千年後のグルメ時代   作:鳩夜(HATOYA)

31 / 115
借威幻獣

「ビービーダンゴムシ、どんだけいけるんや?」

 

 グリドが、セーフゾーンの奥でごちゃごちゃした荷物の箱を漁りながら聞いてきた。

 箱というより、岩をくり抜いて作った収納棚に近い。

 中には乾燥食材、古びた道具、よく分からない骨、何かの皮、丸められた布、割れた器などが雑に詰め込まれている。

 九百年一人で暮らしていると、物が増えるのかもしれない。

 いや、九百年にしては少ない方なのか。

 基準が分からない。

 

「一個で五回くらいしかできない」

 

 俺は正直に答えた。

 

「ほお」

 

 グリドは振り返り、少しだけ目を丸くした。

 

「大したもんや。最初の一ヶ月は一回すらできへんで、普通」

 

「え、そうなのか?」

 

「そらそうや。ビービーダンゴムシはただの玉ちゃう。生きとるし、重さも跳ね方も気分で変わる。見てから対応しようとしても間に合わん」

 

「……それは、やってみて痛感してる」

 

 俺は手元のビービーダンゴムシを見下ろした。

 丸まった体。

 見た目は可愛い。

 だが、修行相手としてはかなり性格が悪い。

 

 急に重くなる。

 

 急に軽くなる。

 

 変な方向へ跳ねる。

 

 突然大きな音を出して集中を乱す。

 

 こいつを自在に扱うには、ただ反射神経がいいだけでは足りない。

 たぶん、体全体で感じなければならない。

 手で受けるのではなく、細胞で受ける。

 

 そういうことなのだろう。

 分かる。

 分かるが、できない。

 

「お、これや。ほれ」

 

 グリドが箱の奥から何かを取り出し、俺へ投げてきた。

 小さめの袋だった。

 布製で、首から下げられる紐がついている。

 手のひらより少し大きいくらいのサイズ。

 中には何かが入っているようで、軽く揺らすと小さな音がした。

 

「これは?」

 

「首からかけて、服の下に入れとけ。あと、まだ中身は見るなよ」

 

「なんでだよ」

 

「修行に使う。見るな言うたら見るな」

 

「分かった」

 

 グリドの言い方は雑だが、今は師匠だ。

 とりあえず指示に従うことにした。

 俺は小袋を首からかけ、グルメスモックの内側、服の下へ入れる。

 袋は胸元に収まった。

 中身は少し硬い。

 何かの小石か、食材か、道具か。

 気になるが、見るなと言われた以上は見ない。

 

「よし。まずは見るわ」

 

 グリドはどっかりと岩の椅子に腰を下ろした。

 

「お手玉、死ぬ気でやれ」

 

「死ぬ気でお手玉って、字面が変すぎるだろ」

 

「ええからやれ」

 

「はいはい」

 

 俺はビービーダンゴムシを手に取った。

 

 右手で上げる。

 

 左手で受ける。

 

 また右手へ。

 

 集中する。

 

 見てからでは間に合わない。

 それはトリコで見て十分に分かっていたつもりだ。

 ビービーダンゴムシの動きに合わせて、細胞全てを統一する。

 

 力の流れを感じる。

 

 重さの変化を受け流す。

 

 そう頭では理解している。

 

 だが、実際にやると本当に難しい。

 

 一回。

 

 二回。

 

 三回。

 

 四回。

 

 五回――。

 

 手の中でビービーダンゴムシが急に軽くなった。

 

「あっ」

 

 勢い余って上に飛ばしすぎる。

 慌てて手を伸ばすが、ずれる。

 ぼとり。

 落ちた。

 

「くそ……」

 

「もう一回や」

 

 グリドが言う。

 俺は拾う。

 

 投げる。

 

 受ける。

 

 また投げる。

 今度は三回で落ちた。

 次は四回。

 次は二回。

 たまに五回までいく。

 

 だが、それ以上続かない。

 集中しているつもりなのに、どこかで必ず崩れる。

 

 手が遅れる。

 肩に力が入る。

 足が固まる。

 目だけで追ってしまう。

 

 そのたびに、ビービーダンゴムシは俺の意識の隙間を突くように落ちていく。

 

「……あー、だめだ」

 

 俺は汗を拭った。

 ただお手玉を本気でしているだけ。

 それなのに、疲労が激しい。

 汗も止まらない。

 

 グルメスモックの内側がじっとりしている。

 

 ペアで体力が増えたはずなのに、細かい集中を続けるだけでごっそり削られている気がした。

 一人でやっていた時は、こうなる前に食料を補給していた。

 ビービーダンゴムシを練習して、腹が減ったら食べる。

 

 それでまた再開する。

 

 だが、今はグリドが見ている。

 ここで休むのは何となく悔しい。

 俺はもう一度構えた。

 グリドは俺をじっと見ていた。

 そして、うんうんと頷く。

 

「まぁ、こんなもんやろ。五回できる回数が少し増えてきてるな」

 

「増えてるか?」

 

「増えとる。最初はまぐれの五回やった。今はたまに狙って五回いけとる。大きな違いや」

 

「でも五回から伸びない」

 

「せやな。やっぱ、きっかけが必要やな」

 

「きっかけ?」

 

 俺が聞き返すと、グリドは立ち上がった。

 その瞬間、空気が少し変わった。

 さっきまで茶を飲み、飯を食い、ボケを挟んでいたグリーントロルではない。

 九百年前、部隊を率いて地球へ攻め込んだ総長。

 そんな気配が、少しだけ顔を出す。

 

「虎の威を借る狐、っちゅう言葉があるやろ」

 

 グリドは静かに言った。

 

「意味は知ってる。強いものの威を借りて、相手をビビらせるやつだろ」

 

「せや。ほな見とけ」

 

 グリドの周囲に、見えない何かの気配が膨れ上がる。

 それは実体ではない。

 力でもない。

 グリド自身が強くなったわけでもない。

 ただ、かつてグリドが見た猛獣の“威”だけを借りた虚ろな圧。

 姿は見えない。

 だが、そこに何かがいる。

 そう錯覚させるほどの気配。

 いや、錯覚というには濃すぎる。

 

 鼻の奥が冷える。

 

 背筋が固まる。

 

 心臓が嫌な音を立てる。

 

 零山脈の岩陰に潜んでいた小型の猛獣たちが、一斉に顔を上げた。

 

 彼らにも分かったのだ。

 ここにいてはいけない。

 そう本能が叫んでいる。

 

「借威幻獣――フェイク・プレデター」

 

 グリドがその名を口にした。

 次の瞬間、岩陰に潜んでいた猛獣たちが、一斉に逃げ出した。

 

 足音。

 

 爪が岩を掻く音。

 

 小さな悲鳴。

 

 セーフゾーンの外で、気配だけに怯えた生き物たちが散っていく。

 だが、俺はそれを見ている余裕がなかった。

 俺自身も、あまりの恐怖で動けなかった。

 

 怖い。

 

 理屈では分かっている。

 これは本物の猛獣ではない。

 グリドがどこかで見た猛獣の気配を借りているだけだ。

 

 実体はない。

 俺を襲うものは、ここにはいない。

 

 だが、体が信じない。

 

 細胞が信じない。

 

 全細胞が完全一致して恐怖している。

 

 逃げろ。

 

 死ぬ。

 

 食われる。

 

 潰される。

 

 消える。

 

 そんな感覚が、頭ではなく体中から湧き上がった。

 

 その瞬間。

 

 走馬灯が駆け巡った。

 

 この世界だけではない。

 

 ここに転生してからの記憶でもない。

 

 もっと前。

 

 この世界に来る前の記憶。

 ほとんど忘れていたはずのことを、思い出した。

 

 会社のテラスで、コーヒーを飲んでいた。

 

 仕事の合間だった。

 

 疲れていた。

 

 それでも、ほんの少しだけ空を見上げる余裕があった。

 

 窓の向こう。

 

 ビルの隙間。

 

 そこに、ありえないものが見えた。

 

 巨大な隕石のようなもの。

 

 空を覆うほどの、黒く、赤く、光る塊。

 最初は現実感がなかった。

 

 誰かの冗談か。

 

 映像か。

 

 何かの広告か。

 

 そう思うほど、巨大すぎた。

 それが本当に隕石だったのかは分からない。

 死の直前の俺に、確かめる余裕などなかった。

 

 ただ、空が落ちてきた。

 

 そう思った。

 

 その瞬間、世界が白くなった。

 

 音が消えた。

 

 いや、音が大きすぎて、音として認識できなかったのかもしれない。

 

 遠くのビルが崩れた。

 

 地面が波打った。

 

 窓ガラスが砕け、熱と衝撃が押し寄せる。

 

 津波のように、土砂と熱が迫ってきた。

 

 人の声。

 

 悲鳴。

 

 誰かが走る足音。

 

 俺は動けなかった。

 

 コーヒーのカップが手から落ちる。

 

 割れる。

 

 黒い液体が床に広がる。

 

 そして――俺は死んだ。

 

 いや、俺だけではない。

 

 あの日、たぶん人類のほとんどが終わった。

 

 そう思うほどの何かが、世界を呑み込んだ。

 

「ぐっ……!」

 

 気づくと、俺は膝をついていた。

 両手を地面につき、荒い息を吐く。

 

「はぁ……はぁ……」

 

 汗が止まらない。

 

 胸が痛い。

 

 体の奥が震えている。

 

 前世の記憶。

 

 あの日、空から落ちてきた何か。

 

 俺が死んだ瞬間。

 

 世界が終わったとしか思えなかった光景。

 

 それを、今さらのように思い出してしまった。

 

 俺は転生した。

 この世界で生まれ直した。

 トリコの世界だと知って、興奮した。

 美食屋を目指した。

 

 だが、その前に俺は死んでいた。

 俺のいた世界は、あの日、何かに呑み込まれた。

 

 忘れていたわけではない。

 

 でも、心のどこかで見ないようにしていた。

 それが、恐怖に引きずられて一気に浮かび上がった。

 

「どや?」

 

 グリドの声が聞こえた。

 気配はもう消えている。

 借威幻獣の圧はなくなっていた。

 俺はゆっくり顔を上げる。

 

「思い出したくないものまで思い出しちゃったよ……」

 

「そうか。走馬灯でも見たか!」

 

「軽いな……」

 

「でも、よう耐えた」

 

 グリドは真面目な顔で言った。

 

「普通なら腰抜かしてしばらく動けへん。お前はちゃんと戻ってきた」

 

「戻ってきた……」

 

 俺は自分の手を見た。

 まだ震えている。

 でも、確かに俺はここにいる。

 恐怖に飲まれきってはいない。

 

 そして――。

 

「でも、なんだろう……全細胞が一致する感覚を掴めた気がする」

 

 恐怖だった。

 どうしようもない恐怖。

 だが、その瞬間だけは、体中の細胞が同じ方向を向いていた。

 

 逃げろ。

 

 死ぬな。

 

 生きろ。

 

 全細胞が完全に一致していた。

 トリコも、きっかけはこれだった。

 

 猿王の一瞬のブチギレ。

 

 全細胞が恐怖で完全一致する感覚。

 

 それを掴んだから、猿武の入口に立てた。

 俺も今、ほんの少しだけ分かった気がする。

 細胞を統一するとはどういうことか。

 意識で命令するのではない。

 体全てが、同じものを見て、同じ方向へ反応する。

 恐怖は、その最も強いきっかけになる。

 

「この感覚を忘れないうちにやる」

 

 俺は立ち上がった。

 まだ足は少し震えている。

 だが、手にビービーダンゴムシを乗せる。

 グリドがにやりと笑った。

 

「その勢いや。まぁ、忘れたらまたビビらせたるわ」

 

「できれば勘弁してほしい」

 

「贅沢言うな。ええ修行やろ」

 

「あの日のことを思い出す修行は重すぎるんだよ」

 

「あの日?」

 

「あ、いや……こっちの話」

 

 俺はごまかすようにビービーダンゴムシを軽く投げた。

 右手で受ける。

 今までとは少し違う。

 目で追うだけではない。

 手だけで受けるのでもない。

 

 ビービーダンゴムシの重さ。

 

 跳ねる気配。

 

 手のひらへ落ちる前の空気の揺れ。

 

 体がそれを感じようとしている。

 

 一回。

 

 二回。

 

 三回。

 

 四回。

 

 五回。

 

 ビービーダンゴムシが急に重くなる。

 今までなら手首だけで受けようとして崩れていた。

 だが、今は違う。

 

 肩。

 

 腰。

 

 膝。

 

 足裏。

 

 体全体で沈む。

 重さを受け止めるのではなく、下へ流す。

 

 六回。

 

「お」

 

 グリドの声が聞こえた。

 俺は集中を切らさない。

 

 七回。

 

 八回。

 

 ビービーダンゴムシが突然大きな音を出す。

 体がびくりと反応しそうになる。

 だが、さっきの恐怖に比べれば小さい。

 音を受け流す。

 

 九回。

 

 十回。

 

 そこで落ちた。

 ぼとり。

 静かな音がした。

 俺はしばらく動けなかった。

 

 十回。

 

 今まで五回が限界だった。

 それが、十回。

 

「……できた」

 

「せやな」

 

 グリドは満足そうに頷いた。

 

「今のを忘れるな。細胞を一つにする感覚や。怖かったやろ?」

 

「怖かった」

 

「なら、それを食え」

 

「食う?」

 

「恐怖も経験も、全部食材や。逃げるだけやと身にならん。味わって、腹に沈めて、次に使え」

 

 俺はその言葉を胸に刻んだ。

 

 恐怖も食材。

 

 経験も食材。

 

 なら、あの日の記憶も。

 

 空から落ちてきた何かも。

 

 世界が終わったとしか思えなかった光景も。

 

 いつか、俺の中にある味になるのだろうか。

 まだ、そう思えるほど簡単ではない。

 だが、今は少しだけ分かる。

 見ないふりをしていた記憶も、俺を動かす力になるかもしれない。

 俺はビービーダンゴムシを拾い上げた。

 

「もう一回やる」

 

「ええ顔や」

 

 グリドは腕を組んで笑った。

 

「ほな、続けるで」

 

 そうして、修行は続いた。

 零山脈の静寂の中。

 セーフゾーンの片隅で。

 俺は、失われた猿武の入口へ、ようやく一歩踏み出した。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。