俺は、ビービーダンゴムシでお手玉を試みていた。
丸まったビービーダンゴムシを、右手で上げて、左手で受ける。
そしてまた右手へ――。
「おっと」
ぼとり。
落ちた。
地面に落ちたビービーダンゴムシは、まるで何事もなかったかのようにころころと転がり、草の影に隠れようとする。
俺は慌ててそれを拾い上げた。
「逃げるな逃げるな。あとでちゃんと食うから」
「それ、安心させる言葉なんですか?」
隣でブラウスが少し困った顔をしていた。
俺は再びビービーダンゴムシを手のひらに乗せる。
今度こそ。
右。
左。
右。
……落ちた。
「三回が限界か……」
「一個で三回なら、まだお手玉というより投げて取っているだけですね」
「はっきり言うな」
ブラウスの言う通りだった。
俺ができるのは一個が限界。
しかも、せいぜい三回くらいしか続かない。
かつて、このエリア七にはモンキーダンスとも呼ばれる、猿武という格闘術が存在した。
力の受け流し。
自らのグルメ細胞の意志を統一させ、全ての細胞が受け流す体勢を整えることで、攻撃はおろか重力さえも受け流す。
六十兆の細胞全てを防御に使う。
そして、それを攻撃へ転化すれば莫大な力を生む奥義となる。
ただし、防御の数十倍の体力と精神力を消費するという。
地球最強の武。
そう言ってもいい技術だった。
唯一の欠点があるとすれば、グルメ細胞の悪魔と併用できない点だ。
悪魔の力は、食欲の爆発に近い。
一方で猿武は、細胞全ての意志を統一し、緻密に力を受け流す技術。
方向性が根本的に違うのだろう。
だが、俺にはそのグルメ細胞の悪魔はたぶん潜んでいない。
生まれた時にグルメ細胞ワクチンは受けている。
エアも食べた。
けれど、トリコたちのように自分の中に明確な悪魔がいる感覚はない。
なら、上を目指すのであれば、猿武は必須の技術になるのではないか。
そんなことを考えてしまう。
もちろん、現代には猿武を持たないまま活躍している美食屋たちが数多く存在している。
それどころか、現在の美食屋のほとんどは猿武を使えないはずだ。
猿たちが絶滅し、猿武そのものが失われたからだ。
それでも、強い美食屋は存在する。
つまり、何か代わりとなる他の技術があるのだろう。
現代式のグルメ細胞制御。
ライセンス保持者用の戦闘技術。
グルメマテリアル装備。
あるいは、宇宙開拓期に生まれた全く別の武術。
俺はまだ、それを知らない。
でも、知っている技術があるなら試したい。
俺が覚えているのは、せいぜいビービーダンゴムシのお手玉修行だけだ。
その後のモンキーダンスの内容は完璧には覚えていない。
それに、ともに踊る相手もいない。
百Gマウンテンはすでに崩壊しており、重力問題もないだろう。
猿王もいない。
猿武を教えてくれる猿たちもいない。
それでも、ビービーダンゴムシをある程度お手玉できるようにはしておきたい。
無事にペアを飲んで、ブラウスを見送ったら、俺はこの修行でしばらくここへ残るつもりだ。
地球最強の武の欠片。
その入口くらいは、掴んでみたい。
「アマジンさん、本当にここに残るんですか?」
ブラウスが聞いた。
「ペアを飲んだ後、少しな。無理はしない」
「その“少し”が信用できません」
「信用がない」
「あります。でも、食材が絡むとアマジンさんは突っ走ります」
「否定できない」
俺は苦笑しながら、ビービーダンゴムシをグルメケースにしまった。
食べる分とは別に、修行用として少し確保しておく。
もちろん最後は食べる。
食材で遊んで終わりにはしない。
修行に付き合ってもらったなら、最後はちゃんといただく。
それが俺なりの礼儀だ。
そうして進んでいると、森の緑が少しずつ薄くなってきた。
巨大な木々の間隔が広がる。
足元の草も低くなり、土の色が灰色を帯びていく。
空気が変わった。
濃密だった森の匂いが、少しずつ消えていく。
獣の気配も薄い。
虫の羽音も少ない。
まるで世界が、口を閉じていくようだった。
「見えてきたぞ……」
森を抜けた先に、零山脈が見えてきた。
それは、不自然なほど静かな山脈だった。
高くそびえる山々。
白でも黒でもない、灰色の岩肌。
風が吹いているようには見えない。
雲もほとんど動いていない。
生命の音がない。
ただそこに、巨大な沈黙が横たわっていた。
零山脈。
酸素がない場所。
それだけでも相当厳しい環境だ。
俺はエアを食べている。
少量だが、ポシェットにも携帯用のエアがある。
だが、ブラウスは耐えられるだろうか。
前回のようにグルメスモックで守ることはできる。
毒や衝撃、汚れならある程度防げる。
だが、さすがに酸素を供給する機能はない。
グルメスモックは作業着であって、酸素ボンベではないのだ。
エアの補給タイミングを間違えれば、大変なことになる。
俺は立ち止まり、ポシェットから携帯用のエアを取り出した。
ブラウスも自分のポシェットを開く。
「零山脈。食没でエアをたらふく食べてきましたが、どうなることか」
ブラウスが不安そうに言った。
「ブラウス、食義と食没の訓練、クリアできたんだな!」
「食義は比較的すぐでしたが、食没は苦労しました……」
「分かる。あれはきつい」
食義は必須科目だった。
食材への感謝。
食べることへの礼儀。
無駄なく吸収するための心構え。
それは、グルメ時代に生きる者なら誰もが学ぶ基礎だ。
一方で、食没は選択授業だった。
なぜ選択なのか。
理由は単純だ。
授業内容が過酷すぎるからである。
徹底管理のもと、まずは座禅一週間。
目の前には腐っている食事。
飲むことも、食べることも許されない。
飽食時代。
この時代では、食事は少しでも腐った時点で見向きもされないだろう。
いや、腐る前に処理される。
家庭でも、学校でも、店でも、食材管理は徹底されている。
安全で美味しいものが当たり前のように並ぶ世界。
だからこそ、腐った食事を前にした時、多くの子供は顔をしかめる。
汚い。
臭い。
食べられない。
そう思う。
食没の授業は、その意識を変えさせるためのものだった。
飢餓状態にし、食への感謝を再認識させる。
食べ物が目の前にあること。
食べられるということ。
食材が命を差し出してくれていること。
そして、食べられなかった食事にも、かつて誰かに食べられるはずだった時間があること。
それを叩き込まれる。
途中で倒れる者。
心が折れて断念する者。
我慢できず腐った食事を食らう者。
この時点で食没を会得する者は決して多くなかった。
俺だって、何度も心が折れかけた。
子供の時の会得率は、わずか五パーセント。
それでも以前に比べると、相当な数の子供が食没をマスターするらしい。
グルメ細胞が一般化した今だからこそ、子供のうちに可能性があるのだという。
正直、子供にやらせるには過酷すぎるだろうと思った。
でも、それなりに理由はあった。
飽食時代に生まれたとしても、子供はまだ純粋で染まりきっていない。
食への感謝をしやすいらしい。
大人になって当たり前の美味しさに慣れすぎる前に、食べることの根本を刻む。
それが、現代の食没教育だった。
俺は、訓練中に腐った食事を見て思っていた。
かわいそうだと。
腐って見向きもされない。
いや、むしろそうなってしまうまで、ずっと寂しい思いをしていたのだろうと。
どこかの片隅で、人知れず腐ってしまったのだろうと。
最初は、臭いと思った。
食べられないとも思った。
でも、ずっと見ているうちに違ってきた。
その食事は、最初から腐っていたわけではない。
誰かに食べられるために作られたはずだ。
温かい時間があったはずだ。
美味しい匂いを出していた時間があったはずだ。
なのに、誰にも食べられず、ただ放置されて、腐っていった。
皿にのせられたまま。
誰の腹にも入れず。
誰の細胞にもなれず。
ただ、そこにいた。
俺は座禅の時、他の子どもが目をつむって我慢している中、ずっと腐った食事を見ていた。
皿にのせられ、ただ放置されていて、どんどん腐敗が進んでいく。
すぐに抱き寄せて食べてやりたかった。
でも今は無理だ。
訓練中は食べてはいけない。
だから、心の中で何度も言った。
必ず食うから待っていてくれ。
一人、また一人と脱落していく。
泣き出す子もいた。
倒れて運ばれる子もいた。
腐った食事へ手を伸ばし、訓練失格になる子もいた。
そんな中、俺はその食事を見つめ続けた。
腹は減っていた。
喉も渇いていた。
頭はぼんやりしていた。
でも、不思議と目は逸らせなかった。
この食事が、俺を待っている気がした。
いや、俺が勝手にそう思っていただけかもしれない。
だが、その時の俺には本気だった。
そして――。
皿が、コトリと揺れた。
幻覚かもしれない。
飢餓状態のせいだったのかもしれない。
でも確かに、皿の上の食事がこぼれそうになった。
俺は思わず手を伸ばし、それを受け止めた。
冷たい。
腐っている。
臭い。
でも、俺の手の中にあるそれは、確かに食事だった。
「もう待てないんだな」
俺はそう呟いた。
その瞬間、訓練官が何かを言った気がする。
周りの子供たちが驚いた顔をした気もする。
だが、俺にはもう関係なかった。
俺は皿に乗ったすべてを平らげた。
うまくはなかった。
少なくとも、普通の意味で美味しいとは言えない。
だが、不思議と嫌ではなかった。
食べられなかった食事が、ようやく俺の中に入ってくる。
腐っていても。
遅すぎても。
それでも、俺の細胞になる。
そう思った。
その頃には、俺はもう食没をマスターしていた。
食べたものが、体の奥深くへ沈んでいく。
ただ胃に入るのではない。
カロリーとして蓄えられ、必要な時まで静かに沈む。
食材への感謝と共に、体内へ保存される。
それが食没だった。
「懐かしいな……」
俺は目の前の零山脈を見ながら呟いた。
「どうしました?」
ブラウスが聞く。
「食没の訓練を思い出してた」
「僕はあまり思い出したくないです」
「俺もきつかったけど、あれがなかったら今ここには立てなかっただろうな」
「それは……そうですね」
ブラウスも小さく頷いた。
俺たちは携帯用のエアを取り出した。
零山脈へ入る前に、しっかりと体内へ刻む必要がある。
酸素のない場所。
生命の音がない静寂。
サンドリコの花粉。
そして、その先にあるペアの泉。
俺はエアを口に運んだ。
透明な味が、体の中へ広がる。
呼吸が深くなる。
肺の奥が澄み渡る。
血流が高まり、細胞が目覚める。
食没で、エアの力を体内に沈めていく。
ブラウスも同じようにエアを食べ、静かに目を閉じていた。
グルメスモックを整える。
ポシェットの中身を確認する。
グルメデバシーもある。
緊急転送ビーコンもある。
専用コップもある。
準備はできた。
俺は灰色の山脈を見上げた。
そこには風の音すらない。
静かすぎる山。
まるで、世界から呼吸だけが抜き取られた場所。
俺は拳を握る。
「行こう、ブラウス」
「はい」
俺たちは、零山脈へ向けて歩き出した。
食べるために。
進むために。
そして、二つ目の地球のフルコースへ辿り着くために。