食義と食没の歴史を語る上で、食林寺の存在を避けて通ることはできない。
食林寺。
食への感謝を学び、食材と向き合う心を鍛え、己の肉体と精神を食の理に沿って整えるための修行場。
かつて多くの料理人、美食屋、そして食に携わる者たちがその門を叩いた。
食義とは、ただ礼儀正しく食べるための作法ではない。
食材の命に感謝し、無駄なく受け取り、己の細胞へ正しく届ける技術である。
食没とは、さらにその先にある。
摂取したエネルギーを体内に沈め、必要な時まで蓄える技術。
食への感謝と自己制御がなければ辿り着けない、高度な食技である。
しかし、大昔。
食義は一度、失われたと思われた時代があった。
食林寺が襲われ、壊滅寸前となったのである。
詳しい記録は今も一部伏せられている。
だが、当時の被害が極めて大きかったことは間違いない。
多くの師範、修行僧、料理人が傷つき、食林寺そのものも深い爪痕を受けた。
食義の継承は断たれた。
そう考えられた時期もあった。
だが、食義は失われなかった。
当時の師範は奇跡的に生き残り、そこから食林寺は瞬く間に復興していった。
食義を絶やしてはならない。
食材への感謝を、人類から失わせてはならない。
その強い意志が、食林寺を再び立ち上がらせた。
そして現在。
食義と食没は、人類において必須ともいえる技術となっている。
美食屋や料理人だけのものではない。
グルメ細胞を持って生まれる現代人にとって、食への向き合い方はそのまま生き方に繋がる。
どれほど強いグルメ細胞を持っていても、食への感謝を忘れれば、その力は濁る。
どれほど美味しいものを食べても、受け取る心が整っていなければ、細胞は十分に応えてくれない。
だからこそ、現代の食育において食義は重要視されている。
食べる前に手を合わせる。
食材を残さない。
命に感謝する。
その基礎から始まり、姿勢、呼吸、咀嚼、集中、感謝の統一へと進んでいく。
さらに、食没。
これは誰もが簡単に会得できるものではない。
だが、子供の頃に会得すれば、成長期の肉体と共に大きく伸びていくことが分かっている。
食没は、ただカロリーを蓄える技術ではない。
食材の力を体内に沈め、必要な時まで腐らせず、逃がさず、己の一部として保つ技術である。
その器は、若いほど柔らかい。
純粋な子供たちは、食材への感謝を真っ直ぐ受け止めやすい。
先入観が少なく、食べ物に対する驚きも大きい。
だから、習得率が高い。
十代で会得した者と、三十代で会得した者では、到達する域に大きな違いが生まれる。
それは才能の差だけではない。
積み重ねた時間の差である。
成長期に食没を体に刻み、日々の食事と共に伸ばしていく。
その年月は、後から簡単に取り戻せるものではない。
ならば、子供たちに早く教えるべきだ。
そう考えるのは自然である。
しかし、ここで一つ大きな問題があった。
そもそも、食没は子供の頃にとても会得できるような技術ではなかった。
過酷である。
苦しい。
心が折れる。
食欲と向き合い、飢えと向き合い、目の前の食事に手を伸ばせない時間を耐えなければならない。
大人ですら脱落する者は多い。
そんな修行を、子供に行わせることは本来なら危険すぎる。
だからこそ現代では、徹底した管理のもとで訓練が行われている。
環境。
医療。
栄養状態。
精神状態。
グルメ細胞の反応。
全てを監視し、安全を最優先にして行う。
訓練中は常に専門の師範と医療班が待機する。
一定以上の異常が出れば即座に中断。
飢餓状態も、精神が壊れるほどには追い込まない。
腐敗食材を使う場合も、感染性や毒性を管理した上で行う。
昔のように、ただ過酷な環境へ放り込むわけではない。
安全を管理した上で、心だけを限界へ近づける。
それが現代の食没訓練である。
重傷者は、たまに出る。
心が折れ、長期休養に入る者もいる。
訓練後しばらく食事を見られなくなる者もいる。
それほど厳しい修行であることは間違いない。
だが、死者はいまだに出ていない。
これは食林寺と各教育機関が誇るべき成果である。
食義と食没は、根性論だけで教えるものではない。
命を守りながら、命への感謝を学ぶ。
それが、現代における食林寺の役割である。
では、大人になった自分はもうだめなのか。
子供の頃に食没を会得できなかった者は、もう遅いのか。
そんな声を聞くことがある。
答えは、否である。
そんなことはない。
学びとは、いつ始めても遅くない。
確かに、子供の頃から積み重ねた者との差はある。
十代で芽吹いた食没と、三十代でようやく開いた食没では、伸び方も到達点も違うかもしれない。
だが、違いがあることと、価値がないことは全く別である。
食への感謝に、遅すぎるということはない。
昨日まで食事を雑に扱っていた者が、今日から一口に感謝する。
それだけでも、世界は変わる。
食材の見え方が変わる。
味の感じ方が変わる。
己の細胞の声が、少しずつ聞こえるようになる。
食義は特別な者だけのものではない。
美食屋だけのものでもない。
料理人だけのものでもない。
食べる全ての者に開かれた道である。
食林寺の扉は、いつでも開いている。
年齢は問わない。
職業も問わない。
美食屋を目指す者。
料理人を目指す者。
家族の食卓をもっと大切にしたい者。
病をきっかけに食と向き合い直したい者。
ただ、今より少し美味しく食べたい者。
全て歓迎する。
修業はつらい。
苦しい。
時には、自分の弱さと向き合うことになる。
目の前の食事に手を合わせるだけで、涙が出る日もあるだろう。
腹が減っているのに食べられない時間に、怒りを覚えることもあるだろう。
なぜここまでしなければならないのかと、逃げ出したくなることもあるだろう。
それでも、一歩踏み出せ。
その一歩は、食材への一歩であり、自分自身への一歩である。
食べるということは、生きるということ。
生きるということは、無数の命を受け取るということ。
その重さを知った時、君の食卓は変わる。
君の味覚は変わる。
君の細胞は変わる。
そして、君は新たな扉を開けるだろう。
食林寺は、いつでも君を待っている。
まずは一礼。
そして一口。
そこから、食義は始まる。
――食林寺 広報部より
食没あたりの間話です!
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