緑が深い。
第三ゲートを抜けた先は、零山脈とはまるで別世界だった。
さっきまで目に映っていたのは、灰色の岩肌ばかり。
酸素はなく、風もなく、生命の音さえ消えた静寂の山脈。
だが、ここには緑がある。
濃い。
圧倒的に濃い。
まるでジャングルのようだ。
太い蔓が木々に絡み、巨大な葉が空を覆い、足元には柔らかな草が絨毯のように広がっている。
空気は温かく、湿っていて、ほんのり甘い。
ペアの栄養があふれ出しているのだろう。
俺の体も喜んでいる感覚がある。
この場所全体が、泉からこぼれた旨味で満たされているようだった。
不思議なことに、猛獣はいない。
少なくとも、俺たちを襲ってくるような気配はない。
代わりに、小鳥や小動物が駆け回っている。
丸い耳をしたリスのような生き物。
尾羽がスプーンのような形をした小鳥。
木の実を抱えて走る小さな猿に似た生物。
彼らは俺たちを警戒することもなく、のんびりと森の中を動き回っていた。
さっきまでの零山脈が死の静寂なら、ここは命の食卓だ。
「すごいな……」
俺は思わず呟いた。
「本当に、別の場所みたいです」
ブラウスも周囲を見回している。
彼の目も輝いていた。
危険区の奥。
地球のフルコースのすぐそば。
そこにこんな穏やかな場所があるとは思っていなかった。
少し歩くと、木の枝から垂れ下がる奇妙な葉を見つけた。
葉なのに、表面が薄く焼けたベーコンのように波打っている。
薄紅色で、端には香ばしい焦げ目のような模様。
近づくと、肉の匂いがした。
「ベーコンの葉だ」
俺は迷いなくもいだ。
そしてそのまま食べる。
ぱりっ。
葉なのに、噛むとベーコンのような食感がある。
脂の旨味。
燻製の香り。
それでいて後味は植物らしく軽い。
「うまい」
思わず笑った。
何だここは。
歩いているだけで食材がある。
その横には、バターウッドが生えていた。
幹の表面が黄色く、削ると中から柔らかなバターのような樹液がにじむ木だ。
俺は携帯ナイフでバターウッドを少し削った。
そのすぐ近くには、ねじりパン草が生えている。
名前の通り、地面からねじったパンのような草が伸びていた。
俺はそれを引き抜き、バターウッドの樹液を塗って食べる。
外は軽く焼いたパンのようで、中はふんわり。
そこにバターウッドの濃厚な甘みと塩気が広がる。
「うまい」
また同じ言葉しか出てこない。
語彙が死んだ。
いや、仕方ない。
うまいものはうまい。
「ここは楽園か? 一生暮らせそうだな」
俺は本気でそう思った。
ベーコンの葉。
バターウッド。
ねじりパン草。
小鳥もいるし、小動物もいる。
水もありそうだ。
猛獣もいない。
毎日ここで食材を探して、ブラウスに料理してもらって、昼寝して、また食べる。
最高ではないか。
「アマジンさん!」
ブラウスの声が飛んできた。
「もうペアは目の前ですよ。早く行きましょうよ!」
「そうだな。すまん!」
危ない。
完全に目的を忘れかけていた。
ここまで来たのは、ベーコンの葉を食べるためではない。
いや、食べたけど。
目的はペアだ。
地球のフルコース二品目。
俺たちは中心へ向かって走り抜けた。
緑の中を進む。
小鳥たちが枝から枝へ飛び移る。
足元の小動物が驚いて草むらへ逃げる。
木漏れ日が揺れる。
そして――。
視界が開けた。
「……あ」
俺は足を止めた。
ブラウスも隣で息を呑む。
そこにあった。
広い泉。
透明で、淡く光る水面。
その中央には台座があり、そこに光り輝く玉が鎮座している。
玉からは、しずくのように液体が滴り落ちていた。
一滴。
また一滴。
それが泉へ落ちるたびに、水面が小さく震え、淡い光が広がっていく。
ペアの泉。
ついに見つけた。
「ペアの泉……!」
俺の声は震えていた。
ブラウスが隣で両手を握りしめている。
「やりました……!」
次の瞬間、俺たちは思わず抱き合っていた。
「やった! ブラウス、やったぞ!」
「はい! 本当に着きました!」
嬉しい。
ただただ嬉しい。
エアを食べた。
毒雨草原を越えた。
グリーントロルに遭遇した。
ブラウスと出会い、別れ、再会した。
エリア七の森を越え、零山脈を越えた。
そして今、俺たちはここにいる。
ペア。
二つ目の地球のフルコース。
俺の胸が熱くなる。
泉は広い。
中心の台座は神殿のようにも見えた。
そこにある光り輝く玉は、確かに美しい。
宝石と言われても納得できる。
未知の鉱石と言われても頷ける。
淡い金色と乳白色が混ざり合い、内部で光がゆっくり巡っている。
ブラウスはそれを見つめ、目を輝かせた。
「綺麗ですね……僕は、あれ以上に綺麗な宝石を見たことがありませんよ」
「ああ。綺麗だな」
俺も頷いた。
そして、つい口が滑った。
「キンタマとは思えん……」
「アマジン!」
ブラウスが凄まじい勢いで振り向いた。
「何言ってるんですか!?」
「いや、あれ……キンタマだろ? 猿王の……」
「馬鹿なこと言わないでください!」
ブラウスの顔が真っ赤になる。
「そんな文献も資料も見たことがありません! あんな綺麗な玉がキ……キンタマなわけないでしょう!!」
あ。
そうだった。
そう伝わっていないのを、すっかり忘れていた。
現代の文献では、ペアの中心にある球体は宝石とか未知の鉱石とか、食材核とか呼ばれている。
猿王のキンタマという真実は、どうやらきれいに失われているのだ。
「そ、そうだな! すまん。何でできてるんだろうな、あれ……」
俺は全力でごまかした。
ブラウスはまだ疑うような目をしている。
「気になりますが、触ろうものなら即処罰されます。とりあえず、おとなしくこのコップですくいましょう」
「そうだな」
俺たちは受付で渡された専用コップを取り出した。
泉のそばへ近づく。
水面は驚くほど澄んでいる。
いや、水ではない。
これがペアだ。
俺はコップをそっと泉へ入れた。
ブラウスも隣で同じようにすくう。
すると、コップの真ん中部分に、薄い隔壁が出現した。
「あれ、なんだろこれ……」
コップの中が、きれいに二つの部屋へ分かれている。
丁度二回に分けて飲める感じになっている。
ブラウスは少し考え、すぐに答えた。
「戻れなくなるのを防ぐためでしょうね」
「戻れなく……ああ! 性転換の効果か!」
ペアには、飲むと体が逆の性別になる効果がある。
もう一度飲めば戻る。
つまり、コップの中に隔壁があるのは、一回目と二回目を確実に分けるためだろう。
片方を飲んで性別が変わり、もう片方を飲んで戻る。
たくさん飲みすぎないようにするだけでなく、戻る分を確保するための構造。
こういうちょっとしたことで思い出す。
現代の管理は、しっかりと考えられている。
俺みたいに勢いで全部飲むやつが出ないようにしているのだ。
「裏の世界に行ける準備が、これでできるそうですね」
ブラウスがコップを見つめながら言った。
「ああ。類まれなる食運があれば、食霊たちも見えるそうだぜ?」
「ふふ。見えたらいいですね」
「よし、とりあえず飲もう!」
「はい」
俺たちはコップを掲げた。
「乾杯!」
「乾杯!」
二人で一気にペアを飲む。
口に入れた瞬間、世界が広がった。
酸。
渋み。
塩気。
甘み。
苦み。
旨味。
数え切れないほどの複雑な味が、幾重にも重なり合う。
それは単に味が多いというだけではない。
一つ一つの味が、別々の方向へ伸びている。
舌の上。
喉の奥。
鼻の奥。
頭の中。
胃。
血管。
細胞。
体のあちこちで、違う味が開いていく。
酸味は鋭いのに優しい。
渋みは重いのに澄んでいる。
塩気は海のようで、同時に涙のようだった。
甘みは果実ではなく、命そのものの甘さ。
苦みは不快ではなく、深い余韻になって残る。
非常に奥深く、神秘的な味。
前世で読んだトリコの表現が、頭に浮かんだ。
まじでそれだ。
トリコで見たやつ。
だが、読んだ時とはまるで違う。
今、俺の舌がそれを知っている。
「おいしい……!」
ブラウスが震える声で言った。
料理人である彼が、言葉を失っている。
その気持ちは分かる。
これは説明できない。
ただ飲むだけで、新しい味覚の扉が開いていく。
視界が少し揺れた。
体の奥が熱くなる。
骨格が変わる。
筋肉のつき方が変わる。
髪が少し伸びた気がした。
服の感覚も変わる。
そして俺たちは――女性になっていた。
「……」
「……」
俺とブラウスは、互いに見つめ合った。
ブラウスは、めちゃくちゃ可愛い女子になっていた。
白い髪は少し柔らかく伸び、顔立ちはもともとの中性的な雰囲気がさらに際立っている。
肌の赤みも、今はほんのりした血色のように見える。
料理人というより、どこか神秘的な令嬢だ。
「おま……めちゃくちゃ可愛い女子になってる……」
思わず言ってしまった。
ブラウスは目を丸くし、それから俺を見た。
「アマジンさんも、なかなか活発な少女って感じで可愛いですよ」
「やめろ」
「本当です」
「やめろ」
俺たちはしばらくジーッと互いを見た。
気まずい。
とても気まずい。
ペアの効果だと分かっていても、自分の体が変わっている感覚は妙に落ち着かない。
なにより、ブラウスが可愛すぎるのが困る。
俺は咳払いをした。
「早く飲んで戻ろうぜ……」
「そうですね……」
なにかおかしなことが起こる前に。
俺たちは残りのペアを飲み干した。
再び、味が開く。
一度目とは違う。
今度は逆向きに流れていくような感覚だった。
開いた扉を閉じるのではなく、別の扉として整える。
性別が戻る。
体の感覚が元に戻る。
だが、味覚だけは明らかに変わっていた。
世界の味が、一段深くなった気がする。
「旨かった……」
俺は息を吐いた。
しばらくは何も食べなくても、ずっと満足感で満たされそうだ。
胃だけではない。
細胞が満足している。
体力も全回復している。
いや、むしろ突き抜けて何倍にも体力が増えていそうだ。
エアを食べた時とはまた違う。
呼吸ではなく、味覚そのものが広がった。
裏の世界へ触れる準備。
食霊たちの世界へ続く扉。
その意味が、少しだけ分かった気がした。
「ん……?」
一瞬。
本当に、ほんの一瞬だった。
視界の先に、違う景色が重なった。
沢山の猿が、器を持ってはしゃいでいる姿。
大きな猿。
小さな猿。
踊る猿。
笑う猿。
器にペアを受け、互いに見せ合い、飲み、転げ回り、楽しそうに騒いでいる。
皆、生き生きしていた。
楽しそうだった。
俺までつられて楽しくなるような雰囲気。
かつてここは、猿の楽園だった。
その意味が、幻のように目の前へ広がった。
だが、すぐに消えた。
水面には静かな光だけが揺れている。
「アマジン……今……」
ブラウスの声が震えていた。
彼も見えていたようだ。
一瞬だけ。
でも確かに。
俺たちは自然に手を合わせていた。
言葉を交わす必要はなかった。
この泉に。
ペアに。
かつてここで生きていた猿たちに。
猿王に。
そして、俺たちをここまで導いてくれた全ての食材に。
「ご馳走様でした」
俺とブラウスの声が重なった。
その瞬間。
空気が一瞬、震えた気がした。
まるで、どこかで誰かが笑ったように。
まるで、器を掲げる猿たちが、俺たちの食事を祝ってくれたように。
俺はもう一度、静かに泉を見つめた。
地球のフルコース二品目。
ペア。
その味は、俺の中に確かに刻まれた。
第2章 二つ目の一皿・ペア 完結です。
次回は
第3章 失われた猿武
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