「ほう……お前……一か月で大したもんや」
グリドは腕を組み、感心したように頷いていた。
「師範代クラスを超えとるわ」
「本当か!?」
「ほんまや。えぐいでその成長」
俺の目の前では、ビービーダンゴムシが舞っていた。
一個ではない。
二個でもない。
十個でもない。
その数、六十個。
丸まったビービーダンゴムシたちが、俺の両手の間を絶えず回り続けている。
跳ねる。
沈む。
急に重くなる。
急に軽くなる。
音を出す。
震える。
曲がる。
ビービーダンゴムシたちは、好き勝手に動きながらも、俺の手からこぼれない。
最初は一個で五回が限界だった。
それが十回になり、二十回になり、三個を回せるようになり、十個を超え、二十個を超えた。
そして一か月。
今、俺は六十個のビービーダンゴムシを回していた。
もちろん、完璧ではない。
集中を切らせばすぐに崩れる。
気を抜けば、何個かは地面に落ちる。
だが、以前のように目だけで追ってはいない。
手だけで取っているわけでもない。
体全体で受けている。
重さが変わる前のわずかな気配。
跳ねる直前の震え。
音を出す前に生まれる妙な間。
それらを、俺の細胞が拾おうとしている。
全身が、ビービーダンゴムシの動きに合わせている。
猿武の入口。
その意味が、少しずつ分かってきた。
「よし」
グリドが手を叩いた。
「今日はそのビービーダンゴムシ食おか」
「食うのか?」
「当たり前やろ。修行に付き合ってもろたんや。最後は食う。しかも、ビービーダンゴムシは回せば回すほどうまいからな」
「そういえば、そうだったな……!」
「そや。中の旨味が攪拌されて、肉質も柔らかくなる。猿武の修行食材として優秀なんは、そこも含めてや」
なるほど。
ただ修行に使うだけではない。
修行すればするほど、食材としてもうまくなる。
いかにもグルメ時代らしい。
俺は慎重にビービーダンゴムシたちを止めていく。
一つずつ受け止め、布の上へ並べる。
六十個のビービーダンゴムシがころころと並ぶと、なかなか壮観だった。
グリドはそれを豪快に調理し始めた。
とはいえ、雑ではない。
外殻に軽く切れ目を入れ、内側の旨味を逃がさないように火を通す。
途中でサンドリコの乾燥花弁を少し散らし、岩塩を振る。
仕上げに、ほうれんぞうりむしのソースを少しだけ添えた。
香ばしい匂いが広がる。
この一か月、グリドの料理は何度も食べた。
ブラウスほど繊細ではない。
だが、グリドの料理は力強い。
食材の味を真っ直ぐに出す。
グリーントロルの料理と言うと怖い響きだが、実際にはかなりうまい。
「ほれ、食え」
「いただきます」
俺は手を合わせ、焼き上がったビービーダンゴムシを口へ運んだ。
噛んだ瞬間、旨味が弾けた。
「うまっ!」
前に食べた時より、明らかに味が濃い。
肉汁に厚みがある。
豆のような香ばしさも強い。
そして、中心部分にとろりとした甘みがある。
ただ焼いただけの時とはまるで違う。
たくさん回したことで、中の旨味が混ざり、深くなっている。
修行の成果をそのまま食べているようだった。
「確かに、いっぱい回した方が味が濃厚になってる……!」
「せやろ」
グリドも満足そうに食べている。
九百年ぶりの食事以降、グリドはよく食べるようになった。
最初は恐る恐るだったが、今では完全に食欲を取り戻している。
食べるたびに嬉しそうにするので、見ているこちらまで嬉しくなる。
俺たちはしばらく無言で食べた。
六十個もあると思ったが、気づけば皿は空になっていた。
満腹感とともに、体の奥へ修行の熱が沈んでいく。
食べることで、今日までの努力が細胞に刻まれる。
そんな感覚があった。
「そろそろ次の段階やな」
食後、グリドが言った。
「お前はもう、すでに細胞をしっかりとコントロールできとる」
「そうなのか?」
「できとる。少なくとも、ビービーダンゴムシ相手に全身を合わせることはできるようになった。次はそれを活かすんや」
「活かす……?」
俺は首を傾げた。
細胞を統一する。
受け流す。
その感覚は少し分かってきた。
だが、それをどう戦闘に活かすのか。
グリドはにやりと笑った。
「ほな、休憩が終わったらついてこい。実戦練習や」
「実戦……」
その言葉に、胸が少し高鳴る。
同時に、嫌な予感もした。
グリドの実戦練習。
絶対に普通ではない。
小休憩の後、俺はグリドとともにセーフゾーンから少し離れた開けた場所へ移動した。
零山脈の岩肌が広がる場所。
周囲に大きな障害物は少なく、足場も比較的平らだ。
遠くには灰色の山々。
空気は薄く、酸素はない。
だが、エアとペアを食べた今の俺なら、ここでも十分に動ける。
もちろん、長時間の全力戦闘は避けたい。
だが、修行なら問題ないはずだ。
グリドは開けた場所の中央に立った。
腕を組み、俺を見る。
「お前の技を全部、わいに打ってこい」
「え?」
思わず聞き返した。
「全部?」
「せや。遠慮はいらん。今のお前ができる全部を見せろ」
「でも……」
俺は少し躊躇した。
グリドは強い。
それは分かっている。
九百年前のグリーントロルの総長。
トリコらしき人物に吹き飛ばされても生き残った化け物。
俺なんかがどうこうできる相手ではない。
それでも、こちらの技を全部ぶつけるとなると、少し怖い。
怪我をさせる心配ではない。
いや、少しはある。
でもそれ以上に、俺の技がどこまで通じないのかを知るのが怖かった。
グリドは鼻で笑った。
「心配か?」
「まあ……」
「これでも元総長や。お前なんぞの攻撃でやられんわ」
「む……」
言い方が腹立つ。
だが、事実だ。
俺は歯を食いしばった。
「後悔するなよ」
「させてみい」
グリドはその場から動かない。
俺は深く意識を落とした。
グルメスモック。
食欲のエネルギーが全身を包む。
白い給食着。
帽子。
マスク。
見た目は相変わらず締まらない。
だが、この一か月でグルメスモックの感覚も変わっていた。
ただ纏うだけではない。
布の一枚一枚。
縫い目の一本一本。
帽子の縁。
袖口。
裾。
それらを、俺の細胞と連動させる。
防御ではなく、体の一部として扱う。
まずは番重落としだ。
頭上に食欲のエネルギーを集める。
以前は五重が限界だった。
グリーントロルには大したダメージを与えられなかった。
だが今は違う。
細胞が活性化している。
ビービーダンゴムシの修行で、エネルギーの流れが前より掴める。
重ねる。
一枚。
二枚。
三枚。
四枚。
五枚。
まだいける。
六枚。
七枚。
八枚。
九枚。
十枚。
「十重・番重落とし!!」
巨大な番重が十枚重なった状態で、グリドの頭上に出現する。
それが一気に落下した。
大きな音を立て、十重の番重がグリドを押し潰す。
岩肌が震えた。
地面に亀裂が入る。
グリドの足元が少し沈む。
砂埃が舞う。
今までで一番重い番重落としだった。
だが――。
「番重ってこれか」
砂埃の中から、グリドの声が聞こえた。
「ええ技や」
番重の下で、グリドは普通に立っていた。
少し地面に埋まっている。
だが、無傷だった。
片手で番重を持ち上げるように押さえ、感心したように頷いている。
「重さだけやなく、食欲の形がはっきりしとる。お前らしい技やな」
「くそ……!」
やはり通じない。
だが、まだだ。
俺は地面を蹴って接近する。
「キッチンハサミ!!」
腕にエネルギーを集中させる。
グルメスモックの袖が鋭く変形し、腕全体にハサミのような切断力を持たせる。
ガララワニを断ち、毒沼蛇を仕留めた技。
今なら、以前より切れ味は上がっているはずだ。
俺はグリドの腕へ向けて振り抜いた。
金属を切るような感触。
いや、岩を切るような抵抗。
だが、刃は入らない。
グリドは避けなかった。
俺のキッチンハサミを、腕でそのまま受けていた。
「ふむ」
グリドは自分の腕を見下ろす。
皮膚に白い線が一本だけ入っている。
血は出ていない。
「これもええ切れ味。やけど射程があれやな……」
「解析してる余裕あるのかよ!」
「受けとるだけやからな」
俺はさらに角度を変えて打ち込む。
右から。
左から。
下から。
足を狙う。
胴を狙う。
だが、グリドはほとんど動かない。
俺の技を解析するように、真正面から受けている。
そして、ダメージは一切ない。
圧倒的な差。
分かっていた。
分かっていたが、目の前で見せつけられると悔しい。
グリドは俺の最後の一撃を手の甲で軽く弾いた。
「技は悪くない。発想もええ。お前の食欲がちゃんと形になっとる」
「だったら……!」
「でもな」
グリドの目が鋭くなった。
「守りが雑や」
次の瞬間、グリドの右手に力が入った。
ただ、それだけに見えた。
構えたわけでもない。
大きく踏み込んだわけでもない。
技名を叫んだわけでもない。
ただ、右手を握り、俺の胸部へ向けて拳を出した。
俺は反応した。
グルメスモックを厚くする。
胸元へ食欲のエネルギーを集中させる。
細胞を統一し、衝撃を受け流そうとする。
だが――。
間に合わなかった。
拳が当たった瞬間、グルメスモックが一撃でバラバラに破れた。
白い布のようなエネルギーが、紙吹雪のように散る。
胸に衝撃。
呼吸が止まる。
いや、ここには酸素がない。
それでも、体が息を忘れるほどの衝撃だった。
「がっ……!」
俺は遥か後方へ吹き飛んだ。
地面を何度も跳ねる。
岩肌に背中を打ち、さらに転がる。
視界が回る。
音が遠のく。
最後に、大きな岩にぶつかって止まった。
「……っ」
痛い。
全身が痛い。
エアとペアのおかげで致命傷ではない。
だが、一撃で分かった。
これが差だ。
俺が一か月かけて掴んだもの。
進化した番重落とし。
強化されたキッチンハサミ。
グルメスモック。
その全てを、グリドは拳一つで粉砕した。
遠くでグリドがこちらを見ている。
彼は追撃してこない。
ただ、腕を組んで立っていた。
「立て、アマジン」
声が届く。
「今のが、次の課題や」
俺は歯を食いしばった。
震える腕で地面を押す。
胸が痛い。
体が重い。
だが、立つ。
立たなければならない。
猿武は、攻撃のためだけの技ではない。
受け流す技。
生き残る技。
今の一撃を受け流せないなら、俺はまだ入口に立っただけだ。
「……もう一回だ」
俺は立ち上がり、破れたグルメスモックを纏い直した。
白い給食着が、再び体を包む。
少しだけ形が歪んでいる。
だが、まだ動ける。
グリドはにやりと笑った。
「ええ根性や」
零山脈の岩場に、俺の荒い息だけが響いた。
実戦練習は、始まったばかりだった。