驚くほどに順調だ。
零山脈に入る前は、もっと地獄のような道のりを想像していた。
酸素はない。
音もない。
景色は灰色の岩肌ばかり。
いつエアが切れるか分からない。
そんな環境を一週間近く歩き続けるのだ。
正直、かなり厳しい旅になると思っていた。
実際、環境は厳しい。
無酸素状態で歩き続けるというだけで、体の奥が少しずつ削られていくような感覚がある。
エアを食べているから動ける。
食没で体内に沈めた空気があるから、俺たちはこうして歩いていられる。
だが、普通に呼吸できる場所とはまるで違う。
走れば消耗する。
戦えばさらに消耗する。
グルメスモックを維持するだけでも、じわじわとカロリーが減っていく。
だから、慎重に進む必要があった。
しかし、道中に現れる猛獣は、今のところ捕獲レベルF以上のものは出てこない。
岩マジログランデのように硬く厄介な相手はいるが、対処できないほどではない。
それに、サンドリコの群生を定期的に発見できるため、食料にも困らなかった。
もちろん、サンドリコは危険な食材だ。
花粉を撒かれれば洒落にならない。
だが、ブラウスは採取方法を心得ている。
響金包丁ハルシアの刃は、サンドリコの茎や花弁を驚くほど静かに切り分ける。
花粉を飛ばさず、食べられる部分だけを丁寧に取っていく。
その手際は、何度見ても見事だった。
ブラウスがいなければ、俺はサンドリコを前にして、食べたいけれど手が出せないという状態になっていたかもしれない。
いや、無理に手を出して花粉を浴びていた可能性もある。
そう考えると、やはりブラウスの存在は大きい。
食材を見つけるのは俺。
安全に扱い、うまく料理にするのはブラウス。
エアの時から変わらない形だが、やはりこの組み合わせは強い。
難点があるとすれば、景色が一切代わり映えしないことだろう。
右を見ても灰色の岩。
左を見ても灰色の岩。
前を見ても灰色の山肌。
後ろを見ても同じ道。
空もどこか色が薄く、雲の動きすら鈍い。
生命の音がない場所というのは、ここまで精神にくるものなのか。
俺は時々、わざとブラウスに話しかけた。
声を出す。
返事がある。
それだけで、自分たちがまだ生きていると確認できる。
無音の山では、会話すら食事のようにありがたかった。
それでも、さすがはグルメ界だ。
どんな環境でも、うまいものであふれている。
岩マジログランデの肉。
サンドリコの花弁。
岩肌に張りつく薄い海苔のような食材。
石の隙間からにじみ出る塩味の結晶。
風もないのに震える不思議な茸。
数は多くない。
だが、見つければどれも強い味を持っていた。
無酸素の山脈で食べる食事は、特別だった。
空調ベルを使える休憩時間は限られている。
だから、毎回ゆっくり食べられるわけではない。
それでも、ブラウスが作る料理は変わらずうまい。
この静寂の中で、鍋の音と料理の香りがあるだけで、心が救われる。
そんな旅を続けて、数日。
ついに俺たちは、山頂に立った。
「……見えた」
俺は足を止めた。
遠くに、巨大な壁が見えた。
二つ目の壁。
ペアの泉を守る最後の管理壁。
まだかなり遠い。
ここから見ても、山を下り、岩場を抜け、さらに歩かなければならない距離がある。
だが、見えると見えないでは気持ちがはるかに違う。
目的地がある。
あそこまで行けば、零山脈を越えられる。
その先に、元百Gマウンテンがある。
ペアの泉がある。
俺の胸が高鳴った。
「ブラウス、見えるか?」
「はい……見えます」
ブラウスも少し疲れた顔で、遠くの壁を見つめていた。
白いグルメスモックの裾が、風もないのにわずかに揺れる。
いや、揺れているのは俺たちの呼吸のせいかもしれない。
酸素のない場所で、ここまで歩いた。
もう少しだ。
「さぁ、ここから一気に行くぞ」
「はい」
俺たちは足早に傾斜を降りていった。
もちろん、走りすぎればエアを消耗する。
だが、壁が見えたことで足取りは自然と軽くなった。
灰色の岩肌を踏みしめながら、俺はふと思う。
こうして歩き続けていると、学生の頃の訓練を思い出す。
命の滝壺での着地訓練。
高所から落下し、流れ込む水と岩場の間で姿勢を整え、全身の衝撃を逃がす訓練だ。
最初は本気で死ぬかと思った。
もちろん安全管理はされている。
下には救助員もいる。
危険な個体は事前に排除されている。
だが、それでも水圧と落下衝撃は本物だ。
何度も水面に叩きつけられ、全身が痺れた。
アングラの森でのエアツリー付近の呼吸訓練と重力訓練もあった。
濃すぎる空気。
重くのしかかる重力。
普通に歩くだけで体力が削られる場所で、呼吸を整え、重心を保つ訓練。
あれは、今の零山脈とは別方向にきつかった。
酸素があるのに苦しい。
空気が濃いのに息が乱れる。
呼吸とは、ただ吸えばいいものではないのだと叩き込まれた。
三途の道での猛獣狩り訓練。
決められたルートを進み、低危険度に調整された猛獣を捕獲する。
もちろん、低危険度といっても子供にとっては十分怖い。
仲間と連携し、食材鑑定キットを使い、逃げ道を確保しながら狩る。
そこで初めて、自分たちが食材に向き合う側になる。
悪霊たちの港での遠泳訓練。
波の癖を読み、海中の食材獣を避けながら長距離を泳ぐ。
霧が濃く、周囲の声が反響して、誰がどこにいるのか分からなくなる。
あの時も、音が頼りにならない恐怖を少し味わった。
今思えば、かなり無茶な訓練ばかりだ。
命の滝壺。
三途の道。
悪霊たちの港。
名前だけでも物騒すぎる。
アングラの森以外は、かつてグルメ界への入界ルートだった場所だ。
それが今では、学生の訓練所と化している。
千年前なら、一流の美食屋や料理人が命を懸けて通った道。
それを、現代の学生は授業で行く。
本当におかしな時代だ。
今は電車で人間界の端まで行き、そこからキャンピングモンスターで入界するのが基本になっている。
ルートは整備され、管理され、危険は可能な限り制御されている。
グルメ界は、遠い死地ではなくなった。
とはいえ、安全な場所になったわけでもない。
現代の学生が訓練として通うその場所は、今でも十分に過酷だ。
俺たちは、そういう教育を受けて育った。
ブラウスも、同じ訓練をパスしてきている。
彼は料理人志望だが、食義も食没も、危険区基礎訓練もこなしている。
だからこそ、エアビオトープでも零山脈でも歩いていける。
「ブラウス、命の滝壺の訓練、覚えてるか?」
「もちろんです。三回落ちて、二回は地面に落ちました」
「俺は一回目で姿勢崩して背中から落ちた」
「よく無事でしたね」
「安全管理がなかったらやばかったな」
俺たちはそんな話をしながら歩いた。
命の滝壺で誰が泣いたとか。
三途の道で猛獣に追いかけられたとか。
悪霊たちの港で泳いでいる最中に誰かが弁当の匂いに釣られて進路を間違えたとか。
思い出せば、笑える話も多い。
だが、よく考えると内容はえげつない。
こんな修行を、学校の時の思い出として語るなんてな。
前世の俺が聞いたら、絶対に引いている。
遠足の思い出ではない。
ほとんどサバイバル訓練だ。
しかし、この世界ではそれが普通なのだ。
グルメ細胞を持って生まれた子供たち。
飽食時代に生きる子供たち。
豊かな時代だからこそ、食材の危険と命の重さを教えられる。
俺はその教育を受けたから、今ここにいる。
そう考えると、過酷だった訓練にも感謝しなければならない。
俺たちは山を下り続けた。
壁が少しずつ近づいてくる。
遠くで見た時はただの線だったそれが、近づくにつれて巨大さを増していく。
外側の壁よりさらに厚く、高い。
岩肌に溶け込むような灰色の素材で作られているが、表面には無数の管理紋と防御術式が刻まれていた。
ペアの泉を守る壁。
元百Gマウンテンを囲う壁。
かつて猿王がいた場所を、人類が管理するための境界線。
そして――。
いよいよ、俺たちは壁の前まで来た。
「やっとついたな!」
俺は思わず声を上げた。
そこには誰もいなかった。
受付のような施設も、売店も、案内係もいない。
ただ巨大な壁と、開閉用のスキャナーだけが無人で設置されている。
零山脈を越えられる者しか、ここには来られない。
だから常駐する人間もいないのだろう。
ブラウスは深く息を吐いた。
「ええ、さすがにくたびれました。早く酸素を吸いたいです」
「俺もだ」
エアで生きていられるとはいえ、普通に酸素を吸えるありがたさを痛感した。
空調ベルの中では呼吸できた。
だが、ずっと使えるわけではない。
この数日、俺たちは空気のありがたさを何度も味わった。
俺はグルメIDをスキャナーへ近づける。
ブラウスも同じように認証する。
スキャナーの光が俺たちをなぞった。
『食歴確認』
『天然エア摂取履歴確認』
『ペア危険区域通過資格確認』
『入場許可』
低い駆動音と共に、第一ゲートが開いた。
巨大な壁の一部が、ゆっくりと左右に分かれていく。
中へ入ると、背後で第一ゲートが閉まった。
重い音。
その音が体に響く。
次に、第二ゲートが開く。
そこをくぐる。
また閉まる。
さらに第三ゲート。
三重の隔壁。
外と内を完全に切り分けるための構造だ。
もし零山脈側から何かが侵入しても、ここで止める。
もしペアの泉側で何かが起きても、外へ出さない。
そのための壁。
俺たちは最後のゲートの前に立った。
認証ランプが青く光る。
第三ゲートが開いた。
その瞬間、空気が変わった。
酸素がある。
濃い。
温かい。
生命の匂いがする。
俺は思わず大きく息を吸った。
「はあ……!」
肺に空気が入る。
ただそれだけで、全身が喜んでいた。
ブラウスも同じように深呼吸している。
俺たちは、ついに零山脈を越えた。
そして――。
目の前に広がっていたのは、元百Gマウンテン。
かつて猿王バンビーナが君臨していた場所。
地球のフルコース、ペアの泉が存在する場所。
俺たちは、ついにここまでやってきた。
俺は前を見据える。
胸の鼓動が速くなる。
次の一皿は、もう目の前だ。