ブラウスと別れてから、合計で三か月が経っていた。
長い。
普通に長い。
俺はペアを飲んだ後、零山脈のふもとでブラウスと別れた。
その後、ビービーダンゴムシの修行をしていたらグリドと出会い、セーフゾーンに連れてこられ、九百年前の話を聞き、九百年ぶりの食卓を囲み、猿武を教わることになった。
そこから三か月。
毎日、修行。
食って、修行。
寝て、修行。
起きて、修行。
たまにグリドに吹き飛ばされ、たまにグリドの料理を食い、たまに借威幻獣でビビらされ、たまに前世の嫌な記憶まで引っ張り出される。
いや、最後のは本当にやめてほしい。
だが、そのおかげもあって俺はかなり鍛え上げられた。
ビービーダンゴムシのお手玉は、もう六十個でも安定するようになってきた。
グルメスモックは以前より厚く、しなやかに動く。
番重落としも、まだ理想の重さには届かないが、形の応用は増えた。
落とすだけではない。
「ここならよさそうや」
ある日、グリドはそう言って、俺をセーフゾーンの外れまで連れてきた。
岩場と低い木々が混じった場所。
零山脈の中では比較的開けているが、ところどころに岩陰があり、猛獣が潜むには十分な地形だ。
「ここで何をするんだ?」
「実戦や」
グリドは俺の肩に手を置いた。
嫌な予感がした。
「借威幻獣――フェイク・プレデター」
その瞬間、グリドの周囲に見えない気配が広がった。
だが、以前のような圧倒的な恐怖ではない。
むしろ、どこか弱く、うまそうで、隙だらけの獲物がいるような気配。
そんな匂いが、俺の周囲にまとわりついた。
「え?」
次の瞬間、岩陰が動いた。
腹を空かせた猛獣たちが、こちらへ近づいてくる。
「え!? ちょ、何してんだよ!」
「めっちゃ強いのも見せることができるし、弱くてうまそうなのを見せることもできんねん、これ。便利やろ」
「便利の方向性がおかしい!」
集まってきたのは、Fランクの猛獣たちだった。
狼型の猛獣が二体。
地面に根を張る人食い花。
二足歩行の巨大な熊。
合計四体。
どれも以前の俺なら、かなり慎重に相手をしなければならない相手だ。
グリドは俺の肩から手を離し、後ろへ下がった。
「全員倒せ」
「やっぱりそうなるのか!」
文句を言う暇はなかった。
狼型の二体が左右へ散る。
巨大熊が正面から突っ込んでくる。
人食い花は根をうねらせながら、口のような花弁を開いた。
一気に来る。
俺は反射的に食欲エネルギーを展開した。
番重。
落とすのではなく、周囲へ出す。
銀色の番重が俺の左右と正面に現れ、盾のように攻撃を受け止めた。
狼の爪が番重を叩く。
熊の腕が正面の番重に激突する。
重い。
だが、受けられる。
昔なら、番重は上から落とすものだった。
今は違う。
持つ。
構える。
防ぐ。
俺の食欲の箱は、ただ落ちるだけじゃない。
俺は足元に小さな番重を出現させ、それを足場にして跳んだ。
囲まれた状態から抜ける。
空中で体をひねりながら、右腕にキッチンハサミを作る。
そして、それを短く飛ばした。
「キッチンハサミ!」
飛んだ刃が、人食い花の茎を切断する。
花弁が大きく揺れ、地面に崩れた。
だが、着地点には巨大熊が待っていた。
太い腕を振り上げている。
まずい。
俺は空中で左手を伸ばした。
キッチンハサミを瞬間的に伸ばし、熊の腕を挟む。
完全に切る必要はない。
止める。
軌道をずらす。
熊の腕がわずかに止まった。
その一瞬で十分だった。
俺は熊の肩口へ着地するように落ちる。
同時に、頭上へ番重を出現させた。
落とす力。
そして、俺自身の体重。
その二つを合わせる。
「番重落とし!」
銀色の番重が落ち、俺の体重ごと熊を押し潰した。
地面が震える。
熊が低いうめき声を上げ、そのまま倒れた。
「次!」
左から狼が飛びかかってくる。
鋭い爪。
俺は手元に番重を出し、盾のように構えた。
爪を受ける。
そのまま押し返すのではなく、角度を変えて弾く。
狼の体勢が崩れた。
「番重で――」
俺は番重を両手で持ち直す。
「殴る!」
銀色の箱の角が、狼の爪を殴り返すように弾いた。
狼がよろける。
そこへ、頭上から十枚の番重を落とした。
「十重・番重落とし!」
重なった番重が狼を地面へ叩きつける。
動かなくなった。
残りは一体。
もう一匹の狼型猛獣は、俺と倒れた仲間たちを見比べた。
そして、尻尾を丸めた。
次の瞬間、森の中へ一目散に逃げていった。
「……逃げた」
「追わんでええ」
グリドが後ろから言った。
「上出来やな」
俺は荒い息を吐きながら、周囲を見た。
倒した猛獣たち。
地面に残る番重の跡。
切断された人食い花。
まだ腕に残るキッチンハサミの感覚。
確かに、変わっている。
ただ番重を落とすだけではない。
ただ近くの敵を切るだけではない。
防ぎ、足場にし、飛ばし、止め、押し潰す。
俺の技は、少しずつ実戦の中で形を変え始めていた。
・・・
その日の夜。
俺とグリドは、いつものように食事をしていた。
場所はセーフゾーンの中央付近。
グリドが作った簡易キッチンの近くに、大きな平たい岩がある。
最近はそこが食卓になっている。
今日の料理は、岩茸と熊と狼肉の煮込み。
それに、倒した植物をよもぎ餅のように練りこんだ焼き団子。
グリドの料理は、相変わらず豪快でうまい。
ブラウスの料理が繊細で美しい料理だとすれば、グリドの料理は生き延びるための料理だ。
力がある。
体の奥に沈んでいく。
食べると、明日も動ける気がする。
「うまいな……」
「当たり前や。わいの料理やぞ」
「自信満々だな」
「九百年練習しとるからな」
グリドは当たり前のように言った。
その言葉で、ふと疑問が湧いた。
そういえば、俺はこのことをちゃんと聞いていなかった。
「そういえばグリド。お前、九百年料理してたんだよな?」
「せやな」
「でも食べられなかったんだよな?」
「せやな」
「じゃあ、その料理どうしてたんだ?」
俺が聞くと、グリドは目を逸らした。
分かりやすく逸らした。
「……まあ、捨てるんももったいないやろ」
「ん?」
なんだその反応。
捨てるのがもったいない。
それは分かる。
料理人でもない俺ですら、せっかく作った料理を捨てるのは嫌だ。
ましてグリドは九百年、食べられないのに料理を作っていた。
匂いだけで救われていたと言っていた。
では、その料理は。
誰が。
食べていた?
その時だった。
岩陰がもぞりと動いた。
俺は反射的にグルメスモックを纏いかける。
しかし、グリドは慌てない。
むしろ、気まずそうにしている。
岩陰から、ぬっ、と巨大な丸い顔が現れた。
黒い丸目。
ひくひく動く鼻。
ふくらんだ頬袋。
そして、やたら立派な前歯。
丸い。
とにかく丸い。
顔も体も丸い。
だが小さくはない。
むしろかなり大きい。
四足で立っている状態でも、俺の胸くらいまで高さがある。
胴体は横に長く、背中は広い。
少し無理をすれば、俺とブラウスが二人で並んで乗れそうな大きさだ。
ただし、馬やキャンピングモンスターのような乗り物感はない。
ふわふわで、もちもちで、まるい。
乗れるかもしれないが、乗ったら沈みそうだ。
そして、かわいい。
いや、零山脈の奥にいる巨大猛獣に対して言うことではないのだが、かわいい。
「……ハムスター?」
「蔵頬ハムスターや。一回セーフゾーン入れたら勝手に来るようになったわ」
グリドがぼそりと言った。
「くらほおハムスター?」
「せや。頬袋が蔵みたいになっとるから、蔵頬ハムスター。あの頬の中に食料でも石でも何でも溜め込む」
蔵頬ハムスターは、こちらをじっと見ていた。
鼻がひくひく動く。
俺の匂いを嗅いでいるらしい。
そして、視線はすぐに煮込みの鍋へ移った。
めちゃくちゃ見ている。
完全に飯を見ている。
「名前は?」
俺が聞くと、グリドはさらに目を逸らした。
「名前は……まあ、はむまるやな」
「名前つけてるじゃねえか!!」
「餌付けちゃう言うとるやろ!」
「誰もまだ餌付けって言ってないだろ!」
「言いそうな顔しとった!」
「九百年料理を食べさせて、名前までつけて、完全に飼ってるじゃねえか!」
「飼ってへん! 勝手に来て、勝手に食って、勝手に太っただけや!」
はむまるはグリドの横へとことこ歩いてきて、当然のように座った。
その動きに迷いはない。
いつもの定位置なのだろう。
完全に懐いていた。
はむまるはグリドの膝に鼻先を近づける。
グリドは嫌そうな顔をしながら、煮込みを少し器に取って差し出した。
「ほれ。熱いから気ぃつけろよ」
はむまるは器に顔を近づけ、ふうふうと鼻息で冷ましてから食べ始めた。
もぐもぐ。
もぐもぐ。
頬袋がさらにふくらんでいく。
「いや、世話焼いてるじゃねえか」
「ちゃう。こいつが勝手に熱いまま食って火傷したことあるからや」
「完全に世話してるじゃねえか!」
はむまるは俺たちの会話など気にせず食べている。
黒い丸目はきらきらしていた。
かわいい。
だが、よく見ると前歯がすごい。
岩でもかじれそうなほど立派だ。
爪も短いが太い。
穴掘りに向いていそうだ。
背中の毛はふかふかしているが、その下の筋肉はしっかりしている。
見た目は丸くて可愛いが、グルメ界の奥地で生きている猛獣なのだ。
弱いわけがない。
「こいつ、強いのか?」
「戦闘向きではないな」
グリドはあっさり言った。
「逃げ足は速い。嗅覚もええ。穴掘りもできる。頬袋には結構な量の荷物を入れられる。岩場もそれなりに走れる」
「めちゃくちゃ便利じゃないか」
「ただし、ビビりや。強い猛獣の気配がしたらすぐ逃げる」
「そこはハムスターなんだな」
「それに、食う量が多い。荷物を運ばせるなら、その分飯も用意せなあかん」
「なるほど……」
便利だが、万能ではない。
むしろ食料の消費は増える。
それはそれで、かなりグルメ時代らしい。
荷物を運ぶ相棒が増えたら、その相棒の飯も確保しなければならない。
食材集めは楽になるが、食材の必要量も増える。
よくできている。
「で、九百年間こいつが食べてたのか?」
「全部やない。たまにや」
「たまに?」
「最初は匂いにつられて来ただけや。わいも食えへんし、捨てるくらいならと思って置いておいた」
「それで?」
「次の日も来た」
「うん」
「その次も来た」
「うん」
「いつの間にか毎日来るようになった」
「それを餌付けって言うんだよ」
「言わへん!」
グリドはなぜか頑なだった。
だが、はむまるはグリドの横で器を舐めている。
完全に家族の距離感だ。
九百年間、グリドは一人でここにいた。
食べられない恐怖を抱えながら、料理だけは作り続けた。
その匂いだけで救われていた。
でも、本当に一人きりではなかったのかもしれない。
この巨大なハムスターが、毎日料理を食べに来ていた。
グリドは餌付けではないと言い張る。
だが、きっとそれはグリドにとっても救いだったのだろう。
自分が食べられない料理を、誰かがうまそうに食べる。
それだけでも、食卓は空ではなくなる。
「いい相棒じゃないか」
俺が言うと、グリドは鼻を鳴らした。
「相棒ちゃう。ただの飯食いに来る丸いやつや」
「はむまるって名前つけてるのに?」
「名前は必要やろ。呼ぶ時困る」
「呼んでるじゃねえか」
「うるさいわ!」
はむまるは自分の名前が聞こえたからか、こちらを見た。
そして、俺の方へとことこ近づいてくる。
でかい。
近くで見ると、本当にでかい。
俺とブラウスが乗れるくらいというのは大げさではない。
ただ、背中の形が丸いので、二人で乗るには鞍か何かが必要だろう。
そのまま乗ったら、毛に埋もれてずり落ちそうだ。
はむまるは俺の匂いを嗅いだ。
鼻が近い。
ひくひく。
ひくひく。
そして、俺のポシェットを見た。
「おい、そこに食べ物は入ってないぞ」
はむまるは残念そうに目を細めた。
表情が分かりやすすぎる。
「こいつ、人の荷物を勝手に食うタイプか?」
「食うものと食わんものの区別はつく。たぶんな」
「たぶんって言ったな?」
「大事なものは頬袋に入れさせる前に言っとけ」
「頬袋に入れる前提なのか……」
はむまるはふんす、と鼻を鳴らした。
どうやら俺の匂いは覚えたらしい。
そして、またグリドの横へ戻って座った。
丸い。
とても丸い。
強そうというより、安心感がある。
「でも、いいな」
「あ?」
「こいつがいたなら、お前の九百年も少しは寂しくなかったんじゃないか?」
俺がそう言うと、グリドは黙った。
ほんの少しだけ、顔を背ける。
「……さあな」
短くそう言った。
それ以上は聞かなかった。
たぶん、聞かなくてもいいことだ。
はむまるは何も知らない顔で、グリドの横で毛づくろいをしている。
黒い丸目。
ふくらんだ頬袋。
立派な前歯。
蔵頬ハムスター、はむまる。
グリドの九百年の食卓を食べてきた、丸い猛獣。
これから、俺にも関わってくるのだろうか。
少なくとも九百歳を超えてるハムスターか。
ガララワニでも三百歳超えてたりするし、長寿な猛獣も沢山いるのかな。
そんなことを考えていると、グリドが急に手を叩いた。
「さて、そろそろ猿武やな」
「待ってました!」
俺は反射的に立ち上がった。
三か月。
基礎は積んだ。
技も見直した。
細胞を統一する感覚も、少しずつ掴んできた。
だが、まだ猿武を技に乗せる段階には入っていない。
ここからが本番だ。
グリドはにやりと笑う。
はむまるが、俺たちを見上げていた。
その頬袋はまだ少しふくらんでいる。
修行を見るつもりなのか。
それとも、次の飯を待っているだけなのか。
たぶん後者だ。
でも、それでいい。
グリドがいて。
俺がいて。
はむまるがいて。
零山脈の奥のセーフゾーンに、今日も食卓がある。
そして、修行が始まる。
俺は拳を握った。
次は、猿武を俺の技へ。
失われた武を、俺の食欲の形へ乗せる番だ。