道のりを整理しよう。
ペアの泉は、元百Gマウンテンに位置する。
かつて猿王バンビーナが君臨し、猿武の極致が存在した場所。
現在では特別管理ビオトープとなり、厳重に保護されている地球のフルコースの一つ。
だが、そこへ辿り着くには当然ながら道がある。
まず、俺が今いる入口から広大な森を抜ける。
その先にあるのが、零山脈。
この零山脈が、ペアの泉を囲むようにそびえている。
そして、その向こうにペアの泉がある。
言葉にすれば簡単だ。
森を抜けて、山脈を越えて、泉へ行く。
だが、もちろんそんな遠足みたいな話ではない。
零山脈。
そこは生命の音がない、静寂の場所。
酸素が存在せず、呼吸が全くできない場所だという。
風もない。
虫の音もない。
鳥の鳴き声もない。
草木のざわめきすらない。
生き物の気配が消える、無音の山脈。
ただし、完全に何もないわけではない。
そこには今も、サンドリコが生えているかもしれない。
サンドリコ。
ココのフルコースに入っている花。
この花の花粉は、猛烈なアレルギー反応を引き起こす抗原を持っている。
どんな生物でも一度吸い込むと花粉症に侵され、どれほど巨大な猛獣であっても、体中の水分が数秒で排出されて100パーセント死に至る。
昔の資料には、そんな恐ろしい説明が書かれている。
初めて読んだ時は、花粉症という言葉の凶悪さにしばらく固まった。
前世の花粉症とは次元が違いすぎる。
くしゃみや鼻水どころではない。
吸ったら死ぬ。
花粉症とは。
ただし、それもまた昔の話だ。
現在では、サンドリコから抽出された特効薬が錠剤として存在している。
万一花粉を吸い込んでも、初期症状の段階なら治療可能。
さらに、グルメ細胞ワクチンや各種アレルギー対策の発展によって、サンドリコに対する抗体を持つ者もいる。
俺も一応、事前のアレルギー検査では抗体ありと判定されていた。
だから、理論上は大丈夫。
だが、実際にサンドリコの花粉を吸ったことはない。
検査結果と現場は違う。
エアの時に、それは嫌というほど学んだ。
安全と表示されていても、現地では何が起きるか分からない。
さらに零山脈には酸素がない。
つまり、エアを食べていなければ絶対に通り抜けることができない。
ポシェットには多くはないが、エアを入れている。
ブラウスが調理してくれた分と、持ち帰ったエアから少しだけ携帯用に加工したものだ。
ここに入る前に、しっかりと食べなければならない。
呼吸できない山脈を進むために、空気そのものを食べておく。
改めて考えても、とんでもない世界だ。
だが、今の俺にはそれが少し楽しい。
エアを食べたことで、体は確かに変わった。
呼吸が深い。
視界が広い。
傷の治りも早い。
そして何より、次の食材へ進む資格を得た。
俺は今、地球のフルコースを一つ食べた美食屋候補なのだ。
胸の奥が熱くなる。
もちろん、零山脈の前には広大な森がある。
この森にも、凶暴な猛獣はたくさんいるだろう。
巨大な昆虫。
猿の楽園の名残を持つ生物。
ホワイトディメンション襲来後に独自進化した獣。
グルメインフレーションの波に乗り、千年前より強くなった食材たち。
危険はある。
だが、恐怖よりも食べたいという気持ちが勝っていた。
ワクワクしている。
サンドリコも食ってみたい。
エリア七にある巨大で旨そうな食材も食いたい。
どんな味がするのか。
どれほど細胞が喜ぶのか。
俺のグルメスモックは、どこまで通用するのか。
腹が鳴った。
ぐう、と。
森の入口に立っているだけなのに、もう腹が減っている。
「楽しみだ」
そう思うと、足取りは軽くなった。
俺はグルメスモックをいつでも発動できるように意識しながら、森へと足を踏み入れた。
・・・
エリア7の森は、想像以上に大きかった。
一本一本の木が巨大だ。
幹の太さは家一軒分どころではない。
枝は空を覆い、葉は一枚一枚が布団ほどの大きさを持っている。
足元の草も背が高く、普通に歩いていると視界を遮るほどだ。
空気は濃い。
エアビオトープの空気が透明で澄んでいたとすれば、ここは緑そのものを吸っているようだった。
甘い匂い。
土の匂い。
獣の匂い。
熟した果実の匂い。
腐敗した何かの匂い。
それらが複雑に混ざり合っている。
俺の腹がまた鳴った。
この森は、食材の宝庫だ。
それは間違いない。
だが、同時に危険も多いはずだ。
俺はポシェットをしっかりとしめる。
荷物は少ない。
だが、これでいい。
エアの時のように大荷物を持っていたら、きっと動きが鈍る。
この森では、一瞬の遅れが命取りになるかもしれない。
俺は慎重に進んだ。
巨大な根を越え、ぬかるんだ地面を避け、頭上の枝に注意する。
どこから何が来るか分からない。
食材を見つけたい。
だが、食材に見つかる危険もある。
そんなことを考えながら進んでいると、さっそく前方の茂みが揺れた。
大きな葉の陰で、何かが動いている。
俺は足を止めた。
グルメスモックを発動する。
白い給食着のようなエネルギーが全身を包み、帽子とマスクが形作られる。
相変わらず見た目は締まらない。
だが、今ではこの姿にもだいぶ慣れた。
俺の鎧だ。
食材へ向かうための作業着。
茂みがさらに揺れる。
獣か。
虫か。
鳥か。
どんな食材だ。
俺は右腕に軽く力を込めた。
必要ならキッチンハサミで仕留める。
あるいは番重落としで動きを止める。
「最初の食事はお前だ!」
そう思った瞬間――。
茂みから、白い髪が出てきた。
「……ブラウス?」
俺は固まった。
茂みの中から現れたのは、見覚えのある白髪の少年だった。
ブラウス。
エアビオトープで出会った、天狗族の末裔。
響金包丁ハルシアを持つ料理人。
毒雨草原で俺と一緒にエアを目指した相棒。
そのブラウスが、なぜかエリア7の森から出てきた。
「アマジンさん……」
ブラウスも俺を見て固まっていた。
以前より装備は整っている。
耐久性の高そうな軽装。
腰には小型の調理道具。
背中にはいつもの長方形のケース。
ポシェットもある。
さらに、靴や手袋も危険区仕様だ。
エアの時とは違い、準備はかなりまともに見える。
だが――。
目は完全に死んでいた。
「……」
「……」
しばらく無言だった。
森の奥で、鳥とも獣ともつかない鳴き声が響く。
巨大な葉から水滴が落ちる。
俺はゆっくりと口を開いた。
「説得は?」
ブラウスは、虚ろな目で俺を見た。
「成功してたら、ここにいませんよ!」
「だよな……」
分かっていた。
見た瞬間に分かっていた。
だが聞かずにはいられなかった。
ブラウスは深いため息をつく。
「エアを持って帰って、父にちゃんと話したんです。僕は料理がしたい。調達ではなく、料理人として食材と向き合いたいって」
「おお」
「父は真剣に聞いてくれました」
「おお!」
「そして言いました」
ブラウスは遠い目をした。
「『ならば、次はペアだな』と」
「会話が成立してねえ」
「そのまま電シャークに乗せられて、ここまで直行です」
「早すぎるだろ」
「装備は父が持ってきてくれていました」
「そこは優しいのか……?」
いや、優しいと言っていいのか分からない。
息子の主張を聞いた上で、即座に次のフルコースへ連れてくる父。
しかも装備は用意済み。
完全に予定通りだったのではないか。
ブラウスの父親、相当な強者である。
いや、違う意味で。
「まぁでも今回は」
ブラウスは少しだけ胸を張った。
「投げられた時、受け身を取れました」
「せ、成長しているな……!」
俺は何とか褒めた。
褒めていいのか分からないが、たぶん褒めるべきだ。
前回は毒雨草原に放り込まれて、ろくに動けず大木の根元で震えていた。
今回は装備もある。
ポシェットもある。
受け身も取れた。
なるほど、成長している。
方向性が正しいかはともかく。
ブラウスは周囲を見回した。
「でも、やっぱり僕一人では不安で……この辺りに隠れていました」
「それで茂みにいたのか」
「はい。食材か猛獣が来たらどうしようかと」
「俺はお前を食材かと思った」
「食べないでください」
「食わねえよ」
少しだけ笑いが漏れた。
エアの時と同じだ。
危険区で、またブラウスに会った。
状況はひどい。
だが、不思議と心が軽くなる。
俺は一人ではない。
そして、俺の前にはまた料理人がいる。
正直に言えば、かなり嬉しかった。
今回も食材を焼くだけかと思っていた。
ブラウスの料理はもう食べられないのかと、少し寂しくなっていた。
それが、森に入ってすぐ再会である。
運がいいのか、ブラウスの父親がやばいのか。
たぶん両方だ。
「とりあえず、ここにずっと居るわけにはいかないだろう?」
俺はブラウスの肩に手を置いた。
前回と同じように、食欲のエネルギーを流す。
グルメスモック。
自分の体だけではなく、ブラウスにも纏わせる。
白いエネルギーが彼の体を包み、給食着のようなスモックと帽子、そしてマスクを形作った。
俺とブラウスの間には、細い白い紐が伸びる。
カロリー供給用の接続線。
「またこれを着ることになるとは……」
ブラウスが袖を見下ろす。
「嫌か?」
「いえ。不思議と安心します」
「ならよし」
俺は笑った。
見た目は相変わらず給食当番が二人。
だが、この姿で俺たちは毒雨草原を越えた。
なら、エリア7の森だって越えられるはずだ。
「行こうぜ。一緒に」
俺がそう言うと、ブラウスは少し驚いた顔をした。
それから、嬉しそうに頷いた。
「はい! 今回もよろしくお願いします!」
「こちらこそ。料理、頼りにしてる」
「任せてください」
その瞬間、ブラウスの目に少し光が戻った。
やはり料理の話になると、彼は強い。
俺は食材を見つける。
ブラウスは料理にする。
エアの時にできた形が、またここで戻ってきた。
俺たちは並んで森の奥を見た。
この先には、零山脈。
酸素のない静寂の場所。
サンドリコ。
そして、ペアの泉。
危険は多い。
だが、今は心強い。
俺の腹が鳴る。
ブラウスも少し照れたように腹を押さえた。
「まずは、何か食材を探すか」
「はい。できれば調理しがいのあるものがいいですね」
「じゃあ、最初の食事を探しに行こう」
俺たちは、エリア七の巨大な森へ足を踏み入れた。
目指すは、地球のフルコース二品目。
ペア。
そしてその前に――。
腹ごしらえだ。
次回は間話が入ります。
メリスタ回です。
お気に入り、感想、評価本当に感謝しております!
感想すべて読ませていただいております。
そして、感想での疑問を本文で出すのがすごく楽しみです。
今のところほぼ全ての疑問にお答えできる予定です。
引き続きよろしくお願いいたします!