ワープキッチンの内側から、ブラウスたちは遠方の戦いを見つめていた。
伝説の美食屋トリコ。
その周囲には、本人とは明らかに異なる食欲の気配が二つ存在している。
一つは赤。
もう一つは青。
次の瞬間、空を埋め尽くすほどの金色のナイフが出現した。
何百。
何千。
数えることすらできない。
それらが一斉にホワイトディメンションへ向かって飛んでいく。
遅れて、空そのものを切り裂くような巨大な青いフォークまで撃ち込まれた。
まともに受ければ、巨大な山でさえ形を残せないだろう。
だが。
クォォォォォ――。
ホワイトディメンションが、あの吸い込むような音を発した。
金色のナイフが崩れていく。
巨大な青いフォークまで先端から細かな粒子へ変わり、そのまま白い巨体へ吸い込まれていった。
「また……!」
ブラウスが息を呑む。
だが、アールシは別の変化に気づいていた。
「待ってください。ホワイトディメンションを見てください」
「え?」
先ほどまで、その全身を覆っていた白い靄が薄くなっている。
それだけではない。
体が大きくなっていた。
攻撃を吸い込むたび、膨らんでいる。
不明瞭だった輪郭も、今でははっきりしていた。
白い霧の塊だったものが、明確な形を持つ巨大なゴーレムへ近づいている。
その様子を見ていたトリコが、口元を上げた。
「よし、そろそろか……?」
その内側から、低い声が響く。
『おい、トリコ。笑ってる場合じゃねえぞ』
赤鬼だった。
『そろそろあいつの容量は満タンだ。アレを使え』
続いて、荒々しい笑い声が響く。
『ヒャッハー! いつでも行けるぜ! さっさとぶちかましてやろうぜ、トリコ!』
青鬼。
「ああ。そうだな」
トリコは短く答えると、胸の前で両手を合わせた。
戦いの最中とは思えないほど、静かな動作だった。
「この世の全ての食材に感謝を込めて――いただきます」
その瞬間。
凄まじい食欲エネルギーが、トリコの周囲から噴き上がった。
三つ。
トリコ自身。
赤鬼。
青鬼。
それぞれ明らかに異なる食欲が、互いを押し潰すことなく混ざり合っていく。
赤。
青。
そしてトリコ自身の色。
三色の食欲は渦を巻きながら一つに重なり、やがて元のどの色とも違う、眩い一つの輝きへ変わった。
それは広がることなく、再びトリコの中へ吸い込まれていく。
完全に収束した。
「今の……」
ブラウスが目を見開く。
「二つの悪魔と、トリコさん自身のエネルギーが混ざったように見えました」
アールシも黙って記録を追っていたが、やがて一つの言葉を口にした。
「あれは……饗力……?」
「やっぱりそう見えますか?」
「構造だけを見るなら非常に近いです。ただ、三つの食欲をあの精度で同時に重ねているとすれば……」
アールシが言い終える前だった。
トリコが消えた。
「え?」
ブラウスが声を漏らした時には、もうトリコはホワイトディメンションの前にはいなかった。
後ろ。
巨体のはるか背後へ移動し、再び静かに両手を合わせている。
「ごちそうさまでした」
直後。
ホワイトディメンションの全身へ無数の亀裂が走った。
膨れ上がっていた白い巨体が内側から砕け、その破片さえ細かな霧へ変わって消えていく。
「え!?」
ブラウスが何度も目を瞬いた。
「あれ、見えましたか、アールシさん……」
「いえ、まったく」
アールシも珍しく困惑していた。
「トリコさんが前から後ろへ移動した。それ以外は、私にも確認できませんでした」
「何をしたんでしょう……」
二人が答えを探している、その時。
通信機からアマジンの声が響いた。
『ブラウス! さすがにもうきつい! 何か分かったか!』
「あ!」
ブラウスは慌てて通信を取る。
「アマジン! 最後はよく見えなかったんですが、饗力らしき力を使って倒していました!」
『饗力!?』
「はい! それと、その前です。トリコさんたちは食欲エネルギーによる攻撃を何度も吸わせていました。ナイフやフォークを吸収するたび、ホワイトディメンションを覆っていた霧が薄くなって、体自体はどんどん大きくなっていたんです!」
一瞬、通信の向こうが静かになった。
『……なるほど』
そして、アマジンの声が変わる。
『ある程度食欲エネルギーを食わせて、破裂寸前まで持っていく感じか!?』
「多分、そんな感じです!」
『よし……! なら、こっちもすでに結構ぶち込んでるぞ!』
・・・
俺は通信を切り、改めて目の前のホワイトディメンションを見る。
確かに。
最初より大きい。
俺の番重。
幻威。
プレデターショット。
全部こいつに吸われた。
だったら、今までの攻撃は無駄じゃなかったということになる。
「食えば食うほど強くなるんじゃなくて……限界が近づいてたのか」
なら、あと少し食わせればいい。
そこから饗力で仕留める。
俺は食欲を練ろうとした。未完成ではあるが多少はなんとかなるはずだ……!
その瞬間だった。
「――冥王の嗅覚」
「……え?」
聞き間違いかもしれない。
いや、声が聞こえたという感覚すら曖昧だった。
だが確かに、そんな言葉が頭の中を通り抜けた。
プルートセンス。
直後。
俺の目の前にいたホワイトディメンションの動きが止まった。
そして全身が、一気に粒子へ変わる。
「なっ……!」
俺が何百枚もの番重を失い、右腕まで持っていかれた相手。
それが抵抗する間もなく崩れていく。
白い粒子は空中へ消えたのではない。
何かに引き寄せられるように、一点へ集まっていく。
そこに立っていた。
「……トリコ」
伝説の美食屋。
さっきまで遠くで戦っていたはずの男が、いつの間にか俺の目の前にいる。
そして、ホワイトディメンションを構成していたものは、そのトリコへ吸い込まれるように完全に消滅した。
俺は言葉を失った。
魔王の嗅覚――デビルセンス。
その名前なら知っている。
だが今のは、それより上なのか。
「冥王の嗅覚……プルートセンス……?」
頭の中が、それだけでいっぱいになりそうになる。
もっと見たい。
何をした。
どうやった。
そもそも、なぜ今のトリコは俺の目の前にいる。
聞きたいことが山ほどある。
だが。
「こいつは……猛獣じゃねえな……」
トリコの言葉で、我に返った。
「……猛獣じゃない?」
俺は消えたホワイトディメンションの場所を見る。
白い粒子はほとんど消えていた。
だが、その奥。
ほんの一瞬だけ。
何かが見えた。
白い糸。
いや。
食欲の流れ。
ホワイトディメンションから、さらに遠い何かへ繋がっている。
こいつが一つの生命ならありえない。
どこか別の場所から伸びてきたもの。
誰かが操っていた。
あるいは――。
誰かが作った。
「なんだ……あれ……」
俺の中で、何かが大きく震えた。
グリドでもない。
ミルカでもない。
マザーグリード。
『……っ』
いつも偉そうなマザーグリードから、明確な動揺が伝わってくる。
「マザー?」
返事がない。
俺が精神食卓へ意識を向けようとした瞬間、かすかな声が聞こえた。
『……主……』
「え?」
マザーグリードが、そんな言葉を口にした。
主……?
俺が問いかけようとした、その瞬間。
世界が大きく揺れた。
「うおっ!?」
乾いた大地に亀裂が走る。
空。
地面。
トリコ。
すべてが本のページのように歪み始めた。
『アマジン!』
通信機からブラウスの声が響く。
『知識の海が崩れています!』
「なんで急に!」
『分かりません! 記録そのものが閉じようとしています!』
トリコを見る。
「待ってくれ!」
せっかく会えた。
いや。
会えたと言っていいのかすら分からない。
「トリコ!」
俺は叫んだ。
だが、やはり反応はない。
トリコの姿にも亀裂が入り、ページに書かれた絵が破れるように崩れていく。
「くそ……!」
まだ聞きたいことがある。
ホワイトディメンション。
冥王の嗅覚。
饗力。
そして。
この世界のこと。
だが、そんな俺の都合など関係なく、知識の海は閉じていく。
最後に見えたのは、こちらに背を向けたトリコの姿だった。
そして。
暗転した。
・・・
・・
・
「――ジン!」
声が聞こえる。
「アマジン!」
「……っ!」
目を開けた。
目の前にブラウスがいる。
「よかった……!」
「ここは……」
体を起こす。
白い大地。
だが、さっきまでの乾いた荒野ではない。
空気には匂いがある。
知らない植物。
湿った土。
どこか甘い香り。
はむまるが勢いよく俺へ飛びついてきた。
「きゅい!」
「はむまる!」
俺はその体を受け止める。
少し離れた場所では、アールシが周囲を見つめていた。
そして、静かに言った。
「到着したようですね」
「……到着?」
「はい」
アールシは、遠くに広がる白い世界を見る。
「レコル星です」
俺はゆっくりと立ち上がった。
ようやく辿り着いた。
レコル星。
でも、俺の頭に浮かんでいるのは、この星の景色ではない。
ホワイトディメンション。
トリコ。
そして、消える直前に見えた白い食欲の先。
『……主……』
マザーグリードの言葉が、まだ耳の奥に残っている。
「マザー……」
呼びかけても、返事はなかった。
俺は白い大地を見つめた。
レコル星が、なぜ俺たちにあの記録を見せたのか。
まだ分からない。
ただ一つだけ確かなことがある。
ホワイトディメンションは……猛獣ではない。
そして。
あいつの向こうには、まだ何かがいる。