IGO本部、地下研究区画。
そこは、地上の喧騒から完全に切り離された場所だった。
厚いグルメマテリアル合金の隔壁。
何重にも張り巡らされた細胞汚染防止フィールド。
空気中に漂う微細な食欲の反応すら検知するセンサー群。
その中心にある大型解析室では、現在、最重要レベルの検体が調査されていた。
グリーントロル。
エリア七、ペアの泉付近に出現した、グリーンニトロ系外宇宙勢力。
メリスタが捕獲――正確には、頭部を残したまま討伐した個体である。
巨大な培養槽の中に、その頭部が浮かんでいた。
緑色の皮膚。
岩のように発達した顎。
人間とは明らかに異なる骨格。
だが、単なる猛獣ではない。
言葉を話し、武器を扱い、明確な目的を持って行動していた知的生命体。
その細胞情報が、今、解析装置によって少しずつ暴かれている。
モニターには、細胞組織の断面図、グルメ細胞反応、食欲波形、悪魔因子の分布が表示されていた。
メリスタは腕を組み、黙ってそれを見つめていた。
隣では、主任研究員が何度も解析結果を確認している。
その顔色は悪い。
興奮ではない。
恐怖に近いものがあった。
「驚いたな……」
メリスタが低く呟いた。
「グリーントロル。まさか、グルメ細胞の悪魔そのものではないとはな……」
千年前から確認されている、グルメ細胞の食欲が具現化した存在。
グルメ細胞の悪魔。
それは、人間などの生命体のグルメ細胞に潜む、食欲の怪物である。
悪魔には様々な種族がいる。
デビル。
オーガ。
サタン。
トロル。
その姿も性質も、個体によって大きく異なる。
ある者は炎のような食欲を持つ。
ある者は闇を喰らう。
ある者は毒を好み、ある者は星の味を求める。
そのほとんどは、宿主のグルメ細胞の奥深くに潜み、静かに復活の時を待っている。
なぜ潜むのか。
答えは単純だ。
宿主を育てるためである。
宿主が美味いものを食べる。
グルメ細胞が進化する。
食欲が肥大化する。
そして、宿主が限界まで成熟した時、悪魔はその宿主を食い、自らが完全に復活する。
それが多くのグルメ細胞の悪魔の本能であり、目的だった。
もちろん、全てが同じではない。
宿主と共存する者もいる。
宿主を導く者もいる。
力を貸す代わりに、代償を求める者もいる。
だが基本的に、グルメ細胞の悪魔は宿主を器として利用する。
そして最終的には、器を喰う。
人類がグルメ細胞を扱う上で、最も警戒すべき存在でもあった。
その中でも、ブルーニトロやレッドニトロたちは特殊だった。
彼らは数多く存在し、グルメ細胞の悪魔でありながら、個々に肉体を持って存在している。
独立した悪魔側種族。
グルメ細胞の悪魔であり、同時に一つの生命種族でもある。
千年前の記録では、彼らは地球の食を巡る戦いに深く関わっていた。
そして、グリーンニトロが現れた時。
共に襲来した存在がいた。
グリーントロル。
巨大な緑の体を持ち、圧倒的な力で地球を蹂躙しようとした宇宙勢力。
当時の記録では、彼らもまたグルメ細胞の悪魔の一種と認識されていた。
トロル種。
悪魔側の存在。
そう分類されていた。
だが、現実は違った。
そしてそれは、考えたくない現実だった。
「グリーントロルは……元々、人間のような種族だった可能性が高いです」
主任研究員が、震える声で報告した。
「体内構造には悪魔側種族とは異なる器官が複数確認されています。消化器、神経系、生殖痕跡、社会性行動に関わる脳領域……これらは、独立した肉体を持つ支配者側種族の特徴に近い」
メリスタは目を細める。
「つまり、こいつらは悪魔そのものではなく、悪魔に食われた種族ということか」
「はい」
研究員はモニターへ視線を向けた。
「元々は、人間と同じくグルメ細胞の悪魔を宿す側だったと思われます。しかし、ある時点で……種族として悪魔に完全に食われている」
完全復活。
その言葉が、解析室の空気を重くした。
グルメ細胞の悪魔が宿主を食い、肉体を奪い、完全な存在として現れる。
一個人であれば、それは過去にも例がある。
暴走したグルメ細胞。
悪魔に呑まれた美食屋。
悪魔そのものと化した生物。
だが、これは違う。
個体ではない。
種族。
グリーントロルという種全体が、悪魔に食われている。
「こいつの細胞……個体ごとに悪魔を宿しているわけではありません」
主任研究員の声が震えた。
モニター上に、細胞反応の波形が表示される。
通常、グルメ細胞の悪魔を宿す個体には、その個体ごとの悪魔因子が存在する。
波形には個性があり、食欲の癖があり、宿主と悪魔の関係性が反映される。
しかし、グリーントロルの細胞は違った。
個体の奥に、一体の悪魔がいるのではない。
細胞そのものが、どこか別の巨大な食欲と同期している。
まるで、遠く離れた本体から命令を受けているように。
まるで、全身の細胞が一つの皿に盛りつけられているように。
「もっと……巨大な一つの食欲に、細胞全体が同期しているような……」
研究員は怯えながら言った。
メリスタはしばらく黙っていた。
そして、静かに口を開く。
「まるで一匹の悪魔が、種族全体を食卓に並べているようだな」
その言葉に、研究員たちが息を呑んだ。
比喩ではない。
実際に、そう見えるのだ。
グリーントロルは一体一体が独立した戦士に見える。
言葉を話し、判断し、武器を扱う。
だが、その食欲の根元は一つ。
遠く、宇宙のどこかにいる巨大な悪魔。
その悪魔が、グリーントロルという種族を丸ごと支配している。
食材として。
兵隊として。
器として。
そして、必要ならいつでも喰える皿として。
「これで、メモリにあった情報の意味が分かりました」
別の研究員が、震える手で端末を操作した。
宇宙探査隊が持ち帰った謎のメモリ。
その中に含まれていた断片情報が、解析画面へ表示される。
『宇宙において、一個体一悪魔の関係性は極めて稀』
『多くの場合、一つの悪魔が複数個体、種族、星域単位で食欲を支配する』
『支配下種族は、悪魔の力を分配される代わりに、食欲の自由を失う』
『完全同期状態にある種族は、悪魔の遠隔食卓とみなされる』
メリスタは画面を睨んだ。
宇宙では珍しいことではない。
一つの悪魔が、種族や星を丸ごと支配する。
むしろ、それが普通。
群れが一つの悪魔に力を与えられ、その悪魔の食欲に従って動く。
星全体が一つの悪魔の胃袋となり、そこに住む種族が悪魔の手足となる。
宇宙の食欲は、地球人類が考えていたよりも遥かに大きく、遥かに残酷だった。
「一人一体の悪魔を宿せる地球人類の方が、極めて稀で異常……か」
メリスタは低く呟いた。
人間は弱かった。
かつてはグルメ界の環境に耐えることすら難しく、猛獣一体に国が滅びることもあった。
しかし、人間には奇妙な性質があった。
個人として、グルメ細胞の悪魔と向き合える。
一人の中に、一体の悪魔。
宿主と悪魔が互いに影響し合い、時に争い、時に力を貸し合う。
それは、宇宙規模で見れば異常な才能だった。
多くの種族は、一匹の悪魔にまとめて支配される。
食欲を一つに塗り潰される。
しかし人間は、個々が自分の食欲を持ち、自分の悪魔を宿す可能性がある。
それは危険でもある。
悪魔に喰われる者もいる。
暴走する者もいる。
だが同時に、可能性でもあった。
悪魔を取り込み、使役し、共存し、あるいは超える可能性。
人間はまだ、支配者側の位置にいる。
器でありながら、器のまま終わらない種族。
それが人類だった。
「所長……」
主任研究員が、恐る恐る尋ねる。
「この巨大な食欲に、仮称を付ける必要があります。グリーントロル全体の同期源と思われる悪魔……メモリ内の複数データにも、それらしき名称断片がありました」
「読めるのか?」
「いえ、完全には。ただ、最も近い音としては――」
研究員は画面へ解析結果を表示した。
宇宙文字。
食欲波形。
グリーントロル細胞内に刻まれた同調コード。
それらを地球言語へ仮変換した文字列。
メリスタは、それを静かに読んだ。
「マザー・グリード……」
母なる強欲。
種族を喰い、種族を産み直し、種族を自らの食卓へ変える悪魔。
グリーントロルを支配する巨大な食欲。
その名を口にした瞬間、解析室の照明がわずかに揺れた。
まるで、その名を呼ばれた何かが、遠い宇宙の向こうでこちらを見たかのようだった。
研究員の一人が慌てて叫ぶ。
「食欲波形、瞬間的に上昇!」
「検体からの反応か?」
「いえ……違います。外部からの干渉反応です!」
解析室に緊張が走る。
メリスタの目が鋭くなる。
「通信を切れ。検体を隔離。食欲波形遮断フィールドを最大出力」
「はい!」
研究員たちが一斉に動き出す。
隔壁が降り、培養槽の周囲に黒い遮断膜が展開される。
グリーントロルの頭部から伸びていた細胞解析ケーブルが切り離され、検体は完全隔離状態へ移行した。
数秒後、外部干渉反応は消えた。
だが、誰も安堵の声を出さなかった。
今の反応は、偶然ではない。
マザー・グリード。
その名を仮に読み取っただけで、検体の奥にある何かが反応した。
あるいは、反応させられた。
遠く離れた宇宙のどこかから。
「……どうやら、こちらが覗いているつもりで、向こうからも覗かれているようだな」
メリスタは静かに言った。
その声には怒りが混じっていた。
恐怖ではない。
怒りだ。
地球に侵入し、フルコースを狙い、人間を食い、さらに研究所の奥まで食欲を伸ばそうとした存在。
好きにはさせない。
メリスタは拳を握る。
悪魔共食・黒き饗宴。
あの力を使えば、斥候一体なら圧倒できた。
だが、もし相手が種族全体を支配する悪魔だとすれば。
もし、その本体が宇宙のどこかにあり、グリーントロルの群れがすべてその手足なのだとすれば。
個体を倒すだけでは足りない。
根を断たなければならない。
「全美食屋ライセンス上位者に警戒通達を出せ」
メリスタが命じる。
「ただし、詳細は伏せろ。グリーントロルを見かけた場合は交戦禁止、即時報告。地球のフルコース管理区画は警備レベルをさらに上げる」
「了解しました」
「それと、グリーントロルの細胞解析は続行だ。ただし、今後はマザー・グリードの名を直接読み上げるな。仮称はMGとする」
「はい!」
研究員たちが慌ただしく動き出す。
メリスタは一人、隔離された培養槽を見つめ続けた。
グリーントロル。
元は支配者側の種族。
だが、強大なグルメ細胞の悪魔に種族ごと食われ、支配下に置かれた存在。
そして人間は、まだ支配者側にいる。
グルメ細胞の悪魔を取り込み、使役する可能性を持つ。
だからこそ、狙われるのかもしれない。
地球のフルコースだけではない。
人間という種族そのものが、宇宙の悪魔たちにとって極上の器に見えている可能性がある。
「厄介なことになったわい」
メリスタは小さく呟いた。
だが、その目はまだ死んでいない。
千年前、人類は何度も滅びかけた。
それでも生き残った。
進化した。
食べ続けた。
ならば今回も同じだ。
食われる側で終わる気はない。
「マザー・グリード……」
声には出さず、心の中でその名を反芻する。
黒き饗宴の悪魔が、メリスタの奥でわずかに身じろぎした。
まるで、遠い宇宙の味を想像しているかのように。
メリスタは目を細めた。
「こちらも、お前の味を調べさせてもらうぞ」
研究所の奥で、解析装置が再び低く唸り始めた。