グルメ細胞が一般化してから、人類は確実に次の段階へと進んでいた。
それは、俺自身の体でもはっきりと感じる。
まず、頭の回転が速い。
前世の俺は、決して天才ではなかった。
勉強は嫌いではなかったが、成績は中の上くらい。
何かを覚えるには時間がかかったし、数学の応用問題ではよく手が止まった。
教科書を読んでも、一度で全部理解できるわけではない。
ノートを取り、問題を解き、何度も間違えて、ようやく知識が少しずつ自分の中に沈んでいく。
それが普通だった。
けれど、この世界に生まれてからは違う。
知識が、溶け込むように入ってくる。
文字を追う。
意味を理解する。
関連する知識が頭の中で勝手につながっていく。
まるで脳そのものが、食材を消化する胃のように情報を取り込み、分解し、吸収していく感覚がある。
最初は、前世の記憶があるからだと思っていた。
大人だった頃の知識が残っているから、子供の勉強くらい簡単に感じるのだと。
だが、違う。
この世界の勉強は、前世の小学校とは比べ物にならないほど高度だった。
小学生の授業で、地球食材分布学、グルメ細胞基礎適合論、低危険度猛獣の行動予測、簡易捕獲法、人工ビオトープの生態管理まで扱う。
普通の算数感覚で、捕獲レベルと環境負荷指数を組み合わせた危険度計算をする。
社会科では、人間界とグルメ界の開拓史だけでなく、宇宙食材流通網の基礎まで出てくる。
前世の大人の知識だけでどうにかなる内容ではない。
それでも、分かる。
読めば入る。
聞けば残る。
考えれば、答えに辿り着く。
俺だけではない。
周囲の子供たちもそうだった。
グルメ細胞を体に宿した人間たちは、ただ丈夫になっただけではない。
思考速度、記憶力、集中力、判断力。
あらゆる能力が底上げされている。
運動面も同じだ。
前世であれば、フルマラソンを二時間台で走れるだけで超一流だった。
世界記録に迫るようなタイムなど、選ばれた人間だけの領域だった。
だが、この時代では違う。
学生のフルマラソン平均時間は、およそ二時間。
あくまで平均だ。
体育が苦手な生徒を含めて、それである。
もちろん、コースも前世のように平坦ではない。
高低差のある人工丘陵コース。
途中には低酸素区間、湿熱区間、重力負荷区間まである。
それでも、皆が走る。
泣きながらでも走り切る。
それがこの時代の普通なのだ。
すべてが進化している。
勉強も、運動も、食も、医療も、環境適応も。
人間そのものが、高次元の存在へ近づいている。
それでも――。
俺の中には、ずっと空腹があった。
食べ物には困らない。
街には美味いものが溢れている。
給食ですら、前世の高級料理店を軽く超える。
けれど、満たされない。
それは胃袋ではなく、心の奥の空腹だった。
まだ知らないものを知りたい。
誰も見たことのない景色を見たい。
誰も食べたことのない味に出会いたい。
千年前の伝説を追いかけたい。
美食屋トリコ。
その名を思い浮かべるたびに、俺の腹は静かに鳴った。
・・・
・・
・
「アマジン、学園総合テスト一位おめでとう」
担任の声が、講堂に響いた。
一瞬、ざわめきが広がる。
壇上に上がった俺は、学園長から薄い金属製の認定プレートを受け取った。
そこには、はっきりと文字が刻まれている。
『学園総合テスト 総合第一位 アマジン・グラント』
俺は、学園全体で順位を争う総合テストで一位を獲得した。
筆記、実技、環境適応、食材知識、簡易捕獲実習、危険予測、グルメ細胞安定率。
それら全てを合わせた総合順位。
この学園に通う同年代の中で、一番上に立った。
大げさなことをしたつもりはない。
俺はただ、今まで通り勉強をしただけだった。
授業を聞く。
教科書を読む。
気になったことを調べる。
問題を解く。
間違えたらやり直す。
前世でもやっていた、ごく普通の勉強方法だ。
けれど、結果はまるで違った。
以前なら、努力してもそこそこの成果しか出なかった。
人より少し頑張って、ようやく平均より少し上。
それが俺の限界だった。
だが、この体は違う。
同じ努力で、知識がどんどん吸収される。
昨日分からなかったことが、今日には理解できる。
一度理解した知識が、次の知識と勝手につながっていく。
実技もそうだった。
俺は特別な訓練を受けたわけではない。
昔からある筋トレや自重トレーニングを、地道に続けただけだ。
腕立て、腹筋、スクワット、懸垂、走り込み。
前世でも見たことのある、ありふれたトレーニング。
だが、グルメ細胞を宿した体は、それに驚くほど応えてくれた。
筋肉は食べたものを吸収し、骨は負荷に適応し、心肺機能は日ごとに強くなっていく。
努力が、まるで目に見える形で積み上がっていく。
だから、面白かった。
勉強も、運動も、食材知識も。
やればやった分だけ、自分が変わっていく。
それが嬉しくて、俺は毎日積み重ねた。
だが、本当の目的は別にある。
このテストで一位になること。
そして、その結果を両親に報告すること。
すべては、そのためだった。
「母さん!」
家に帰るなり、俺はリビングへ駆け込んだ。
母さんは夕食の支度をしていた。
鍋からは、濃厚な香りが漂っている。
たぶん、今夜はマイルドボアのシチューだ。
鼻だけで分かるようになった自分に少し笑いそうになりながら、俺は認定プレートを差し出した。
「約束通り一位になったよ。これで美食屋を目指していいよね?」
母さんの手が止まった。
彼女は最初、俺が何を言っているのか分からないという顔をした。
それから、認定プレートに視線を落とす。
そこに刻まれた『総合第一位』の文字を見て、目を見開いた。
「そんな……まさか本当に一位を取るなんて」
母さんの声には、驚きと困惑が混じっていた。
当然だ。
これは、ただの成績自慢ではない。
俺たちは約束をしていた。
俺が学園総合テストで一位を取ったら、美食屋を目指すことを認める。
最初にそう言ったのは母さんだった。
もちろん、本気で言ったわけではないのだろう。
どうせ無理だと思っていたのだ。
俺も、その時の母さんの気持ちは分かる。
美食屋。
千年前なら、ある程度は自称できた職業かもしれない。
美味い食材を探し、捕獲し、食す者。
危険な土地へ踏み入り、未知なる味を求める者。
だが、この時代では違う。
美食屋を名乗るには、正式なライセンスが必要だ。
勝手に名乗ることは許されていない。
もし、あの伝説の自称美食屋ゾンゲが今の時代にいたら、多分、即逮捕されている。
いや、あの人はあの人で妙な運だけで生き残りそうな気もするが、少なくとも無許可活動で行政指導は確実だ。
ライセンス情報は、首の後ろに埋め込まれているグルメIDにエンコードされる。
グルメID。
この時代の人間なら、ほぼ全員が持っている個人認証システムだ。
生体情報、グルメ細胞適合率、摂取履歴、環境耐性、医療情報、食材アレルギー、危険区域への入域権限。
それらが高セキュリティで管理されている。
昔からこのIDは存在するが、この時代のグルメIDはさらに高度化している。
偽造はほぼ不可能。
ライセンスのない者が美食屋として活動しようとしても、ビオトープの入場ゲートで即座に弾かれる。
美食屋とは、憧れだけでなれるものではない。
知識、実力、適性、精神面、そして何より安全管理能力。
それらを証明しなければ、スタートラインにすら立てないのだ。
「そもそも無理よ」
母さんは認定プレートを握りしめながら言った。
「美食屋になるには、天然の地球のフルコースを食べないとダメなのよ!」
地球のフルコース。
それは、この星を代表する八つの食材。
前菜、スープ、魚料理、肉料理、メイン、サラダ、デザート、ドリンク。
千年前の伝説に連なる、地球最高峰の味。
今の時代、美食屋ライセンスを得るためには、人工培養品ではない天然の地球のフルコースを実際に食べ、グルメ細胞を一定以上活性化させる必要がある。
つまり、美食屋になる者は、地球という星そのものの味を体に刻まなければならない。
その条件を初めて知った時、俺は震えた。
恐怖ではない。
憧れでだ。
地球のフルコースを食べる。
その響きだけで、腹が鳴りそうになる。
「天然と言っても……取れる場所はビオトープになってるし、昔ほど危険ではないよね?」
俺がそう言うと、母さんの眉がつり上がった。
「昔っていつの話よ!」
しまった。
つい千年前基準で考えてしまった。
「ビオトープとはいえ、死ぬ危険は十分にあるわ!」
母さんの言葉は正しい。
現在、地球のフルコースが採取できる場所は、厳重に管理された特別ビオトープになっている。
かつてのように完全な未開地へ突っ込むわけではない。
環境データは常時観測され、危険生物の動向もある程度管理されている。
緊急脱出用の転送設備もある。
だが、それでも安全ではない。
相手は地球最高峰の食材だ。
環境そのものが特殊で、そこに適応した生物も植物も、普通のビオトープとは次元が違う。
管理されているから大丈夫、などという甘い場所ではない。
母さんが反対するのも当然だった。
「あなたはまだ子供なのよ。成績が良かったからって、そんな危険な場所に行かせられるわけが――」
「約束は約束だ」
静かな声が、母さんの言葉を遮った。
リビングの入口に父さんが立っていた。
いつの間に帰ってきていたのだろう。
仕事帰りの上着を腕にかけたまま、父さんは俺と母さんを見ていた。
「父さん……」
母さんが責めるような目を向ける。
「あなたまで何を言ってるの?」
「気持ちは分かるよ。心配なのは僕も同じだ」
父さんは穏やかに言った。
「でも、すでに地球のフルコース自体は予防接種で吸収しているんだ。もちろん天然そのものではないし、ライセンス条件を満たすものでもない。でも、体は基礎情報を知っている。過酷なビオトープでも、完全な未摂取者よりは耐えられるはずだ」
俺は思わず息を呑んだ。
父さんは、俺が思っていたよりもずっと冷静にこの話を考えてくれていたらしい。
母さんは納得できない顔をしている。
「でも……」
「それに、アマジンは結果を出した」
父さんは俺の持つ認定プレートを見た。
「学園総合一位。簡単に取れるものじゃない。知識も、実技も、判断力も、少なくとも同年代の中では証明したんだ」
胸の奥が熱くなった。
ただ褒められたからではない。
父さんが、俺の努力を見てくれていたことが嬉しかった。
「まずは、エアのビオトープに行ってみなさい」
「エア……」
俺はその名を口にした。
地球のフルコースの一つ。
かつてグルメ界で採取された、空気の実とも呼ばれる食材。
今の時代、その天然種は特別管理ビオトープで保護されている。
美食屋志望者が最初に挑む候補としては、有名な場所だった。
もちろん、簡単という意味ではない。
地球のフルコースの中では比較的環境適応訓練に向いている、というだけだ。
「約束は約束だ。止めることはしないよ」
父さんはそう言って、少しだけ笑った。
「ただし、無茶はしないこと。正式な手続きを踏むこと。単独で危険区域には入らないこと。事前講習は必ず受けること。緊急信号を切らないこと。これが条件だ」
「父さん……!」
思わず声が震えた。
母さんはまだ不安そうだった。
だが、父さんの言葉を聞いて、ゆっくりと息を吐く。
「……本当に、行くのね」
「うん」
俺はまっすぐに頷いた。
「俺、美食屋になりたい」
その言葉は、ずっと胸の中にあったものだった。
トリコに会いたい。
千年前の伝説を追いたい。
宇宙のどこかに残っているかもしれない未知を探したい。
でも、それだけではない。
この世界で生まれて、この世界の味を知って、この世界の人たちに育てられた。
だからこそ、俺は自分の足で食材に向かいたい。
誰かが用意したものを食べるだけではなく、自分で探し、自分で辿り着き、自分で味わいたい。
「……分かったわ」
母さんは小さく呟いた。
「でも、準備はちゃんとしなさい。必要なものは全部確認すること。食事管理も私が見るわ。無理な減量も、無茶な細胞活性化も禁止。いい?」
「もちろん!」
「それと、毎日連絡」
「分かった」
「危ないと思ったらすぐ帰る」
「分かった」
「あと、帰ってきたらちゃんと感想を聞かせること」
その言葉に、俺は少し笑った。
「うん。絶対に」
母さんはまだ心配そうだったが、もう反対はしなかった。
父さんが俺の肩に手を置く。
「行ってきなさい、アマジン。君の最初の一皿を探しに」
最初の一皿。
その言葉を聞いた瞬間、俺の腹が鳴った。
ぐう、と。
リビングに間の抜けた音が響く。
母さんが呆れたように笑い、父さんも肩を揺らした。
俺も笑った。
でも、その腹の音は、ただの空腹ではなかった。
これから始まる冒険への合図だった。
許可を得た俺は、その日の夜からすぐに旅立ちの準備を始めた。
エア特別管理ビオトープ。
場所は旧グルメ界第八区域付近に再構築された、超高高度型生態保護区。
現在では軌道エレベーターとグルメ界連絡線を使えば、未成年でも保護者承認つきで移動可能だ。
ただし、入域には事前講習、適性検査、装備確認、そして仮美食屋候補登録が必要となる。
俺は端末を開き、必要項目を一つずつ確認していく。
耐圧インナー。
環境適応ブーツ。
簡易食材鑑定キット。
グルメID同期端末。
緊急転送ビーコン。
携帯用調理ナイフ。
食材保存カプセル。
それから、古い紙のノート。
デジタル端末で十分だと分かっている。
けれど、俺はどうしても手で書けるノートを持っていきたかった。
美味かったもの。
驚いた景色。
怖かった瞬間。
出会った食材。
自分の言葉で記録したかった。
いつか、トリコたちに会えた時に話せるように。
俺はノートの一ページ目を開いた。
少し考えてから、そこに大きく書く。
『美食屋アマジンの冒険記』
まだライセンスはない。
正式には、美食屋ですらない。
勝手に名乗れば怒られるかもしれない。
だから、これは俺だけの秘密だ。
いつか本当に美食屋になった時、この一ページ目を笑って見返せるように。
俺はペンを握り、もう一行を書き足した。
『第一目標――エアを食べる』
その文字を見た瞬間、胸の奥でグルメ細胞が小さく震えた気がした。
行こう。
千年後の飽食時代で。
それでもまだ、腹を空かせたまま。
俺は、最初の旅に出る。