グリドは、ものすごい勢いで食事を作り始めた。
セーフゾーンの奥にある小さなキッチン。
いや、小さいと言っても、グリド基準での小ささだ。
人間の俺からすれば、岩を削って作られた調理台も、鍋も、皿も、全部が大きい。
調理台の横には、保存していた食材が山のように並んでいた。
干し肉。
岩塩の結晶。
サンドリコの乾燥花弁。
巨大な木の実。
見たことのない茸。
そして、丸々と太った豚のような猛獣。
グリドはそれを軽々と持ち上げた。
「これはトントンや。重さは一トンちょいあるけど、肉質が柔らかくてうまいで」
「一トンちょいを軽く言うな」
「細かいこと気にすんなや」
グリドはそう言って、トントンを丸焼きにし始めた。
セーフゾーンの中に香ばしい匂いが広がる。
何百年も食べていないと言っていたのに、調理の手つきはかなり慣れている。
火加減も悪くない。
というか、結構うまい。
肉の表面に岩塩をまぶし、サンドリコの乾燥花弁を細かく砕いて香りづけする。
さらに、ほうれん草のような見た目の虫、ほうれんぞうりむしを潰してソースにしていた。
名前はかなり気持ち悪い。
見た目も、よく見ると葉っぱではなく虫なので少し複雑な気持ちになる。
だが、潰すと鮮やかな緑色のペーストになり、青い香りと甘みが出てくる。
グリドはそれをトントンの脂に混ぜ、肉の上から豪快にかけた。
さらに、見たことのない根菜を焼き、岩マジログランデの外殻を削って作ったらしい皿に盛りつける。
セーフゾーンの中に、あっという間に食卓ができあがっていった。
「お前、料理も結構できるんだな」
「そらそうや。九百年も暇やったからな。食えへんけど、作る練習はしとった」
「食えないのに料理の練習してたのか……」
「匂いだけでもな、ちょっと救われるんや」
その言葉に、俺は少しだけ黙った。
食べられない。
でも、料理はする。
匂いだけを楽しむ。
それが九百年。
俺には想像もできない。
グリドは豪快に笑いながら、料理を次々とテーブルへ並べた。
トントンの丸焼き。
ほうれんぞうりむしのソース。
岩塩で焼いた根菜。
サンドリコ茶。
硬い茸を薄く削って火に通したもの。
そして、俺が見たこともない、薄い板状の干し肉。
「ほら、並んだで!」
グリドは満足そうに胸を張った。
テーブルの上は、完全に宴会だった。
「お前も食え! 遠慮はいらへんで!」
「いいのか?」
「一人で食うより、誰かと食う方がうまいやろ」
その言葉は、意外なほど自然だった。
俺は少し驚いて、それから頷いた。
「じゃあ、いただくよ」
「おう!」
俺たちは手を合わせた。
「いただきます」
「いただきますや!」
グリドは少し照れくさそうに、俺の真似をして手を合わせた。
そして、九百年ぶりの食事が始まった。
トントンの丸焼きは、見た目に反して驚くほど柔らかかった。
皮はぱりっと香ばしく、中の肉は脂が甘い。
肉汁が舌の上で広がり、そこにサンドリコの香りがふわりと乗る。
ほうれんぞうりむしのソースは青臭さがなく、むしろ肉の脂を爽やかに流してくれた。
虫だと思うと少し抵抗がある。
だが、うまい。
「うまっ……!」
「せやろ!」
グリドは嬉しそうに笑った。
そのまま、彼は自分の皿に山のような肉を乗せる。
そして、大きな口で一気にかぶりついた。
噛む。
飲み込む。
その瞬間、グリドの目が大きく見開かれた。
セーフゾーンの中が、静かになる。
俺は思わず身構えた。
もし悪魔の断片が残っていたら。
もし遠い宇宙にいる本体へ繋がったら。
もしグリドが正気を失ったら。
この狭いセーフゾーンの中で、俺はグリーントロルと戦うことになる。
番重落としを準備する。
グルメスモックをいつでも全開にできるようにする。
しかし――。
グリドは震えていた。
怒りではない。
苦しみでもない。
目に涙を浮かべていた。
「……うまい」
その声は、小さかった。
巨大な体から出たとは思えないほど、細い声だった。
「うまい……うまいなぁ……」
グリドはゆっくりと噛みしめる。
一口。
また一口。
そのたびに、彼の表情が崩れていく。
九百年ぶりの食事。
九百年ぶりに、自分の意思で食べる味。
誰かに支配されるためではなく。
遠い宇宙の悪魔へ捧げるためでもなく。
ただ、自分が食べたいから食べる。
その当たり前が、グリドにとっては九百年ぶりだった。
俺は何も言えなかった。
ただ、同じ食卓で肉を噛んだ。
それが一番いい気がした。
グリドはそこから、ものすごい勢いで食べた。
トントンの丸焼きは、みるみるうちに骨だけになっていく。
ほうれんぞうりむしのソースも、根菜も、茸も、干し肉も、次々と消えていった。
俺も負けじと食べたが、量が違いすぎる。
グリーントロルの食欲はやはり凄まじい。
だが、不思議と怖くはなかった。
その食べ方は、誰かを支配するための食欲ではない。
ただ、久しぶりの食事が嬉しくて仕方ない子供のようだった。
「はー……」
食べ終えたグリドは、石の椅子にもたれかかった。
巨大な腹をさすり、天井を見上げる。
「久しぶりにこんなに食った……幸せや。今ならまた支配されてもええわ……」
「いや、だめだろ!!」
俺は全力で突っ込んだ。
グリドは、はははと笑う。
「冗談や冗談。いや、半分くらい本気やったかもしれんけど」
「半分でもやめろ」
「飯がうますぎたんや。しゃあない」
気持ちは分かる。
分かるが、支配されてもいいはだめだ。
「んで、どうなんだ?」
俺は表情を引き締めた。
食事は終わった。
問題はここからだ。
悪魔の断片が残っているのか。
食べたことで何かが反応したのか。
グリドは目を閉じた。
巨大な手を胸に当て、じっと集中する。
セーフゾーンの空気が静かになる。
俺も息を潜めた。
いや、ここは呼吸できる。
だが、自然と呼吸を忘れる。
グリドの体から、わずかに食欲の気配が立ち上る。
しかし、それは暴走するようなものではなかった。
熱い。
強い。
だが、どこか穏やかだった。
しばらくして、グリドの目が開く。
「……おらん」
「え?」
「おらんわ……」
グリドの声が震えた。
次の瞬間、彼は両手を大きく広げて叫んだ。
「おらんぞ!! 完全に呪縛から解放や!!」
「本当か!?」
「ほんまや! どこにも繋がっとらん! 腹の奥も、頭の奥も、全部静かや! わいの食欲は、わいのもんや!!」
俺は思わず立ち上がった。
グリドも立ち上がる。
そして、どちらからともなく手を伸ばした。
ばちんっ!
俺とグリドはハイタッチした。
手の大きさが違いすぎて、俺の手が少し痺れた。
だが、そんなことはどうでもよかった。
「やったな、グリド!」
「いやほんま、お前のおかげや!!」
グリドは豪快に笑った。
さっきまでの重い空気が嘘のようだった。
九百年分の呪縛。
九百年分の空腹。
その二つが、今ようやく終わったのだ。
「なにかお礼せんと気が済まん!」
「いや、いいよ。今の食事がお礼ってことで。おいしかったし」
「そんなんじゃあかん!」
グリドはきっぱりと言った。
「飯を一緒に食うた。それはそれや。恩は恩として返さんと、わいの腹の虫が収まらへん」
「腹の虫、九百年ぶりに動き出したばかりだろ」
「せやから元気なんや」
理屈になっているようで、なっていない。
だが、グリドは本気のようだった。
しばらく考え込んだ後、彼はふと何かを思いついたように俺を見た。
「せや。お前、ビービーダンゴムシのお手玉してたな?」
「ああ」
「なんや、猿武覚えたいんか?」
俺は固まった。
「え……知ってるのか? グリド……!」
「知っとるで」
グリドはにやりと笑う。
「本当か!?」
「ああ。知ってる人物を知ってる」
「……誰なんだ?」
俺は身を乗り出した。
グリドは胸を張った。
「グリドってやつや」
「……いや、あんたじゃねーか!!」
「ええツッコミや」
「褒められても嬉しくない!」
いちいちこういったボケを入れてくるのはちょっと面倒だ。
だが、少し慣れてきた気もする。
グリドと話していると、緊張感が削られる。
グリーントロル相手にそれでいいのかと思わなくもないが、少なくとも今の彼は敵ではない。
「じゃあ早速教えてくれ!!」
俺は前のめりに言った。
猿武。
失われた地球最強の武。
ビービーダンゴムシのお手玉しか知らなかった俺にとって、これは信じられない話だ。
グリドが本当に猿武を知っているなら。
しかも、九百年前のエリア七を知る生き残りなら。
俺は、その欠片ではなく、本物に触れられるかもしれない。
だが、グリドは片手を上げた。
「その前に!」
「なんだ?」
「知りたいやろ? なんでわいが猿武を知っとるか」
「気になるけど……また今度でいいよ。その話は」
「なんでやねん!」
グリドが大声を上げる。
「そこ気になるやろ! 普通聞くやろ! わいがどうやって猿武を知ったか、涙あり笑いありの話があるんやぞ!」
「聞きたいけど、今は修行したい。話は後で聞く」
「お前、話の腰折るん上手いな……」
「超強いやつの話で頭がいっぱいになった俺を見ただろ。長い話を今聞くと、また大事なところ聞き逃すかもしれない」
「自覚あるんかい」
グリドは呆れたように言った。
だが、すぐに表情を変えた。
少しだけ、遠い目をする。
「まぁ……せやな。少しでも早く強くなるに越したことはないしな……」
その声には、さっきまでの軽さがなかった。
グリドは零山脈の外を見た。
セーフゾーンの膜の向こう。
灰色の岩肌。
かつて猿たちがいた大陸。
失われた猿武。
そして、九百年前の戦い。
グリドが猿武を知っている理由。
そこにはきっと、何かがある。
だが、彼は今、それを語らなかった。
俺も聞かなかった。
今は、強くなることが先だ。
グリドは石の椅子から立ち上がった。
食後とは思えないほど、体の動きが軽い。
九百年ぶりに食べたというのに、もう力が戻っているようだった。
「さて、早速修行や」
グリドはにやりと笑った。
その笑顔は、さっきまでの茶飲み友達のものではない。
どこか、かつて部隊を率いていた総長の顔だった。
「ついてこい!」
そう言って、グリドはセーフゾーンの奥へ歩き出した。
俺はビービーダンゴムシを握りしめる。
ついに始まる。
猿武の修行。
失われたはずの地球最強の武へ続く道。
俺は胸の高鳴りを抑えきれないまま、グリドの背中を追った。