うるさい客人
俺は今、一人で零山脈にいる。
ペアを飲み終え、無事に二つ目の地球のフルコースを食歴に刻んだ。
その後、俺とブラウスは来た道を戻った。
ペアのおかげなのか、体は驚くほど軽かった。
零山脈を越えてきた時の疲労が嘘のように消えている。
いや、消えたどころではない。
体力が前より何倍にも増えている気すらする。
呼吸は深い。
足取りも軽い。
視界も広い。
エアで得た呼吸の力。
ペアで開いた味覚と感覚。
その二つが、体の中でしっかりと噛み合っている。
本当なら、ブラウスをビオトープ入口まで送ってから修行しようと思っていた。
だが、零山脈のふもとまで戻ったところで、ブラウスが首を振った。
「ペアのおかげで体力も十分あります。森からは一人で戻れますよ!」
そう言われてしまった。
もちろん、少し心配ではあった。
エリア七の森には猛獣もいる。
食材も多いが、危険も多い。
だが、ブラウスはエアの時よりずっと頼もしくなっていた。
装備も整っている。
空調ベルもある。
グルメデバシーも持っている。
それに、彼もペアを飲んだ。
エアとペア、二つの地球のフルコースを食べた料理人だ。
もう、ただ守られるだけの少年ではない。
俺たちは零山脈のふもとで別れた。
前ほど寂しくはなかった。
グルメデバシーでいつでも連絡は取れる。
調理してほしい食材があれば相談できる。
ブラウスも、俺が無茶をしないか監視する気満々だった。
別れ際に何度も「無理はしないでくださいね」と言われた。
信用がない。
いや、ある意味では信用されているのかもしれない。
食材が絡むと突っ走る人間として。
ともかく、ブラウスは森へ戻り、俺は零山脈側へ残った。
「さて……」
俺はポシェットからビービーダンゴムシを取り出した。
丸まった小さな食材獣。
ころりとした体。
見た目は可愛いが、修行相手としてはなかなか厄介だ。
「とりあえず、ビービーダンゴムシの修行だ。まずは一つでずっとできるようにだな!」
俺は気合を入れた。
久しぶりに一人だ。
エアビオトープではブラウスと出会い、ペア編でもすぐに再会した。
ずっと誰かと一緒にいた気がする。
だからこそ、この一人の時間は少し新鮮だった。
寂しくないわけではない。
だが、今は集中できる。
ビービーダンゴムシを手のひらに乗せる。
右手で上げる。
左手で受ける。
また右手へ。
猿武。
かつてモンキーダンスとも呼ばれた地球最強の武。
その入口が、ビービーダンゴムシのお手玉にある。
俺が覚えているのは、その断片だけだ。
だが、断片でもいい。
やれることからやる。
ペアも飲んだ。
体も軽い。
今なら前よりうまくできるはずだ。
「よし」
投げる。
受ける。
投げる。
受ける。
投げ――。
ぼとり。
落ちた。
「……」
俺は無言で拾う。
もう一度。
投げる。
受ける。
投げる。
受ける。
今度こそ。
ビービーダンゴムシが手の中で急に重くなった。
「うおっ!」
手首が沈み、バランスを崩す。
ぼとり。
落ちた。
「お前、急に重くなるのやめろよ!」
もちろん返事はない。
ビービーダンゴムシはころころと転がり、何食わぬ顔で丸まっている。
いや、顔は見えないが。
俺はもう一度拾い上げた。
とにかく集中だ。
ビービーダンゴムシは、ただの球ではない。
生きている。
重さも変わる。
動きも変わる。
大きな音を出すこともある。
急に軽くなったり、跳ねたりもする。
その全てを受け流し、手のひらで扱う。
きっと、これが猿武の入口なのだ。
力で押さえ込むのではなく、相手の変化に合わせる。
落とさない。
ぶつけない。
無理に止めない。
ただ、受け流す。
そう考えれば分かる気もする。
だが、分かることとできることは別だった。
そして――。
日が傾きかけた頃。
俺はまだ、一つでお手玉をしていた。
しかも成果は、三回しかできなかったのが五回に増えただけだった。
五回。
たった五回。
もちろん進歩ではある。
だが、猿武を目指すなどと言うにはあまりにも遠い。
ビービーダンゴムシ一個すらまともに扱えない。
大きな音を出された時に反応が遅れる。
急に重くなると手首が負ける。
逆に軽くなると勢い余って飛ばしすぎる。
単純に見えて、やることが多すぎる。
「あー! 全然できねえ!」
俺は思わず叫んだ。
零山脈の静寂に、俺の声だけが響く。
いや、響くというより、灰色の岩肌に吸い込まれていく。
俺はビービーダンゴムシを拾い、再び構えた。
その時だった。
「おまえ、ほんま一日中……うるさいねん! ええかげんにせえ!」
突然、大声が聞こえた。
「え!?」
俺は反射的に振り向いた。
だが、誰もいない。
零山脈の岩肌。
薄い空気。
静寂。
人影どころか、猛獣の気配すらない。
俺は全身に緊張を走らせた。
「誰だ!」
「ここや!」
声は、何もない空間から聞こえた。
次の瞬間。
俺のすぐ前方の空間が、ふわっと裂けた。
いや、裂けたというより、布がめくられるように避けた。
何もなかった場所に、ぽっかりと別の空間が現れる。
その奥から、誰かが出てきた。
緑色の肌。
大きな体。
鍛え上げられた筋肉。
岩のような顎。
巨大な腕。
その姿は、忘れたくても忘れられない。
「グリーントロル……!!」
俺は全力で警戒態勢に入った。
グルメスモックを発動する。
右腕に食欲のエネルギーを集中させる。
いつでもキッチンハサミを出せるように。
頭上には番重落としを準備。
ペアを飲んだ今なら、前よりは動ける。
それでも勝てるかは分からない。
エアビオトープで遭遇したグリーントロル。
あの恐怖は忘れていない。
こん棒の一撃を受けただけで、腕が折れそうになった。
番重落としも通じなかった。
ブラウスを掴まれ、俺は何もできなかった。
目の前にいるのが同じ種族なら、油断はできない。
だが――。
そいつの反応は、俺が思っていたものと違った。
「待て待て! わしに敵意はない!」
グリーントロルは両手を上げた。
かなり慌てた様子である。
「グリーントロル……! 騙されないぞ!」
「いや、ほんまやって! お前ら人間も悪いやつとええやつがおるやろ?」
「……」
俺はその言葉に、少し考えた。
確かにそうだ。
人間にも悪いやつはいる。
いいやつもいる。
美食屋にも、料理人にも、研究者にも、悪人はいるだろう。
種族だけで全てを決めるのは、正しくないのかもしれない。
グリーントロルは敵。
それは間違いない。
少なくとも、地球へ侵攻し、人間を食い、フルコースを狙っている個体がいる。
だが、目の前のこいつが同じとは限らない。
……いや、それにしても警戒は解かないが。
「確かにそうか。でも、なんでグリーントロルがこんなところにいるんだよ!」
「物分かりええなおまえ。気に入った」
「まだ何も納得してないぞ」
「とりあえず、ここ入れたるわ」
「は?」
グリーントロルは手招きした。
何もない空間の裂け目。
その奥には、小さな空間が広がっているように見えた。
俺は警戒したまま近づく。
「罠じゃないだろうな」
「罠やったら、わざわざ声かけんと後ろから食っとるわ」
「それはそうかもしれないけど、言い方が怖い」
「入らんのか? 外で騒がれる方が迷惑なんやけど」
俺は迷った。
だが、ここで逃げてもたぶん追いつかれる。
戦って勝てる保証もない。
それなら、情報を得る方がいい。
グルメデバシーで連絡を取ることも考えたが、この状況でブラウスを巻き込むのは危険だ。
俺は警戒を緩めないまま、その空間へ足を踏み入れた。
すると、外の零山脈の気配がすっと薄れた。
そこは、小さな洞穴のような場所だった。
だが、岩壁はなく、空間そのものが半透明の膜で囲まれている。
外からは見えない。
中からは、零山脈の景色がぼんやりと見える。
空気もある。
酸素もある。
温度も適度だ。
さっきまでの無音と無酸素が嘘のように、穏やかな空間だった。
「ここは……」
「セーフゾーンや」
グリーントロルが言った。
セーフゾーン。
全ての場所が危険区域に当たるグルメ界で、ごく稀に出現する比較的安全な場所。
地形や食材、特殊な空間作用によって外部から隔絶され、猛獣の侵入や環境の影響を受けにくい場所。
美食屋たちの間では、見つけられれば幸運と言われる休息地。
もちろん、完全に安全とは限らない。
だが、少なくともここは、零山脈の無酸素から守られているようだった。
このグリーントロルは、ここに一人、ずっと住んでいたらしい。
小さな石のテーブル。
干した食材。
見たことのない茶葉の束。
岩を削った寝床。
簡素だが、生活の跡がある。
俺は混乱していた。
聞きたいことが多すぎる。
グリーントロルは敵だろ?
なんだこいつ。
フレンドリーすぎる。
エアビオトープで出会った個体とは、まるで雰囲気が違う。
あいつは人間を食材としか見ていなかった。
だが、目の前のこいつは関西弁で怒鳴り、セーフゾーンに招き入れ、今のところ襲ってこない。
意味が分からない。
「わいのことが気になるか?」
グリーントロルがにやりと笑った。
「気にならないわけないだろ」
「ずっと一人で暇やったから話したるわ」
そう言って、そのグリーントロルは俺にお茶を淹れてくれた。
大きな手で器を持ち、意外なほど丁寧に湯を注ぐ。
茶の香りが、セーフゾーンの中にふわりと広がった。
俺は警戒したまま、差し出された器を見つめる。
「毒とか入ってないよな?」
「入れとらんわ。ほんま失礼なやっちゃな」
「そりゃ警戒するだろ。グリーントロルなんだから」
「まあ、それもそうやな」
グリーントロルはあっさり頷いた。
その反応が、また調子を狂わせる。
俺は器を受け取った。
飲むかどうか迷う。
グルメデバシーで鑑定しようかとも思ったが、目の前のグリーントロルがじっとこちらを見ている。
「飲まんのか?」
「……飲む」
俺はほんの少しだけ口をつけた。
温かい。
苦みの奥に、岩塩のような旨味がある。
零山脈の乾いた体に、じんわり染みた。
「うまい……」
「せやろ。サンドリコの花弁をちょっと乾かして混ぜるんや。香りがええ」
「サンドリコを茶にするのかよ……」
「処理したらうまいで。人間でも飲めるようにしとる」
俺は器を見つめた。
グリーントロルが淹れたお茶。
サンドリコ入り。
意味が分からない組み合わせだ。
だが、うまい。
そして、目の前の存在は、やはりただの敵ではないのかもしれない。
グリーントロルは石の椅子に腰かけ、俺を見た。
「さて、何から話そか」
俺は器を握りしめた。
聞きたいことは山ほどある。
グリーントロルとは何なのか。
なぜここにいるのか。
地球を襲っている奴らと関係があるのか。
エアビオトープで俺たちを見逃した個体と同じ仲間なのか。
だが、まず最初に出た言葉は、それではなかった。
「お前、名前は?」
グリーントロルは一瞬きょとんとした。
それから、少しだけ嬉しそうに笑った。
「名前か。ええな。久しぶりに聞かれたわ」
そう言って、彼は胸を張った。
「わいはグリド。まあ、気軽に呼んでくれや」
零山脈の静寂の中。
俺は、敵であるはずのグリーントロル、グリドと向かい合っていた。
第3章スタートです。
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