千年後のグルメ時代   作:鳩夜(HATOYA)

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零山脈の夜

 零山脈。

 そこは、広大な山だった。

 目の前に広がるのは、灰色の岩肌。

 

 草もほとんどない。

 木もない。

 虫もいない。

 

 鳥の鳴き声も、獣の足音もない。

 ただ、何もない岩の道がずっと続いている。

 

 異様に静かだ。

 

 耳が痛くなるほどの静寂。

 エリア七の森では、あれほど生命の気配が濃かった。

 

 枝葉が擦れる音。

 

 虫の羽音。

 

 遠くで鳴く猛獣の声。

 

 巨大な果実が落ちる重い音。

 

 森そのものが腹を鳴らしているような場所だった。

 だが、ここにはそれがない。

 

 空気が薄い。

 

 いや、薄いというより、酸素が一切ない。

 

 エアを食べていなければ、足を踏み入れた瞬間に倒れていただろう。

 

 呼吸はできる。

 

 だが、いつもの呼吸とは違う。

 肺を動かしても、空気が入ってくる感覚がほとんどない。

 代わりに、体の奥に蓄えたエアの力が、血の中から酸素を押し出してくれているような感じがあった。

 呼吸しているのではなく、体内に保存した空気を少しずつ使っている。

 そんな感覚だ。

 

「……すごい場所だな」

 

 俺は小さく呟いた。

 だが、その声もすぐに消えた。

 音の反響すら弱い。

 まるで山そのものが音を食っているようだった。

 零山脈自体はかなり広大だ。

 事前に受付でも説明を受けた。

 このペースで進めば、おそらく越えるまでに一週間はかかる。

 

 その間、無酸素状態。

 

 途中でエアが切れれば命はない。

 計算上は一か月は持つ。

 

 俺もブラウスも、食没でかなりの量のエアを体内に沈めてきた。

 とはいえ、往復を考えると二週間以上はかけられない。

 

 ペアの泉に辿り着き、ペアを飲み、戻る。

 それを考えると、余裕はあるようでない。

 

 特に、戦闘や全力移動をすれば消耗は一気に増える。

 グルメスモックの維持もカロリーを使う。

 

 そしてエアの力も、使えば減る。

 ここでは、無駄な動きが命取りになる。

 

 俺は隣を歩くブラウスを見た。

 彼も少し緊張した表情で、周囲を見回している。

 だが、顔色は悪くない。

 エアはしっかり効いているようだ。

 

「ブラウス、平気か?」

 

「はい。今のところは」

 

「苦しくなったらすぐ言えよ」

 

「アマジンさんもですよ」

 

「もちろん」

 

 そう言いながらも、俺は内心で少し焦っていた。

 自分一人なら多少無茶もできる。

 だが、ブラウスがいる。

 エアの時と同じように、俺はブラウスにグルメスモックを纏わせている。

 これで岩肌による傷や冷気、突然の攻撃にはある程度対応できる。

 しかし、酸素はどうにもならない。

 グルメスモックは防御服であって、酸素供給装置ではないのだ。

 エアの補給タイミングを間違えないこと。

 これが今回の旅で最も大事かもしれない。

 そんなことを考えながら進んでいると、ブラウスが急に足を止めた。

 

「アマジンさん、あれ!」

 

 ブラウスが前方を指す。

 俺も視線を向けた。

 灰色の岩肌の斜面。

 その一角だけ、白いものがいくつも咲いていた。

 

 花だ。

 

 この無音の山脈の中で、そこだけが奇妙なほど美しく見えた。

 細長い茎。

 白く繊細な花弁。

 まるで砂糖菓子のような質感。

 見た目はパッ〇ンフラワー

 だが、俺は知っている。

 あれは可愛い花ではない。

 

「サンドリコ……!」

 

 サンドリコの群生だった。

 全長は十メートルにも満たない。

 資料で見たものの中では、小さめの分類だろう。

 それでも、花として考えれば十分巨大だ。

 

 白い口のような花弁の奥に、淡く光る花粉がたまっているのが見える。

 

 吸い込めば、かつてはどんな生物でも一〇〇パーセント死に至るとされた花粉。

 今は特効薬もあり、抗体を持つ者もいる。

 

 俺も検査上は抗体あり。

 だが、緊張はする。

 ブラウスは目を細め、慎重にサンドリコを観察していた。

 

「採取の仕方は分かります。いくつか取っていきます」

 

「大丈夫か?」

 

「はい。花粉を出さないようにすれば問題ありません」

 

 ブラウスはそう言って、俺を見た。

 少しだけ笑う。

 

「アマジンさん、これも食べたいでしょう?」

 

「バレた?」

 

「顔に出てます」

 

「すごく食べてみたい!」

 

 俺は正直に言った。

 

 サンドリコ。

 

 ココのフルコースに入っていた食材。

 危険な花。

 だが、きっとそれだけではない。

 その危険性すら味になっているはずだ。

 

 食ってみたい。

 

 腹が鳴りそうになる。

 

「では、慎重に採ります」

 

 ブラウスは響金包丁ハルシアを取り出した。

 サンドリコを引き抜くのではない。

 生えたまま、根元と花の構造を見極めて包丁を入れていく。

 花粉を出さないように、静かに、早く。

 ハルシアの金色の刃が、サンドリコの茎を滑る。

 音はほとんどしない。

 切られた花が、ふわりと傾く。

 ブラウスはすぐにそれを専用の保存袋へ収めた。

 

 一つ。

 

 二つ。

 

 三つ。

 

 動きに迷いがない。

 俺は周囲を警戒しながら、その手際に見入っていた。

 料理人というのは、食材を扱う技術が本当に違う。

 俺がやれば、たぶん力任せに切って花粉を撒き散らしていたかもしれない。

 

「では休憩するときに食べましょう!」

 

「おう! 楽しみだ」

 

 俺は本気で楽しみだった。

 零山脈で食べるサンドリコ。

 それがどんな味なのか、想像するだけで胸が高鳴る。

 採取を終え、俺たちは再び歩き出した。

 岩肌の道を進む。

 足音だけが小さく響く。

 エアの力で動けてはいるが、やはり普段とは違う。

 体の芯が少しずつ削られている感覚がある。

 大きく息を吸っても、空気がない。

 この事実が、じわじわと精神を圧迫してくる。

 

 それでも、道は順調だった。

 

 少なくとも、しばらくは。

 

 次に異変に気づいたのは、俺だった。

 前方の岩場。

 そこに、違和感があった。

 

 ただの岩に見える。

 だが、形が不自然だ。

 

 呼吸音はない。

 

 この場所に酸素はない。

 だが、食材の気配がある。

 俺は反射的に手を横へ出した。

 

「しゃがめ!」

 

 ブラウスがすぐに身を低くする。

 

「前方に猛獣がいる。多分、一体だけみたいだ」

 

 俺はグルメデバシーを取り出した。

 ブラウスにもらったばかりの便利道具。

 筒から薄いタブレットを引き出すと、すぐに食材鑑定機能が反応した。

 画面に情報が表示される。

 

『岩マジログランデ』

『捕獲レベル15・F』

 

 岩マジログランデ。

 

 巨大な岩のような体を持つ、零山脈に適応した猛獣。

 普段は岩に擬態し、近づいた獲物を押し潰す。

 無酸素環境でも活動可能。

 肉は硬いが、適切に処理すれば濃厚な旨味を持つ。

 外殻の岩石は調理器具素材として利用可能。

 

「酸素がなくても生きられる奴はいるのか……」

 

 俺は小さく呟いた。

 当然といえば当然だ。

 こんな場所にも食材があるなら、そこに適応した生き物もいる。

 零山脈が完全な無生物地帯ではないことを、目の前の岩マジログランデが証明していた。

 

「ブラウス、下がってろ。すぐに倒す」

 

「はい。無理はしないでください」

 

「分かってる」

 

 俺は姿勢を低くし、こっそり近づいた。

 岩マジログランデは、まだこちらに気づいていないように見える。

 いや、気づいていても動かないだけかもしれない。

 近づきすぎれば、擬態から一気に襲いかかってくる可能性がある。

 

 先手を取る。

 

 俺は両手を上げ、食欲のエネルギーを頭上へ集めた。

 

 重ねる。

 

 積み上げる。

 

 番重。

 

 あの給食当番で運んだ銀色の容器。

 今回は最初から全力に近い形でいく。

 

「五重・番重落とし!」

 

 岩マジログランデの頭上に、五重に重なった巨大な番重が出現する。

 それが一気に落下した。

 

 重い音。

 

 いや、ここには空気が薄いせいか、音は鈍く響いた。

 岩マジログランデの体が番重に押し潰され、地面へめり込む。

 

 だが、まだ息がある。

 岩に見えた体がうねり、太い脚が地面を掻いた。

 

「硬いな!」

 

 俺はすぐに駆け寄った。

 落とした番重の上へ飛び乗る。

 そして、両腕に力を込めた。

 

 酸素のない場所で大きく動くと、普段より体が重い。

 

 だが、ここで仕留めきらなければ危ない。

 俺は番重の上から、さらに拳を叩き込んだ。

 

「おおおっ!」

 

 グルメスモック越しに、食欲のエネルギーを拳へ流す。

 

 番重を強打する。

 

 衝撃が番重から岩マジログランデへ伝わった。

 大きな音とともに、岩マジログランデはさらに地面へめり込む。

 岩のような外殻に亀裂が走る。

 

 もう一発。

 

 さらに一発。

 

 最後に、体の奥から鈍い破裂音がした。

 岩マジログランデは動かなくなった。

 

「……ふう」

 

 俺は息を吐いた。

 いや、吐いたところで酸素はない。

 でも、反射的に息を吐いてしまう。

 

 体が重い。

 

 短い戦闘だったはずなのに、かなり消耗した。

 ブラウスが駆け寄ってくる。

 

「大丈夫ですか?」

 

「ああ。思ったより疲れたけどな」

 

 ブラウスは岩マジログランデを調べると、目を輝かせた。

 

「岩マジログランデの岩石は、調理器具になります! 持って帰りたいですが……」

 

 彼は周囲に散らばった外殻を見た。

 かなりの量だ。

 確かに素材としては良さそうに見える。

 だが、どう考えても重い。

 

「さすがに大荷物になるな……」

 

「ですよね……」

 

 ブラウスは少し残念そうだった。

 料理人としては、調理器具になる素材も魅力的なのだろう。

 だが、今は零山脈の途中だ。

 これを持って歩くのは危険すぎる。

 

 俺たちは相談し、肉だけをその場で小さくして持っていくことにした。

 ブラウスがハルシア包丁で外殻の隙間から肉を切り出していく。

 肉は岩のような外見に反して、内部は赤みがかった濃い色をしていた。

 

 かなり硬そうだが、旨味は強そうだ。

 

 ブラウスは食べられる部位を選び、必要な分だけ保存袋へ入れた。

 残りには手を合わせる。

 俺も同じく手を合わせた。

 

「酸素なしで大きく動くと、かなり疲れるな……」

 

 俺は自分の腕を回しながら言った。

 エアを食べて無酸素でも大丈夫だとはいえ、やはり消費は激しい。

 酸素のない環境で戦うというのは、それだけで負荷が大きい。

 極力、猛獣は避けた方がいいだろう。

 

 食材は欲しい。

 

 だが、ここで無駄に戦闘を重ねれば、エアの消耗が早まる。

 ペアへ辿り着く前に力尽きたら意味がない。

 俺はそのことを胸に刻み、再び歩き出した。

 

・・・

 

 零山脈、初めての夜。

 と言っても、ここでは時間の感覚が少しおかしい。

 

 空気がないせいか、音がないせいか、昼と夜の境目が分かりにくい。

 それでも空は暗くなり、岩肌は青黒く沈んでいった。

 

 俺たちは大きな岩陰を見つけ、そこで休むことにした。

 食材は、岩マジログランデとサンドリコ。

 零山脈で初めて得た食材だ。

 

「酸素がなくても、味はちゃんとするかな?」

 

 俺はふとそんなことを考えた。

 味覚にも香りは大事だ。

 鼻に抜ける匂いがあって、初めて完成する味もある。

 この無酸素の場所で、いつも通り料理を楽しめるのだろうか。

 

 そんなことを考えていると、ブラウスがポシェットから妙なものを取り出した。

 

 卓上ベルのような形状の機械だった。

 丸い台座に、小さなベルのような半球。

 表面には細かい模様が刻まれている。

 

「空調しますね」

 

「空調?」

 

 ブラウスがその機械のスイッチを押した。

 ちん、と小さな音がした。

 次の瞬間、ベルを中心に半円状の空間が広がった。

 透明な膜のようなものが俺たちを包む。

 

 そして――。

 

「あれ……息ができるぞ!!」

 

 俺は思わず叫んだ。

 肺に空気が入ってくる。

 ちゃんと酸素がある。

 匂いもある。

 音もさっきよりはっきり聞こえる。

 まるで、零山脈の静寂の中に、小さな部屋ができたようだった。

 

「空調ベルです」

 

 ブラウスが説明した。

 

「ベルの周囲の空気状態を最適なものにします」

 

「聞いたことないぞ、そんな機械……」

 

「寝る時とかによく使いますよ。とても寝やすい環境になるんです」

 

「寝やすい環境って……酸素がない場所でも関係なしか。凄すぎる……」

 

 俺は空調ベルをまじまじと見た。

 こんな小さな機械で、無酸素地帯に呼吸可能な空間を作る。

 

 便利すぎる。

 

 いや、便利の範囲を超えている。

 値段は……高いだろうな。

 

 絶対に高い。

 

 ブラウスの持ち物は、いちいち俺の金銭感覚を破壊してくる。

 

「ただ、十時間使用したら二十時間使えません。使う場面は考えないといけませんね」

 

「おいおい、なら今使ってもいいのか……?」

 

 俺は少し焦った。

 零山脈はまだ始まったばかりだ。

 使いどころを間違えれば、後で困るかもしれない。

 だが、ブラウスは少しだけ視線をそらした。

 

「まぁ……二個持ってきたので大丈夫かと思います」

 

「そ、そうか……」

 

 二個。

 

 そうか。

 

 もう何も言うまい。

 

 ブラウスの父親が持たせたのだろうか。

 だとしたら、やはり息子を死なせる気はないのだ。

 やり方は相変わらずおかしいが。

 空調ベルの中は快適だった。

 

 酸素がある。

 

 呼吸できる。

 

 それだけで、体がずいぶん楽になる。

 エアの消費も、ここにいる間はかなり抑えられそうだ。

 ブラウスは調理を始めた。

 

 岩マジログランデの肉とサンドリコ。

 硬い肉を薄く切り、携帯鍋でじっくり火を入れる。

 サンドリコは花弁と茎を分け、花粉が飛ばないように丁寧に処理していた。

 

 空調ベルのおかげで香りが立つ。

 

 岩マジログランデの肉からは、焼いた石のような香ばしさが出てきた。

 サンドリコは意外にも、甘く澄んだ花の香りがする。

 危険な花粉を持つ食材とは思えないほど、上品な匂いだった。

 

 ブラウスは岩マジログランデの肉を薄く焼き、サンドリコの花弁を刻んでソースのように絡めた。

 最後に、持参した調味料をほんの少し。

 完成した料理は、相変わらずめちゃくちゃうまそうだった。

 

「いただきます」

 

 俺たちは手を合わせた。

 岩マジログランデの肉を口に入れる。

 

 硬いと思っていた。

 だが、ブラウスの調理のおかげか、噛むとほろりとほどけた。

 

 濃い。

 

 岩のような外見そのままに、力強い味がする。

 肉の奥に、ミネラルのような旨味がある。

 そこへサンドリコの花の香りが重なる。

 危険な食材とは思えないほど繊細な甘み。

 

 ほんの少し舌が痺れる。

 だが、それが嫌ではない。

 むしろ肉の重さを軽くして、味を前へ進めてくれる。

 

「うっま……!」

 

 またそれしか言えなかった。

 零山脈の無音。

 酸素のない不安。

 岩マジログランデとの戦闘。

 サンドリコの緊張。

 それらが全部、この一皿の味になっている。

 ブラウスも満足そうに頷いた。

 

「サンドリコ、思ったより相性がいいですね」

 

「これ、抗体なかったらやばいんだよな?」

 

「処理を間違えるとやばいです」

 

「さらっと怖いこと言うな」

 

「でも、美味しいです」

 

「それは間違いない」

 

 俺たちは夢中で食べた。

 満腹になる。

 空調も完璧。

 

 無酸素の山脈の中とは思えないほど、心地よい環境が整っている。

 今日だけは、安心して眠れそうだった。

 俺は空調ベルの半円状の膜越しに、暗い零山脈を見た。

 

 外には音がない。

 

 生命の気配もほとんどない。

 

 だが、俺たちのいる小さな空間だけには、温かい料理の匂いがある。

 誰かと一緒に食べる音がある。

 食卓がある。

 

「明日も進もう」

 

「はい」

 

 ブラウスが静かに頷く。

 俺はグルメスモックを少し緩め、岩陰に体を預けた。

 零山脈、初めての夜。

 恐ろしいほど静かな山の中で、俺たちは満腹のまま眠りについた。

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