その頃、ブラウスはエリア3にいた。
エリア3。
かつてクラウドマウンテンと呼ばれた山を中心に広がる、雲の大地。
現在ではその周囲を巨大な壁が囲い、地球のフルコースの一つ、アトムを管理する特別ビオトープとなっている。
アトムビオトープ。
それが、この場所の正式な名称だった。
道中の景色は、ペアビオトープともエアビオトープともまるで違う。
雲草。
雲のような白い葉を持つ植物が、至るところに生えている。
地面も、岩も、崖も、丘も。
視界に入るものの多くが、ふわふわと白く覆われている。
一面真っ白。
いや、真っ雲と言った方が近いかもしれない。
風が吹くたびに雲草の葉が揺れ、白い粒子が空へ舞う。
それは霧のようでもあり、雪のようでもあり、湯気のようでもあった。
初めて訪れた者は、ほとんど例外なく足を止める。
空の上を歩いているような錯覚。
世界そのものが綿菓子になったような景色。
そこにかけられた長い橋を通って、人々はビオトープへ向かう。
かつてのグルメ界なら、この道を安全に進むことなどできなかっただろう。
雲のように見える植物の中には、獲物を包み込んで消化するものもある。
足場のように見えて、踏んだ瞬間に空へ吹き飛ばす地形もある。
白く美しい景色は、同時に危険なグルメ界そのものだった。
だが、今は違う。
アトムビオトープまでの道には、しっかりとした橋がかけられている。
橋には透明な防護壁があり、雲草の花粉や小型の猛獣が入ってこないよう調整されている。
観光客は、その橋を歩きながら安全に神秘的な景色を楽しめるようになっていた。
エアビオトープやペアビオトープと同じく、施設も充実している。
展望台。
宿泊施設。
アトム資料館。
雲草カフェ。
アトム風味の綿飴屋。
クラウドマウンテン記念ショップ。
地球のフルコースを管理する場所であると同時に、現代では一大観光スポットでもあった。
中でもアトムビオトープは、ペアビオトープより人が多い。
理由は分かりやすい。
景色が神秘的だからだ。
ペアビオトープも美しい。
だが、道中の零山脈は過酷であり、一般観光向けの範囲は限られている。
対してアトムビオトープは、橋から見える雲の世界だけでも十分に価値がある。
それに、アトムはクラウドマウンテンの調整に成功しており、養殖が可能となっている。
もちろん、地球のフルコースの本物とは別物だ。
天然のアトムを食べるには、相応の資格と覚悟が必要になる。
だが、養殖アトムならば一般人も食すことができる。
相当高い金額。
長い予約待ち。
厳格な体調チェック。
それらを乗り越える必要はあるが、それでも一般人が地球のフルコースに近い味へ触れられる。
その事実が、アトムビオトープの人気を支えていた。
しかし。
その日、アトムビオトープ入口の受付では、観光客たちが遠巻きに見守る中、一人の男が怒鳴っていた。
「お前なんでやねん! アナザビオトープでも同じこと言われたぞ!」
真っ赤な肌。
長い鼻。
かなり筋肉質な体。
そして、その体格には少し不釣り合いなほど仕立ての良い高級スーツ。
その姿は、まさしく天狗だった。
ただし、山奥に住む妖怪というより、巨大企業の社長室からそのまま飛び出してきたような天狗である。
威圧感はある。
品もある。
だが、今は受付に向かって全力で怒鳴っていた。
「そうは言われましても……命令なんです……」
「命令て誰のや!」
「上からの命令です」
「上って誰や!」
「それは、その……我々にも詳しくは……」
「なんで現場の人間が理由知らへんねん!」
怒鳴る天狗の後ろで、ブラウスは深くため息をついていた。
白い髪。
少し赤みのある肌。
小柄な体。
腰には響金包丁ハルシア。
荷物もしっかり整えている。
本来なら、ここからアトムビオトープへ入り、次なる地球のフルコースへ挑む予定だった。
しかし、入口で止められた。
理由は分からない。
だが、どうやらアトムだけではないらしい。
アナザビオトープでも同じことを言われた。
つまり、地球のフルコースを管理するビオトープ全てが、何らかの理由で入場禁止処置になっているようだった。
「危険度が増してるからか?」
天狗の男が受付へ詰め寄る。
「なら俺が息子についていけば問題ないやろ」
「いや、しかし……美食屋を目指す試験も兼ねてますので……最上位ライセンスのガウンさんが一緒に行けば、試練になりませんよ……」
ガウン。
それが、この天狗の名前だった。
気性の荒そうなこの天狗は、ブラウスの父親である。
最上位ライセンスを持つ美食屋。
天狗族の中でも相当な実力者。
そして、ブラウスをエアやペアへ突然放り込む迷惑な父親でもあった。
「ええやろ! ブラウスは料理人志望なんや!」
ガウンは胸を張って言う。
「美食屋として一人前になるためやなくて、料理人として食材を見るために行くんや! なら俺がついていっても問題ないやろ!」
「その理屈は分かるのですが……規定上は……」
「規定、規定、規定! 料理に一番いらん調味料やぞ規定は!」
「いえ、それは困ります……」
受付スタッフは涙目だった。
周囲の観光客たちは、少し距離を取りながらひそひそと話している。
「天狗だ……」
「すごい鼻……」
「最上位ライセンスって言ってたぞ」
「息子さん可愛い」
「あの子、料理人なのかな」
ブラウスは聞こえないふりをした。
慣れている。
父と一緒にいると、どこへ行っても目立つ。
そして父は絶対に引かない。
だからブラウスは、少しだけ希望を込めて言った。
「父さん。もういいでしょう。帰りましょうよ」
その声は、わずかに弾んでいた。
ほんの少しだけ嬉しそうだった。
アトムビオトープに入れない。
つまり、今回は危険地帯へ放り込まれない。
料理はしたい。
食材も見たい。
しかし、正直なところ、少し休みたかった。
エア。
ペア。
連続でグルメ界級の場所へ行ったのだ。
しかも父の無茶振りである。
たまには普通に帰ってもいいのではないか。
ブラウスはそう思っていた。
だが、ガウンは振り返った。
「お前!」
「はい?」
「なにちょっと嬉しそうにしてんねん!」
「そ、そんなことは……」
「顔に出とるわ!」
ガウンはビシッとブラウスを指差した。
「帰らんぞ!」
「えー。でも入れないですし……」
「ならここで屋台出すぞ」
「……はい?」
「接客の練習や!」
「ええ!?」
ブラウスの声が裏返った。
受付スタッフも固まった。
周囲の観光客たちも、ざわっと反応する。
屋台。
この場で。
ビオトープ入口の前で。
父は今、そう言った。
「ちょ、ちょっと待ってください父さん! ここは観光地ですよ!? 勝手に屋台なんて出したら怒られます!」
「許可は取る!」
「今から!?」
「当たり前や!」
ガウンは受付スタッフへ向き直った。
「おい! 屋台の許可はどこで取れる!」
「え、ええと……臨時出店の申請でしたら、観光管理棟で……」
「よし、行くぞブラウス!」
「いや、なんで自然に話が進んでるんですか!?」
「入れるまでここで屋台や!」
「そ、そんなあ……」
ブラウスの肩が落ちる。
帰れると思った。
少しだけ休めると思った。
だが、父は父だった。
危険地帯に入れなければ、入口で屋台を出す。
料理人志望の息子には接客も必要。
理屈は分かる。
分かるが、そういう問題ではない。
「父さん、せめて相談を……」
「料理人は現場で考えるんや!」
「それ、便利に使いすぎです!」
「ええから来い!」
ガウンはブラウスの襟首を軽く掴み、そのまま観光管理棟の方へ歩き出した。
「ちょ、歩けます! 自分で歩けますから!」
「なら早よ歩け!」
「もう……!」
ブラウスは半ば引きずられるように連れていかれる。
その背中には、諦めと困惑と、ほんの少しの覚悟が混ざっていた。
アトムビオトープには入れない。
地球のフルコースへの挑戦は、一時停止。
だが、ブラウスの修行は止まらない。
次の舞台は、クラウドマウンテンの中ではなく。
アトムビオトープ入口前の観光エリア。
白い雲草が揺れる神秘的な景色の中、天狗親子の屋台が開かれようとしていた。