ペア特別管理ビオトープまでの道のりは、エアの時とだいたい同じだった。
都市部の駅から電車に乗り、乗り換えをして、さらに専用の連絡線へ入る。
ただ、エアの時より少し遠い。
いや、電車は三回乗り継いだか。
エアのビオトープへ行った時は、公共交通機関で危険区の近くまで行けることにかなり衝撃を受けた。
だが、二度目ともなると多少は慣れる。
地球のフルコースを食べに行く。
その移動手段が電車。
冷静に考えれば今でも意味が分からないが、これが千年後のグルメ時代なのだ。
人類は地球を開拓し、グルメ界を整備し、かつて命懸けでしか辿り着けなかった場所に駅を作った。
便利すぎる。
だが、便利だから安全とは限らない。
それはエアのビオトープで嫌というほど学んだ。
今回、最後に乗ったキャンピングモンスターは、電シャークという名前だった。
名前の通り、巨大なサメ型のキャンピングモンスターだ。
ただし、海を泳ぐのではない。
空中に敷かれた専用のグルメレールを、まるで新幹線のような速度で走る。
いや、泳ぐと言った方が近いのかもしれない。
滑らかな銀色の体。
横に並ぶ窓。
背びれ部分に設置された展望席。
口元には丸いライトがあり、正面から見ると少し可愛い。
だが、速度はまったく可愛くなかった。
「はっや……!」
窓の外の景色が、線のように流れていく。
エアの時に乗ったオクトちゃんは、ゆったりしたキャンピングモンスターという感じだった。
巨大なタコ型で、地形を選ばず進み、客室も快適。
旅を楽しむ乗り物だった。
対して電シャークは完全に速度重視だ。
揺れは少ない。
座席も安定している。
だが、外の景色があまりにも速く流れるので、目で追うだけで少し疲れる。
それでも、俺は窓に張りつくように外を見ていた。
道中に見えるエリア七は、すべてが巨大だった。
木が巨大。
岩が巨大。
草が巨大。
遠くを歩く生物の影まで巨大。
トリコで見ていたから、知識としては知っていた。
この大陸が猿の楽園だったことも。
かつて百Gマウンテンが存在していたことも。
猿王バンビーナが君臨していた場所であることも。
だが、実際に見るとやはり違う。
前世で漫画のコマとして見ていた景色が、今は窓の外に広がっている。
その現実感に、胸が熱くなる。
巨大な樹々の隙間を、電シャークはとんでもない速度で抜けていく。
車内アナウンスが流れた。
『現在、エリア七特別管理区画外縁部を通過中です。窓から身を乗り出さないでください。巨大昆虫類との接触事故を防ぐため、外部シールドを展開しています』
身を乗り出す人間がいるのか。
いや、いるのだろう。
この世界の人間は好奇心が強すぎる。
俺も気持ちは分かる。
だが、ここで窓から身を乗り出す勇気はない。
エリア七のビオトープ化されている部分は、エリア七全体でいうと三十パーセントにも満たないらしい。
つまり、俺が今見ている景色の多くは、まだ完全には管理されていない区域だ。
人間が入れるようになったとはいえ、グルメ界はグルメ界。
地球の開拓はほぼ終わったと言われていても、それは人間が地図を作り、管理区画を設け、危険を把握したという意味に近い。
本当にすべてを掌握しているわけではない。
エリア七も同じだ。
ペアの泉を中心に、特別管理ビオトープが作られている。
その周囲を、二重の巨大な壁が囲っている。
一つ目の壁は外部生物の侵入を防ぐため。
二つ目の壁は、万一内部で異常が起きた時に外へ広げないため。
まるで城塞都市だ。
いや、城塞というより、地球のフルコースを守る檻かもしれない。
かつて百Gマウンテンがあった場所。
そこに、ペアの泉はあるという。
泉の中心には光り輝く玉があり、そこから絶えずペアが滴り落ちている。
文献で読んだ時、俺は思わず笑った。
最近の資料では、その球体の正体について、宝石だとか未知の鉱石だとか、特殊な食材核だとか、さまざまな説が並んでいるのだ。
だが、俺は知っている。
あれは猿王のキンタマだ。
……などと堂々と言える空気ではないが、事実は事実である。
どうやら、そのあたりの情報はしっかりと伝わっていないらしい。
千年という時間の中で、伝説は美化され、記録は整理され、都合の悪い表現はぼかされたのだろう。
まあ、教科書に「猿王のキンタマから滴るスープ」と書かれていたら、授業中に絶対笑う。
俺だって笑う。
だから仕方ないのかもしれない。
猿王。
かつて、この大陸は猿の楽園だった。
しかし現在、そのほぼ全てが絶滅している。
理由は、約千年前のホワイトディメンション襲来。
全てを無尽蔵に飲み込む、白い宇宙から飛来したゴーレム。
地球がネオとの戦いを越えたわずか五十年後に現れた、最初の宇宙規模の災厄。
それは、このエリア七に現れたのだった。
ホワイトディメンションは、ブラックホールのようにあらゆるものを飲み込んだ。
地形も、生物も、食材も、空気も、光すらも。
猿たちは必死に抵抗したという。
大陸を埋め尽くすほどの猿たち。
かつて猿武を極め、独自の文化と秩序を持っていた者たち。
しかし、初動で猿の楽園は一瞬で崩壊した。
詳しくは記されていない。
記録の多くは断片的で、映像も残っていない部分が多い。
だが、一つだけは分かっている。
猿武は、この時点で失われてしまったのだ。
千年前のトリコたちが学んだ技術。
食義に通じ、感謝と遊びを通して体を極限まで洗練させる技。
それは、猿たちの絶滅と共に歴史の中へ消えていった。
俺は窓の外を見つめた。
巨大な樹々の影。
広大な大地。
かつてここに無数の猿たちがいた。
今は、そのほとんどがいない。
グルメ時代は豊かになった。
人類は強くなった。
地球は開拓された。
だが、失われたものもある。
そのことを、エリア七の景色は静かに突きつけてきた。
・・・
電シャークが到着した先は、エアの施設と似た雰囲気だった。
巨大な駅。
整備された広場。
案内板。
売店。
レストラン。
記念撮影用の巨大なペアの模型。
ただし、エアのビオトープよりも全体的に厳かな空気がある。
観光客もいるが、数は少ない。
騒いでいる人もあまりいない。
ペアという食材の性質のせいだろうか。
ここでは、一般人がペアを飲むことはできないらしい。
エアの場合、危険区に入らなくても関連料理を食べられるレストランがあった。
しかしペアは違う。
飲めるのは、食歴に天然のエアを刻んだ上で、ペアの危険区域を越えた者のみ。
持ち帰りは不可。
その場で飲むことだけが許されている。
地球のフルコースの中でも、ペアは特に管理が厳しい。
理由は明白だ。
養殖に成功していない。
人の手で増やせない。
泉からいつまで湧き続けるかも分からない。
そんな食材を、気軽に持ち帰らせるわけにはいかないのだろう。
俺は受付へ向かった。
エアの時と同じように、危険区入場受付と一般展示エリアの入口が分かれている。
ただ、今回はエアの時より待っている人が少なかった。
半分くらいだろうか。
エアを食べていることが条件なら、当然だ。
これは言わば、美食屋になるための第二試験。
第一試験より人が減るのは当たり前か。
俺の順番が来る。
受付の係員は、穏やかな表情の中年男性だった。
「グルメIDを確認します」
「はい」
俺は首の後ろにあるグルメIDを端末に同期させた。
画面に俺の食歴が表示される。
係員の目が少し大きくなった。
「すごいな君。まだ子供なのにちゃんと天然エアを食べたんだね」
「あ、はい。なんとか」
「資格はあるよ」
その一言で、少し胸が熱くなった。
資格がある。
ペアへ挑む資格。
エアを食べたことが、確かに俺の中に刻まれている。
食歴。
この世界では、食べたものがただの記憶ではなく、体の記録として残る。
俺の体は、もうエアを知っている。
それが次の食材への扉を開いてくれる。
「あの、なんか誓約書とかはいらないんですか?」
エアの時は、死んでも知りませんと言わんばかりの誓約書があった。
正直、今回も覚悟していたのだが、係員は首を振った。
「不要だ。エアを食べている時点で、既に了承済みということになる」
「そうなんですか」
「地球のフルコースへ挑む者は、一品ごとに危険を受け入れる。エアを越えた者なら、そこは理解しているはずだ」
なるほど。
制度としては少し乱暴な気もするが、言いたいことは分かる。
エアを食べた時点で、危険区がどういう場所かは経験している。
その上でペアへ来たのなら、覚悟はあると見なされるのだ。
「気を付けて行きなさい」
「はい」
それから係員は、一通りのルールを説明してくれた。
ペアは持ち帰り禁止。
採取したペアは、その場で飲むことだけが許されている。
飲める量は受付で渡される専用のコップ一杯分まで。
危険区域内で発見した食材の持ち出しも、別途申請が必要。
泉そのもの、中心の球体、周囲の保護結界には触れてはいけない。
そして、ペアを飲んだ後は必ず出口で食歴確認を受けること。
係員は、透明な専用コップを俺に渡した。
見た目は普通のコップより少し大きい。
だが、側面には細かな目盛りと、グルメID連動式の認証紋が刻まれている。
「ここに入れた分しか飲んではいけない」
「なるほど」
俺はコップを受け取った。
正直、一瞬だけ思った。
泉に辿り着けば、たくさん飲んでもバレないのではないかと。
だが、その考えはすぐに読まれた。
係員がにこりともせずに言う。
「出てきた時に食歴を確認する。たくさん飲んだらすぐバレる。速攻刑務所行きだ」
「やりません!」
俺は即答した。
本当にやらない。
そもそも地球のフルコースを盗み食いして刑務所行きとか、あまりにも情けない。
美食屋になる前に犯罪者になってどうする。
係員は少しだけ笑った。
「よろしい。では、入場を許可する」
エアの時と比べると、ずいぶんすんなり通された。
二千万円の支払い問題もない。
持ち帰り不可だからだろう。
その代わり、資格そのものが厳しい。
エアを食べていなければ、そもそもここには立てない。
俺は改めて気を引き締めた。
今回の荷物検査は、すぐにパスした。
なぜなら、初めからポシェットしか持っていないからだ。
エアの時、俺は大きなカバンいっぱいに荷物を詰め込んでいた。
便利そうな道具。
予備の装備。
携帯食。
使うかどうか分からないものまで、とにかく詰めた。
だが、その大半は入口で預けることになった。
そして、実際の危険区で分かった。
大荷物を持っていたら、即座に反応できない。
ガララワニ。
毒沼蛇。
グリーントロル。
あの場で背中に大きな荷物を背負っていたら、動きは確実に鈍っていただろう。
美食屋に必要なのは、道具をたくさん持つことではない。
必要なものだけを選び、足りないものは現地で調達すること。
だから今回、荷物は最初から最小限にした。
簡易食材鑑定キット。
グルメID同期端末。
緊急転送ビーコン。
携帯用調理ナイフ。
冒険ノート。
専用コップ。
あとは、このポシェットに入るだけでいい。
足りない食材は現地調達。
腹が減ったら、自分で見つける。
それが、エアの旅で学んだことだ。
ただ――。
ふと、ブラウスのことを思い出した。
白い髪の料理人。
響金包丁ハルシア。
毒雨草原で作ってくれた料理。
ガララワニも、毒沼蛇も、あいつが調理すると別物のようにうまかった。
今回、ブラウスはいない。
つまり、食材を見つけても、俺ができるのはせいぜい焼くだけだ。
「また焼くだけの料理か……」
思わず呟いた。
前なら、それでも十分だと思っていた。
自分で捕った食材を、自分で焼いて食べる。
それだけでも最高にうまい。
だが、ブラウスの料理を知ってしまった。
食材が料理に変わる瞬間を知ってしまった。
そうなると、ただ焼くだけでは少し寂しい。
いや、贅沢な話だ。
最初の旅であれだけの料理人に出会えたこと自体が奇跡だった。
ブラウスは今頃、エアを持ち帰って父親を説得しているのだろうか。
うまくいっているといいな。
料理だけをしたいという気持ちを、ちゃんと伝えられているといい。
俺は少しだけ寂しい気持ちになった。
だが、すぐに首を振る。
ここから先はペアの危険区。
寂しがっている場合ではない。
エアの時とは違う。
俺はもう、危険区がどういう場所か知っている。
グリーントロルのような予想外の脅威が現れる可能性だってある。
油断すれば死ぬ。
俺はポシェットを確認し、グルメスモックをいつでも発動できるように腹の奥へ意識を落とした。
受付の奥で、巨大な門が開く。
その向こうから、エリア七の濃い空気が流れてきた。
湿っていて、甘くて、どこか獣の匂いがする。
かつて猿たちの楽園だった大陸。
失われた猿武の地。
そして、ペアの泉へ続く道。
「行くぞ」
俺は一歩を踏み出した。
目指すは地球のフルコース、二品目。
ペア。
美食屋になるための第二試験が、今始まる。
次回 18話 再会の森 です。