「ビービーダンゴムシ、どんだけいけるんや?」
グリドが、セーフゾーンの奥でごちゃごちゃした荷物の箱を漁りながら聞いてきた。
箱というより、岩をくり抜いて作った収納棚に近い。
中には乾燥食材、古びた道具、よく分からない骨、何かの皮、丸められた布、割れた器などが雑に詰め込まれている。
九百年一人で暮らしていると、物が増えるのかもしれない。
いや、九百年にしては少ない方なのか。
基準が分からない。
「一個で五回くらいしかできない」
俺は正直に答えた。
「ほお」
グリドは振り返り、少しだけ目を丸くした。
「大したもんや。最初の一ヶ月は一回すらできへんで、普通」
「え、そうなのか?」
「そらそうや。ビービーダンゴムシはただの玉ちゃう。生きとるし、重さも跳ね方も気分で変わる。見てから対応しようとしても間に合わん」
「……それは、やってみて痛感してる」
俺は手元のビービーダンゴムシを見下ろした。
丸まった体。
見た目は可愛い。
だが、修行相手としてはかなり性格が悪い。
急に重くなる。
急に軽くなる。
変な方向へ跳ねる。
突然大きな音を出して集中を乱す。
こいつを自在に扱うには、ただ反射神経がいいだけでは足りない。
たぶん、体全体で感じなければならない。
手で受けるのではなく、細胞で受ける。
そういうことなのだろう。
分かる。
分かるが、できない。
「お、これや。ほれ」
グリドが箱の奥から何かを取り出し、俺へ投げてきた。
小さめの袋だった。
布製で、首から下げられる紐がついている。
手のひらより少し大きいくらいのサイズ。
中には何かが入っているようで、軽く揺らすと小さな音がした。
「これは?」
「首からかけて、服の下に入れとけ。あと、まだ中身は見るなよ」
「なんでだよ」
「修行に使う。見るな言うたら見るな」
「分かった」
グリドの言い方は雑だが、今は師匠だ。
とりあえず指示に従うことにした。
俺は小袋を首からかけ、グルメスモックの内側、服の下へ入れる。
袋は胸元に収まった。
中身は少し硬い。
何かの小石か、食材か、道具か。
気になるが、見るなと言われた以上は見ない。
「よし。まずは見るわ」
グリドはどっかりと岩の椅子に腰を下ろした。
「お手玉、死ぬ気でやれ」
「死ぬ気でお手玉って、字面が変すぎるだろ」
「ええからやれ」
「はいはい」
俺はビービーダンゴムシを手に取った。
右手で上げる。
左手で受ける。
また右手へ。
集中する。
見てからでは間に合わない。
それはトリコで見て十分に分かっていたつもりだ。
ビービーダンゴムシの動きに合わせて、細胞全てを統一する。
力の流れを感じる。
重さの変化を受け流す。
そう頭では理解している。
だが、実際にやると本当に難しい。
一回。
二回。
三回。
四回。
五回――。
手の中でビービーダンゴムシが急に軽くなった。
「あっ」
勢い余って上に飛ばしすぎる。
慌てて手を伸ばすが、ずれる。
ぼとり。
落ちた。
「くそ……」
「もう一回や」
グリドが言う。
俺は拾う。
投げる。
受ける。
また投げる。
今度は三回で落ちた。
次は四回。
次は二回。
たまに五回までいく。
だが、それ以上続かない。
集中しているつもりなのに、どこかで必ず崩れる。
手が遅れる。
肩に力が入る。
足が固まる。
目だけで追ってしまう。
そのたびに、ビービーダンゴムシは俺の意識の隙間を突くように落ちていく。
「……あー、だめだ」
俺は汗を拭った。
ただお手玉を本気でしているだけ。
それなのに、疲労が激しい。
汗も止まらない。
グルメスモックの内側がじっとりしている。
ペアで体力が増えたはずなのに、細かい集中を続けるだけでごっそり削られている気がした。
一人でやっていた時は、こうなる前に食料を補給していた。
ビービーダンゴムシを練習して、腹が減ったら食べる。
それでまた再開する。
だが、今はグリドが見ている。
ここで休むのは何となく悔しい。
俺はもう一度構えた。
グリドは俺をじっと見ていた。
そして、うんうんと頷く。
「まぁ、こんなもんやろ。五回できる回数が少し増えてきてるな」
「増えてるか?」
「増えとる。最初はまぐれの五回やった。今はたまに狙って五回いけとる。大きな違いや」
「でも五回から伸びない」
「せやな。やっぱ、きっかけが必要やな」
「きっかけ?」
俺が聞き返すと、グリドは立ち上がった。
その瞬間、空気が少し変わった。
さっきまで茶を飲み、飯を食い、ボケを挟んでいたグリーントロルではない。
九百年前、部隊を率いて地球へ攻め込んだ総長。
そんな気配が、少しだけ顔を出す。
「虎の威を借る狐、っちゅう言葉があるやろ」
グリドは静かに言った。
「意味は知ってる。強いものの威を借りて、相手をビビらせるやつだろ」
「せや。ほな見とけ」
グリドの周囲に、見えない何かの気配が膨れ上がる。
それは実体ではない。
力でもない。
グリド自身が強くなったわけでもない。
ただ、かつてグリドが見た猛獣の“威”だけを借りた虚ろな圧。
姿は見えない。
だが、そこに何かがいる。
そう錯覚させるほどの気配。
いや、錯覚というには濃すぎる。
鼻の奥が冷える。
背筋が固まる。
心臓が嫌な音を立てる。
零山脈の岩陰に潜んでいた小型の猛獣たちが、一斉に顔を上げた。
彼らにも分かったのだ。
ここにいてはいけない。
そう本能が叫んでいる。
「借威幻獣――フェイク・プレデター」
グリドがその名を口にした。
次の瞬間、岩陰に潜んでいた猛獣たちが、一斉に逃げ出した。
足音。
爪が岩を掻く音。
小さな悲鳴。
セーフゾーンの外で、気配だけに怯えた生き物たちが散っていく。
だが、俺はそれを見ている余裕がなかった。
俺自身も、あまりの恐怖で動けなかった。
怖い。
理屈では分かっている。
これは本物の猛獣ではない。
グリドがどこかで見た猛獣の気配を借りているだけだ。
実体はない。
俺を襲うものは、ここにはいない。
だが、体が信じない。
細胞が信じない。
全細胞が完全一致して恐怖している。
逃げろ。
死ぬ。
食われる。
潰される。
消える。
そんな感覚が、頭ではなく体中から湧き上がった。
その瞬間。
走馬灯が駆け巡った。
この世界だけではない。
ここに転生してからの記憶でもない。
もっと前。
この世界に来る前の記憶。
ほとんど忘れていたはずのことを、思い出した。
会社のテラスで、コーヒーを飲んでいた。
仕事の合間だった。
疲れていた。
それでも、ほんの少しだけ空を見上げる余裕があった。
窓の向こう。
ビルの隙間。
そこに、ありえないものが見えた。
巨大な隕石のようなもの。
空を覆うほどの、黒く、赤く、光る塊。
最初は現実感がなかった。
誰かの冗談か。
映像か。
何かの広告か。
そう思うほど、巨大すぎた。
それが本当に隕石だったのかは分からない。
死の直前の俺に、確かめる余裕などなかった。
ただ、空が落ちてきた。
そう思った。
その瞬間、世界が白くなった。
音が消えた。
いや、音が大きすぎて、音として認識できなかったのかもしれない。
遠くのビルが崩れた。
地面が波打った。
窓ガラスが砕け、熱と衝撃が押し寄せる。
津波のように、土砂と熱が迫ってきた。
人の声。
悲鳴。
誰かが走る足音。
俺は動けなかった。
コーヒーのカップが手から落ちる。
割れる。
黒い液体が床に広がる。
そして――俺は死んだ。
いや、俺だけではない。
あの日、たぶん人類のほとんどが終わった。
そう思うほどの何かが、世界を呑み込んだ。
「ぐっ……!」
気づくと、俺は膝をついていた。
両手を地面につき、荒い息を吐く。
「はぁ……はぁ……」
汗が止まらない。
胸が痛い。
体の奥が震えている。
前世の記憶。
あの日、空から落ちてきた何か。
俺が死んだ瞬間。
世界が終わったとしか思えなかった光景。
それを、今さらのように思い出してしまった。
俺は転生した。
この世界で生まれ直した。
トリコの世界だと知って、興奮した。
美食屋を目指した。
だが、その前に俺は死んでいた。
俺のいた世界は、あの日、何かに呑み込まれた。
忘れていたわけではない。
でも、心のどこかで見ないようにしていた。
それが、恐怖に引きずられて一気に浮かび上がった。
「どや?」
グリドの声が聞こえた。
気配はもう消えている。
借威幻獣の圧はなくなっていた。
俺はゆっくり顔を上げる。
「思い出したくないものまで思い出しちゃったよ……」
「そうか。走馬灯でも見たか!」
「軽いな……」
「でも、よう耐えた」
グリドは真面目な顔で言った。
「普通なら腰抜かしてしばらく動けへん。お前はちゃんと戻ってきた」
「戻ってきた……」
俺は自分の手を見た。
まだ震えている。
でも、確かに俺はここにいる。
恐怖に飲まれきってはいない。
そして――。
「でも、なんだろう……全細胞が一致する感覚を掴めた気がする」
恐怖だった。
どうしようもない恐怖。
だが、その瞬間だけは、体中の細胞が同じ方向を向いていた。
逃げろ。
死ぬな。
生きろ。
全細胞が完全に一致していた。
トリコも、きっかけはこれだった。
猿王の一瞬のブチギレ。
全細胞が恐怖で完全一致する感覚。
それを掴んだから、猿武の入口に立てた。
俺も今、ほんの少しだけ分かった気がする。
細胞を統一するとはどういうことか。
意識で命令するのではない。
体全てが、同じものを見て、同じ方向へ反応する。
恐怖は、その最も強いきっかけになる。
「この感覚を忘れないうちにやる」
俺は立ち上がった。
まだ足は少し震えている。
だが、手にビービーダンゴムシを乗せる。
グリドがにやりと笑った。
「その勢いや。まぁ、忘れたらまたビビらせたるわ」
「できれば勘弁してほしい」
「贅沢言うな。ええ修行やろ」
「あの日のことを思い出す修行は重すぎるんだよ」
「あの日?」
「あ、いや……こっちの話」
俺はごまかすようにビービーダンゴムシを軽く投げた。
右手で受ける。
今までとは少し違う。
目で追うだけではない。
手だけで受けるのでもない。
ビービーダンゴムシの重さ。
跳ねる気配。
手のひらへ落ちる前の空気の揺れ。
体がそれを感じようとしている。
一回。
二回。
三回。
四回。
五回。
ビービーダンゴムシが急に重くなる。
今までなら手首だけで受けようとして崩れていた。
だが、今は違う。
肩。
腰。
膝。
足裏。
体全体で沈む。
重さを受け止めるのではなく、下へ流す。
六回。
「お」
グリドの声が聞こえた。
俺は集中を切らさない。
七回。
八回。
ビービーダンゴムシが突然大きな音を出す。
体がびくりと反応しそうになる。
だが、さっきの恐怖に比べれば小さい。
音を受け流す。
九回。
十回。
そこで落ちた。
ぼとり。
静かな音がした。
俺はしばらく動けなかった。
十回。
今まで五回が限界だった。
それが、十回。
「……できた」
「せやな」
グリドは満足そうに頷いた。
「今のを忘れるな。細胞を一つにする感覚や。怖かったやろ?」
「怖かった」
「なら、それを食え」
「食う?」
「恐怖も経験も、全部食材や。逃げるだけやと身にならん。味わって、腹に沈めて、次に使え」
俺はその言葉を胸に刻んだ。
恐怖も食材。
経験も食材。
なら、あの日の記憶も。
空から落ちてきた何かも。
世界が終わったとしか思えなかった光景も。
いつか、俺の中にある味になるのだろうか。
まだ、そう思えるほど簡単ではない。
だが、今は少しだけ分かる。
見ないふりをしていた記憶も、俺を動かす力になるかもしれない。
俺はビービーダンゴムシを拾い上げた。
「もう一回やる」
「ええ顔や」
グリドは腕を組んで笑った。
「ほな、続けるで」
そうして、修行は続いた。
零山脈の静寂の中。
セーフゾーンの片隅で。
俺は、失われた猿武の入口へ、ようやく一歩踏み出した。