IGO特別管理本部。
場所不明。
地図には載っていない。
職員の多くも、その正確な所在を知らない。
ただ、そこにある。
世界中の食材情報が集まり、人類の食を管理し、グルメ時代の秩序を支える巨大組織。
その本部のさらに奥。
メリスタは一人、エレベーターに乗っていた。
階数表示はない。
現在位置も分からない。
扉の上には、ただ黒い線が一本だけ灯っている。
エレベーターは静かに、しかし異様な速度で下降していた。
普通の建物なら、とっくに地下深くを抜けている。
地下施設という言葉では足りない。
地面の奥。
あるいは、地球の記憶の底へ向かっているような感覚だった。
メリスタは壁にもたれず、まっすぐ立っていた。
白髪交じりの髪。
深く刻まれた皺。
しかし、その目に衰えはない。
IGO宇宙食材研究所所長。
元一線級美食屋。
そして、人類でも極めて稀な、グルメ細胞の悪魔と特殊な契約を結ぶ者。
エレベーターが止まった。
音はない。
ただ、重い空気だけが一瞬揺れた。
扉が開く。
その先にあったのは、真っ暗闇の空間だった。
光はない。
壁も見えない。
床も天井も、どこまで続いているのか分からない。
メリスタは迷わず一歩を踏み出した。
すると、左右に並んだ柱の上で、ろうそくに火が灯った。
一つ。
二つ。
三つ。
炎が順に奥へ続いていく。
赤く、細く、揺れる火。
その光に照らされ、中央に長い食卓が浮かび上がった。
豪華な装飾を施された長いテーブル。
古い王城の晩餐室にでも置かれていそうな、重厚な食卓。
机の上には、高級皿がずらりと並んでいる。
銀のナイフ。
金のフォーク。
透明なグラス。
美しい白磁の皿。
だが、すべて空だった。
料理は一つもない。
香りもない。
湯気もない。
あるのは、食事の準備だけ。
満たされることのない空皿だけだった。
そして、一番奥の席。
そこに、黒い影が座っていた。
人の形をしているようにも見える。
だが、人ではない。
頭の形も、腕の長さも、背中から伸びる何かも、光が足りずはっきりとは見えない。
その黒い影は、何かを食べていた。
皿には何もない。
手にも何もない。
それでも、確かに食べている。
咀嚼音だけが、暗闇に響いていた。
「お前からまだ会いに来るとはナ……」
黒い影が言った。
低い声。
しかし、男とも女ともつかない。
老いているようで、幼いようでもある。
無数の食卓の記憶が混ざったような声だった。
「会うつもりはなかったんだがな!」
メリスタはそう言い、一番手前の椅子を引いて座った。
当然のような動きだった。
この場所に怯えた様子はない。
むしろ、昔なじみの面倒な相手に会いに来たような態度である。
メリスタが座ると、彼の前にあった空の皿に、何かが盛られていった。
肉のようにも見える。
果実のようにも見える。
湯気の立つスープにも、焼き菓子にも、幼い頃に食べた家庭料理にも見える。
見るたびに形が変わる。
香りも変わる。
それは料理ではない。
食の記憶だ。
「わしの分は良い。飯は口に入れて食うもんじゃ!」
「ソウカ」
黒い影が短く答える。
すると、メリスタの前に盛られた何かは、静かに消えていった。
皿は再び空になる。
メリスタはそれを見て、ふんと鼻を鳴らした。
「相変わらず趣味の悪い食卓だ」
「お前の趣味に合わせたつもりはナイ」
「そうかい」
空皿の並ぶ長い食卓。
暗闇。
ろうそくの炎。
奥で食べ続ける黒い影。
ここは、メリスタの中にある場所であり、メリスタの外にもある場所だった。
彼のグルメ細胞に潜む悪魔。
黒き饗宴。
ブラック・バンケット。
その悪魔と対話するための、契約の食卓。
「で、何の用ダ」
黒い影が咀嚼を止めずに言った。
「我の器になる気になったか?」
「ふふ。なっていいのか?」
メリスタは笑った。
「その場合、わしの記憶しか食えんくなるぞ。食欲も、おぬしの一種のみとなる」
「そうなってもよい程には、おまえに価値はあるガナ」
「そう言ってもらえると嬉しいわ」
メリスタは肩をすくめた。
「でも、絶対に自分では食わない食材を楽しめなくなるな」
黒い影は黙った。
わずかに、ろうそくの火が揺れる。
その沈黙は、否定ではなかった。
メリスタは分かっている。
この悪魔は偏食だ。
食の記憶を食う。
それ以外は食わない。
肉も魚も、野菜も果実も、菓子も酒も、直接は食わない。
人が何を食べたのか。
その時、何を感じたのか。
誰と食べたのか。
どんな空腹の果てに、どんな味を噛みしめたのか。
その記憶を食う。
それが、この悪魔の食欲だった。
だからこそ、メリスタは器にはなれない。
もし完全に取り込まれれば、彼の食欲はこの悪魔の一種に染まる。
自分では二度と、未知の食材を純粋に楽しめなくなるかもしれない。
そんな人生は、メリスタにとって死よりもつまらない。
「……違うのなら早く本題にハイレ」
「ふ。つれないな」
メリスタは懐から資料を取り出した。
紙だ。
この空間において、紙という形を保っていること自体が異様だった。
彼はそれを二枚、テーブルの上へ置いた。
「二名、追加の契約を頼む」
履歴書のような用紙だった。
名前。
年齢。
所属履歴。
食歴。
戦闘経歴。
グルメ細胞の適性。
契約耐性。
食の記憶の厚み。
ただの人材資料ではない。
この悪魔へ差し出すための、候補者の皿だった。
一名は、元グルメ騎士の男。
土岩丸。
どがまる。
大柄で寡黙。
防衛任務を中心に数十年活動し、過去には危険区域で何度も民間人を救助している。
味の記憶は素朴で、重い。
山菜。
岩塩。
鍋。
修行寺の粗食。
仲間と分け合った硬いパン。
華やかではないが、根が深い。
もう一人は、元グルメ自警団幹部。
鋼牙。
こうが。
治安の悪化した旧グルメ街で長年活動していた男。
人間界とグルメ界の境に近い危険地帯で、違法食材取引や密猟者の摘発に関わっていた。
戦闘経験は豊富。
判断も速い。
だが、食歴には濁りがあった。
勝つために食う。
支配するために食う。
他人より上に立つために食う。
そうした記憶が、ところどころに混ざっている。
黒い影は、二枚の紙を浮遊させた。
ろうそくの火が、紙の文字を照らす。
悪魔は黙って眺めた。
長い沈黙。
やがて、一枚の紙が黒い炎に包まれた。
燃えたのは、鋼牙の用紙だった。
灰も残らず、空中で消える。
「こっちは採用してやる」
黒い影が言った。
テーブルの上に残ったのは、元グルメ騎士の男、土岩丸の資料だけだった。
「ありがたい」
メリスタは短く答えた。
「理由は聞かんのカ」
「聞いてほしいのか?」
「イラヌ」
「なら聞かん」
メリスタは土岩丸の資料を回収した。
黒い影が選んだ。
それで十分だった。
黒き饗宴は偏食だが、食の記憶の質を見る目だけは確かだ。
鋼牙は強い。
だが、この悪魔の食卓には合わなかった。
あるいは、今の段階で契約させるには危険すぎたのかもしれない。
どちらにせよ、メリスタは判断を受け入れた。
「早く本題にハイレ」
「ああ。そうだな」
メリスタはゆっくりと黒い影を見た。
そして、言った。
「わしの上限を引き上げてくれ」
ろうそくの炎が、一斉に揺れた。
黒い影の咀嚼音が止まる。
「正気カ……?」
「正気だとも」
「一度の発動での消費が増えるゾ」
「構わん」
メリスタは笑った。
「その分、たくさん食って積み上げればよい!」
黒い影は、じっとメリスタを見つめた。
黒き饗宴。
ブラック・バンケット。
メリスタの奥に潜むグルメ細胞の悪魔。
その能力は単純であり、残酷であり、強力だった。
食の記憶を食う。
それを燃料に、メリスタへ莫大な力を与える。
だが、食の記憶はただの情報ではない。
その人にとって、極めて重要な歴史である。
初めて母親に作ってもらった料理。
友と囲んだ鍋。
死にかけた時に口にした一口の水。
旅先で出会った未知の味。
涙を流しながら食べた最後の晩餐。
そうした記憶は、人間の食欲を支える柱だ。
それを失うということは、自分の一部を失うことに等しい。
万が一、すべて失えば。
その者は、生きていても食べる意味を見失う。
廃人になってしまうほどのダメージを負う。
だから、メリスタは普段この力を制限している。
食の記憶を喰わせすぎないように。
力に溺れないように。
自分が自分でいられるように。
だが、今。
彼はその上限を引き上げろと言っていた。
「何を見た」
黒い影が問う。
「お前が、そこまで急ぐものを」
「宇宙からの客だ」
メリスタは短く答えた。
「緑色の、いやな客だった」
黒い影は何も言わない。
だが、暗闇の奥で、何かがわずかに蠢いた。
「おぬしも感じただろう。あれは、ただの猛獣でも、ただの悪魔でもない」
「……」
「人類が積み上げてきたものを、食卓ごとひっくり返す類の食欲だ」
メリスタの声は静かだった。
だが、その奥には怒りがある。
研究者としての警戒。
美食屋としての本能。
そして、食卓を守る者としての怒り。
「あれに対抗するには、今のままでは足りん」
「だから、自分の記憶を削るカ」
「削るんじゃない」
メリスタは笑った。
「食わせるんだ。契約だろう?」
「詭弁ダ」
「食事とは、そういうものだ」
黒い影は沈黙した。
その間、長い食卓に並ぶ空皿が、かすかに音を立てる。
皿の上には何もない。
だが、そこには無数の記憶が待っている。
メリスタが食べてきたもの。
メリスタが見てきたもの。
彼がこれから差し出すかもしれないもの。
黒い影は静かにメリスタを見つめた。
そして、言った。
「十%引き上げてやろう」
「十%か」
メリスタは少しだけ眉を上げた。
「まぁ、そんなものか」
「それ以上は、今のお前では戻れなくなる」
「心配してくれるのか?」
「食材を無駄にしたくないだけダ」
「そうかい」
メリスタは立ち上がった。
椅子がわずかに床を擦る。
その音が、暗闇に長く響いた。
黒い影は再び何かを食べ始めた。
皿の上には、やはり何もない。
だが、咀嚼音だけが聞こえる。
「また来る」
メリスタはそう言って、背を向けた。
「来るナ」
「それは無理だな」
「なら、食える記憶を用意しておケ」
「ふ。偏食家め」
メリスタはろうそくの並ぶ道を歩いていく。
エレベーターの扉が開く。
彼が乗り込むと、暗闇の食卓は少しずつ遠ざかった。
扉が閉まる直前。
黒い影の声が、最後に届いた。
「メリスタ」
「なんだ」
「全部は食わせるナ」
メリスタは少しだけ目を細めた。
そして、笑った。
「善処しよう」
扉が閉まる。
エレベーターは上昇を始めた。
地下深く。
空皿の食卓に、再び闇が満ちていく。
人類の食卓を守るために。
メリスタはまた一つ、自分の食の記憶を賭ける準備を始めていた。