千年後のグルメ時代   作:鳩夜(HATOYA)

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別れの時

「正直言うとな」

 

 グリドは腕を組み、妙に真面目な顔で言った。

 

「もうほぼ会得できとる」

 

「え?!」

 

 俺は思わず大声を出した。

 

 ほぼ会得?

 何を?

 猿武を?

 

「猿武が会得できてる? 俺、まだモンキーダンスを踊ってないぞ」

 

「モンキーダンス?」

 

「あ、いや……」

 

 そういえば、現代に猿武の詳細はほとんど残っていない。

 俺が知っているのは、前世で読んだトリコの記憶だ。

 

 猿王バンビーナの大陸。

 猿武の修行。

 モンキーダンス。

 

 手をつなぎ、体を揺らし、全身の細胞を一つにする。

 そういうものだと思っていた。

 

 だから、猿武を教わるなら、いずれそれっぽい踊りをするのだろうと勝手に思っていた。

 だが、この三か月。

 

 俺がやったのは、ビービーダンゴムシのお手玉。

 グリドの攻撃を受ける修行。

 技の見直し。

 細胞の統一。

 恐怖による強制的な一致。

 そして、ひたすら食べること。

 

 踊ってはいない。

 

「猿武っちゅうのは、細胞をいかに使いこなすかや」

 

 グリドは言った。

 

「細胞が基本的にはバラバラやが、全細胞がお前のやりたいことにはしっかりと答えるようになっとる。今のお前は、その状態にかなり近い」

 

「いやでも……実感がない……」

 

 そう言った瞬間だった。

 グリドの拳が、俺の腹部めがけて飛んできた。

 

 速い。

 

 いや、見えない。

 反応できない。

 

 俺はグルメスモックを纏っていない。

 

 まずい。

 死ぬ!

 

 腹に拳が入った。

 大きな衝撃。

 俺の体は勢いよく吹き飛んだ。

 地面を転がり、岩肌を削り、背中から倒れる。

 

「ぐっ……!」

 

 痛い。

 めちゃくちゃ痛い。

 

 だが――。

 

「あれ……?」

 

 俺は腹を押さえながら、ゆっくり起き上がった。

 生きている。

 いや、それは当たり前として。

 

 おかしい。

 

 今の一撃は、三か月前なら確実に内臓がぐちゃぐちゃになるくらいの威力だった。

 グリドは手加減していただろう。

 だが、それでも普通に受ければ洒落にならない。

 なのに、俺は吹き飛ばされただけで済んでいる。

 

 腹を見る。

 そこには、白い布のような食欲エネルギーが薄く残っていた。

 

「俺、グルメスモック纏ってた……?」

 

「それが答えや」

 

 グリドは拳を下ろした。

 

「お前の全細胞がお前を守ろうと、グルメスモックを自発的に発動した。意思とは関係なくな」

 

「自発的に……」

 

 俺は腹に残った白いエネルギーを見つめた。

 確かに、俺は発動しようとしていない。

 グルメスモックと叫んでもいない。

 意識して食欲エネルギーを纏ったわけでもない。

 

 だが、攻撃が来た瞬間、俺の体が勝手に守った。

 俺の細胞が、俺の意思より先に動いた。

 

「やから、強度は常に全開にせんでいい」

 

 グリドは続ける。

 

「攻撃が飛んできたら、その部分を反射で強度上げられるわ」

 

「すごい……!」

 

 思わず声が漏れた。

 今までのグルメスモックは、纏う技だった。

 全身を包む。

 

 防毒、防塵、防風、防水、防衝撃。

 便利で強い。

 

 だが、全身を守ろうとすると、その分エネルギーを使う。

 常に硬くしようとすれば、燃費が悪い。

 けれど、今のように攻撃される部分だけが反射的に強化されるなら。

 

 必要な時に。

 必要な場所だけ。

 

 最小限の消費で、最大限守れる。

 これは、今までとは全然違う。

 

「猿武って、こういうことか……」

 

「せや。細胞に無理やり命令するんやない。細胞がお前の食欲と目的を理解して、勝手に助けてくれる状態や」

 

「俺の細胞が、俺を助ける……」

 

「当たり前のようで、難しいんやで」

 

 グリドは少しだけ笑った。

 

「普通は体の細胞なんぞ、全部好き勝手に食いたがっとる。暴れたがっとる。怖がっとる。逃げたがっとる。それを一つにして、お前のしたいことに従わせる。これが猿武の基礎や」

 

 俺はゆっくり立ち上がった。

 腹はまだ痛い。

 だが、痛みの奥に確かな手応えがある。

 俺は、少しだけ猿武に触れた。

 そう実感できた。

 

「この技を攻撃に乗せられたら相当やけどな……まずはここまででいい」

 

「なんでだ?」

 

 俺は聞き返した。

 ここまで来たなら、攻撃にも乗せたい。

 

 番重落としに猿武を乗せる。

 

 キッチンハサミに猿武を乗せる。

 

 それをやるために、ここまで修行してきたのではないのか。

 グリドは静かに言った。

 

「これから戦い抜くには、なによりもまずは守備を固めることや」

 

「守備……」

 

「お前はまだ弱い。けど、死ななければ伸びる。死ななければ食える。死ななければまた修行できる」

 

「……そうだな」

 

「強い攻撃は後でええ。まずは生き残れ」

 

 その言葉は重かった。

 グリドは九百年、生き残った。

 敵として地球に来て、トリコらしき人物に吹き飛ばされ、零山脈の奥で一人取り残され、食べることすら恐れながら、それでも生き残った。

 だからこそ、彼の言う「生き残れ」は軽くない。

 俺は頷いた。

 

「分かった。まずは防御を固める」

 

「それでええ」

 

 グリドは満足げに頷いた。

 だが、その直後。

 彼の表情が少しだけ曇った。

 

「それにな。もうあんまり時間がないんや」

 

「え?」

 

 俺は顔を上げた。

 

「時間がないって、どういう――」

 

「いや、なんでもあらへん!」

 

 グリドは急に声を大きくした。

 

「とにかく修行は今日でしまいや!」

 

「えええ! 急すぎるだろ!」

 

 思わず叫んだ。

 いや、本当に急だ。

 さっきまで猿武の話をしていた。

 攻撃に乗せるのはまだ先だと言った。

 それなのに、今日で終わり?

 

「いや、お前どんだけここおるつもりやねん!」

 

 グリドは逆に怒ったように言う。

 

「食材もほとんどなくなってもーたわ!」

 

「それは……まあ、俺もけっこう食ったけど」

 

「けっこうどころやない! お前、エアとペア食ったせいか、食う量がどんどん増えとるんや!」

 

「それは否定できない……」

 

「それにはむまるもおる! あいつの飯まで用意してたら、セーフゾーンの備蓄が空になるわ!」

 

 たしかに、この三か月でかなり食べた。

 グリドが九百年かけて蓄えていた乾燥食材や調味料も、かなり減っている。

 周囲の食材も獲りすぎるとバランスが崩れる。

 セーフゾーンは安全だが、無限の倉庫ではない。

 そう言われると、居座り続けるわけにはいかない。

 

「でも……」

 

 俺は言葉に詰まった。

 修行が終わる。

 それは分かる。

 いつまでもここにはいられない。

 

 ブラウスとも三か月会っていない。

 母に送るときについでに連絡しているが……

 そういえば全然返事がないな……!

 

 アトムやアナザ、ニュース、センター、ゴッド。

 まだまだ地球のフルコースは残っている。

 俺には進むべき道がある。

 

 だが。

 

「また来てもいいか……?」

 

 俺は、自然とそう聞いていた。

 

「続きを教えてくれよ」

 

 グリドは少しだけ目を丸くした。

 そして、すぐにいつもの顔に戻る。

 

「いや、わいもうここから出るからおらんよ」

 

「ええ!」

 

 今日一番驚いた。

 

「出るのか!?」

 

「いや、そらそうやろ! 呪縛から抜けて、どこでも行けるんやで?」

 

「それはそうか……」

 

 言われてみれば、当たり前だった。

 グリドはもう、あの悪魔の断片に怯える必要はない。

 

 食べてもいい。

 

 外に出てもいい。

 

 九百年閉じこもっていたセーフゾーンに、もう縛られる理由はない。

 

 なら、出る。

 

 世界を見る。

 

 食べる。

 

 それは当然だ。

 

 グリドにも、グリドの人生がある。

 いや、食生と言うべきか。

 

「そっか……」

 

 分かる。

 分かるが、寂しい。

 

 こいつは元敵だ。

 グリーントロルだ。

 

 九百年前に地球へ攻め込んだ総長だ。

 

 でも、俺にとっては師匠になった。

 

 飯を作ってくれた。

 

 猿武を教えてくれた。

 

 笑って、怒鳴って、吹き飛ばして、守り方を教えてくれた。

 

 別れるのは、やっぱり寂しい。

 グリドは俺の顔を見て、少しだけ照れくさそうに鼻を鳴らした。

 

「やからな……はむまる!」

 

 グリドが呼ぶと、岩陰から丸い影が飛び出してきた。

 

 はむまるだ。

 

 蔵頬ハムスター。

 

 ふくらんだ頬袋を揺らしながら、全速力で駆けてくる。

 

 速い。

 

 見た目は丸くてのんびりしているのに、走るとかなり速い。

 足音は、どどどどど、というより、ぽてててて、という感じだった。

 いや、可愛いな。

 

「きゅ!」

 

 はむまるはグリドの前でぴたりと止まり、黒い丸目で見上げた。

 グリドはその頭をわしわしと撫でた。

 

「はむまる。わいはもう居なくなる」

 

「きゅ……?」

 

 はむまるの耳が少し下がった。

 

「ほんで、お前を飼う余裕はない」

 

「きゅう……」

 

「こいつはアマジン」

 

 グリドは俺を指差した。

 

「こいつに養ってもらえ」

 

「俺の意見は!?」

 

「お前なら面倒見れるやろ」

 

「いや、見れるかどうかは別として、話が急すぎるだろ!」

 

「急なんは人生も食材も同じや」

 

「便利な言葉みたいに言うな!」

 

 はむまるは俺を見た。

 

 黒い丸目。

 

 ひくひく動く鼻。

 

 ふくらんだ頬袋。

 

 その目はどこか寂しそうだった。

 

 九百年。

 

 グリドの料理を食べてきた。

 

 毎日かどうかは知らない。

 

 でも、長い時間、ここで一緒にいた。

 グリドが食べられない料理を、はむまるが食べた。

 グリドは餌付けではないと言い張る。

 だが、はむまるにとってグリドは、間違いなく特別な存在だったのだろう。

 

「……本当にいいのか?」

 

 俺はグリドに聞いた。

 

「こいつ、寂しそうだぞ」

 

「わいについてきても、危ないだけや」

 

 グリドは短く言った。

 

「わいはちょっと、行かなあかんところがある」

 

「どこに?」

 

「さあな。決めてへん」

 

「嘘つけ」

 

「ふん」

 

 グリドは笑って誤魔化した。

 

 何かある。

 

 さっきの「あんまり時間がない」という言葉もそうだ。

 彼は何かを感じているのかもしれない。

 

 遠い宇宙にいるという、その悪魔の本体。

 そこに関係する何かかもしれない。

 

 だが、グリドは話すつもりがないようだった。

 今の俺が聞いても、きっと答えてはくれない。

 

「でも……ほんと急だな」

 

 俺は小さく笑った。

 

「なんか寂しいよ」

 

「ふ……嬉しいこと言ってくるな」

 

 グリドも笑った。

 

「出会いがあれば別れもありや」

 

「そうだよな……」

 

「まぁ、またどっかで会えるやろ!」

 

 グリドは手を差し出してきた。

 

 大きな手。

 

 緑色の手。

 

 かつては地球を襲ったグリーントロルの手。

 今は、俺に猿武を教えてくれた師匠の手。

 俺はその手を握った。

 固い握手だった。

 

 力を込める。

 

 グリドも力を込める。

 

 痛い。

 

 普通に痛い。

 

「力強すぎるんだよ」

 

「お前が弱いんや」

 

「最後までそれかよ」

 

「まだまだや。飯食って鍛えろ」

 

「ああ」

 

 俺は頷いた。

 

「ありがとう、グリド」

 

「礼はうまいもん食った時に言え。今はまだ途中や」

 

「じゃあ、次に会ったら何かうまいもの持ってくる」

 

「期待しとるわ」

 

 グリドははむまるの方を見た。

 

「はむまる。こいつの言うこと聞けよ。勝手に荷物食うなよ」

 

「きゅ」

 

「頬袋に変なもん溜めすぎるなよ」

 

「きゅ」

 

「危なかったらちゃんと逃げろよ」

 

「きゅう……」

 

 はむまるは小さく鳴いた。

 グリドは少しだけ黙った後、もう一度その頭を撫でた。

 

「元気でな」

 

「きゅ……」

 

 はむまるの頬袋がしぼんだように見えた。

 いや、実際にはしぼんでいない。

 でも、少しだけ小さく見えた。

 

 俺はポシェットを背負い直した。

 

 はむまる用の簡易荷具は、グリドがすでに用意していた。

 

 いつ用意したんだ。

 

 やっぱり最初から渡すつもりだったのではないか。

 

「これ、準備良すぎないか?」

 

「たまたまや」

 

「嘘だろ」

 

「うるさい。早よ行け」

 

 グリドは背を向けた。

 これ以上話すと、別れづらくなる。

 たぶん、そういうことだ。

 

 俺ははむまるの横に立った。

 はむまるは俺を見上げる。

 

 俺はその頭をそっと撫でた。

 ふわふわだった。

 

「はむまる。よろしくな」

 

「きゅ!」

 

 はむまるは短く鳴いた。

 元気な声だった。

 俺はセーフゾーンの出口へ向かって歩き出す。

 

 はむまるが隣を歩く。

 背後に、グリドの気配がある。

 振り返りたくなる。

 だが、少しだけ我慢した。

 

 それでも、出口の直前で一度だけ振り返る。

 グリドは腕を組んで立っていた。

 いつものように、にやりと笑っている。

 

「行け! アマジン!」

 

「ああ!」

 

 俺は大きく頷いた。

 そして、はむまるとともに零山脈を後にする。

 

 三か月の修行。

 

 失われた猿武の入口。

 

 グリドとの出会い。

 

 九百年の食卓。

 

 そして、新しい相棒。

 

 俺は一人ではなくなった。

 丸くて、でかくて、よく食べる蔵頬ハムスターが横にいる。

 

「行くぞ、はむまる」

 

「きゅ!」

 

 零山脈の静寂の中、俺たちは歩き出した。

 次の一皿へ向かって。

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