危ないんですよ!」
ブラウスの声が後ろから聞こえる。
でも止まれない。
俺は大地を蹴り、一気に距離を詰めた。
そして近づけば近づくほど、確信へ変わった。
間違いない。
トリコだ。
本当にいる。
俺が前世で読んでいた物語の主人公。
この世界で伝説となった美食屋が、俺の目の前で戦っている。
なぜレコル星でホワイトディメンションと戦っているのか。
そもそもここが本当にレコル星なのか。
そんな疑問は、その瞬間だけはどうでもよくなっていた。
「トリコ!!」
俺は叫んだ。
だが。
反応がない。
「トリコ!! 聞こえないのか!?」
もう一度叫ぶ。
トリコは振り返らない。
俺たちが存在していないかのように、そのままホワイトディメンションと戦い続けている。
「……なんでだ?」
俺がさらに近づこうとした、その瞬間。
景色が歪んだ。
「なっ……!」
トリコとホワイトディメンションが、ぎゅっと縮んだように遠ざかる。
数百メートルどころではない。
一瞬で地平線近くまで移動した。
「空間そのものが……」
アールシが何かを言おうとした。
だが、その続きを聞く暇はなかった。
目の前の空気が白く濁った。
霧が渦巻く。
それが集まり、人のような形へ変わっていく。
「まさか……」
もう一体。
ホワイトディメンションが現れた。
白いゴーレム。
そう呼ばれている存在。
確かに形はゴーレムに近い。
巨大な胴体と太い腕。
明確な生物らしい顔はなく、その周囲には白い霧が薄く漂っている。
だが、妙だった。
こいつからは、生を感じない。
猛獣を前にした時の食欲も。
悪魔を前にした時の圧力も。
何もない。
ただ、空っぽの何かが立っている。
それなのに。
俺を見ていた。
完全に。
「さっきのトリコは俺たちに反応しなかったのに……こいつは違うのか」
ホワイトディメンションの体が、わずかに膨らんだ。
クォォォォォ――。
何かを吸い込むような音が鳴る。
その瞬間、全身が危険を訴えた。
「やばい!」
考えるより先に、番重を展開する。
一枚。
十枚。
五十枚。
百枚。
何百枚もの番重を、自分たちの前へ壁のように重ねた。
だが。
「……は?」
最前列の番重が崩れた。
砕かれたのではない。
粒子になっている。
番重を構成していた食欲エネルギーが細かな光へ変わり、ホワイトディメンションへ吸い込まれていく。
十枚。
百枚。
次々に消えていく。
「番重を……食ってるのか!?」
いや。
食っているという感覚とも違う。
存在そのものを吸い込んでいる。
「グルメウェア――幻威!」
食欲を一気に解放する。
グリドから受け継いだ、捕食者の威。
黒い食欲が全身を覆い、体が一気に巨大化した。
三メートル。
四メートル。
そして五メートル。
筋肉が膨れ上がり、全身から猛獣のような圧力が溢れ出す。
「すべてをブラックホールみたいに吸い込むホワイトディメンション……!」
右腕へ力を集める。
番重が駄目なら、直接叩く。
「だが、これはどうだ!」
拳が膨れ上がる。
幻威の食欲を右腕へ集中させる。
「プレデターショット!!」
全力の右拳を叩き込んだ。
巨大な捕食者の一撃。
普通なら、それだけで大地ごと吹き飛ぶ。
だが。
クォォォォォ――。
再び、あの音が鳴った。
「……な」
右腕を包んでいた幻威が崩れた。
食欲エネルギーで構成されたグルメウェアが、細かな粒子へ変わっていく。
プレデターショットそのものが消える。
そして。
それだけでは終わらなかった。
「ぐっ……!」
右拳に違和感を感じた。
手が消えている。
指先から、俺自身の肉体まで粒子になっていた。
「なんだこれ……!」
右腕。
手首。
肘。
肩。
体そのものが砂のように崩れ、ホワイトディメンションへ吸い込まれていく。
「アマジン!!」
頭の中でグリドの声が響いた。
次の瞬間、俺の体から黒い食欲が飛び出した。
「どけえええ!!」
グリド。
食欲の姿となったグリドが俺へ体当たりし、思い切り横へ吹き飛ばす。
俺は地面を何度も転がった。
「ぐっ……!」
止まった時には、右腕から右肩までが消えていた。
断面は血まみれではない。
砂のようにさらさらと崩れている。
「なんだ……これ……」
一瞬、ミルカの食欲調律と似たものかと思った。
食欲エネルギーの性質を消している。
無効化している。
だが、違う。
「俺自身の身体まで……持っていかれてる……」
食欲エネルギーだけではない。
肉。
骨。
細胞。
全部だ。
左手で傷口を押さえ、食没で蓄えたエネルギーを集中させる。
センターもたらふく飲んでいる。
今の俺なら、この程度の欠損から再生すること自体は難しくない。
肉が伸びる。
骨が形成される。
腕が戻っていく。
数秒もしないうちに、右腕は元通りになった。
だが。
俺はホワイトディメンションを見た。
向こうは、何も変わっていない。
俺の番重を吸い込み。
幻威を消し。
プレデターショットを消し。
俺自身まで吸い込んだ。
しかも、攻撃らしい攻撃すらしていない。
ただ吸っただけだ。
「……勝てる気がしない」
久しぶりだった。
ここまで、はっきりと思ったのは。
その時、通信機が鳴った。
『アマジン!』
「ブラウス?」
『聞こえますか!』
「ああ!」
『僕たちは今、ワープキッチンに入っています!』
「ワープキッチンか!」
『はい! 伝説の美食屋の戦いを間近で見ています!』
「な!」
俺は思わずホワイトディメンションから視線を外した。
「俺も見たいぞ!!」
『アマジン?』
ブラウスの声が少し低くなる。
「……分かってるって」
俺は頭を掻きたい気分になったが、さすがに今はそんな余裕もない。
「俺がこいつを止めている間に、トリコから倒すヒントを得るってわけだな」
『はい。ここがどういう場所かも、少し分かってきました』
「本当か?」
『まだ確定ではありません。でも、これは現実の過去ではない可能性が高いです。アールシさんが記録を調べています』
「やっぱりそうか……」
トリコが俺の声に反応しなかった。
それなのに、目の前のホワイトディメンションは俺を認識している。
なら、俺たちは過去へ来たわけじゃない。
何かの記録に入り込んでいる。
「はむまる!」
「きゅ!」
少し離れたところで身構えていたはむまるが俺を見る。
「お前もブラウスのところへ移動しろ」
「きゅ!?」
「ここは危険すぎる」
「きゅう!」
はむまるは嫌だと言うように首を振った。
「大丈夫だ」
俺は笑う。
「なんとか俺一人で止めておく」
「きゅ……」
「それに、お前がいたら俺も気になって全力で動けない。ブラウスたちを守ってくれ」
はむまるはしばらく俺を見ていた。
やがて、小さく鳴く。
「……きゅ」
「頼んだぞ」
ワープキッチンの膜が一瞬だけ開き、はむまるがその中へ飛び込んだ。
閉じる。
これでいい。
俺はもう一度、ホワイトディメンションへ向き直った。
白い巨体は、何もせずそこに立っている。
感情もない。
食欲も感じない。
だが、俺が一歩動くと、その顔のような部分がこちらへ向いた。
「……怖えな、お前」
俺は右拳を握る。
さっき再生したばかりの腕だ。
普通に殴れば、また消される。
番重も吸われる。
グルメウェアも食われる。
なら、どうする。
トリコは、こいつをどう倒した?
遠くでは、伝説の美食屋が同じ怪物と戦っている。
俺にはまだ、その答えが分からない。
でも。
「しばらく付き合ってもらうぞ」
食欲を練る。
ホワイトディメンションが、再び空気を吸い込み始める。
クォォォォォ――。
俺はその正面に立った。
ここはレコル星が見せている知識の海。
なら、きっと意味がある。
俺がこの戦いを見ることにも。
俺自身が、こいつと戦わされていることにも。
「さぁ来い」
俺は構えた。
「トリコがどうやってお前を食ったのか――俺も見届けてやるよ」