千年後のグルメ時代   作:鳩夜(HATOYA)

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間話 九百年前の通信

 アマジンとはむまるの背中が、零山脈の岩陰に消えていく。

 丸い巨体が、ぽてぽてと岩場を進む。

 その横で、アマジンが何かを話しかけている。

 

 はむまるは「きゅ」と鳴いた。

 

 たぶん、意味は分かっていない。

 だが、それでも二人は並んで進んでいく。

 グリドはその姿を、セーフゾーンの入口からしばらく見送っていた。

 

 やがて、完全に気配が遠ざかる。

 零山脈の静寂が戻ってきた。

 

 風の音もない。

 

 獣の声もない。

 

 ただ、岩と空と、薄い空気だけがある。

 

「……久々に楽しかったわ」

 

 グリドはぽつりと呟いた。

 本当に、久々だった。

 

 誰かと飯を食った。

 

 誰かに料理を出した。

 

 誰かに修行をつけた。

 

 誰かと話し、笑い、怒鳴り、呆れた。

 

 九百年。

 

 長すぎる時間だった。

 

 最初の数十年は、自分がまだ狂っていないか確かめるだけで精一杯だった。

 その後は、食べることへの恐怖に耐える日々。

 匂いだけを頼りに料理を作り、はむまるに食わせ、ただ生き延びた。

 だが、あの人間の少年が来た。

 

 アマジン。

 

 妙な技を使い、妙なことを言い、妙なほど食う少年。

 そして、妙に真っ直ぐだった。

 あいつは、食うことを恐れない。

 いや、恐れを知った上で、それでも食おうとする。

 その姿は、グリドにとって少し眩しかった。

 

「師匠なんぞ、柄やないんやけどな」

 

 そう言いながら、グリドはセーフゾーンの奥へ戻った。

 まずは片づけだった。

 

 食器を洗う。

 鍋を拭く。

 

 乾燥食材の袋を確認する。

 使いかけの岩塩を包む。

 

 余ったサンドリコの花弁を小瓶へ詰める。

 はむまる用に置いていた器を洗い、しばらく見つめた後、棚にしまう。

 

 手際は良い。

 

 九百年、毎日のように繰り返してきた動作だ。

 だが、その表情はいつものように軽くはなかった。

 

 真剣だった。

 

 別れの寂しさだけではない。

 懐かしさだけでもない。

 グリドの顔には、戦いへ向かう者の硬さがあった。

 

「……さて」

 

 片づけを終えると、グリドはセーフゾーンのさらに奥へ進んだ。

 そこには、岩壁に埋め込まれた小さな扉がある。

 見た目はただの岩の裂け目だ。

 だが、グリドが手をかざすと、岩の表面に赤い線が浮かび上がった。

 いくつもの線が絡み合い、古い文字のような模様を描く。

 

 グリーントロルの技術。

 

 九百年前、地球侵攻のために持ち込まれた装備の一つ。

 グリドは慎重に封を解いた。

 扉の奥には、厳重に保管された箱があった。

 何重にも食欲の気配を遮断する布で包まれている。

 さらに、その周囲には岩塩、乾燥サンドリコ、魔除けのような鉱石が並べられていた。

 

 中にあるものを、外の世界から隠すため。

 あるいは、中に残る何かの気配が外へ漏れないようにするため。

 

 グリドはゆっくりと箱を開けた。

 中から取り出したのは、板状のデバイスだった。

 

 黒く、薄い。

 

 表面には細かなひびが入っている。

 九百年前のものにしては、驚くほど形を保っていた。

 グリドは指先で起動部分を押す。

 しばらく反応はなかった。

 やがて、かすかな光が走る。

 赤い文字列が、板の表面に浮かび上がった。

 

「通信は……切れとるな」

 

 グリドは呟いた。

 

 当然だ。

 九百年も経っている。

 

 通信網が生きているはずもない。

 いや、生きていても困る。

 もし今も繋がっているなら、それは向こうにこちらの存在を知らせるということだ。

 今のグリドに必要なのは通信ではない。

 

 記録だった。

 

 九百年前に受け取っていたメッセージ。

 地球侵攻時、彼が最後に確認した通信記録。

 だが、トリコによって吹き飛ばされ、零山脈の奥へ叩き込まれたことで、グリドはそれを読むことができないまま眠るように意識を失った。

 

 そして目覚めた時、呪縛は切れていた。

 自分の中の悪魔の糸が、途切れていた。

 その後は恐怖で触れられなかった。

 

 このデバイスを起動することすら怖かった。

 

 もし、向こうへ繋がったら。

 もし、あの悪魔に気づかれたら。

 そう思うだけで、グリドは手を伸ばせなかった。

 

 だが、もう違う。

 グリドは飯を食った。

 

 九百年ぶりに食い、自分の中に断片がいないことを確かめた。

 自分の食欲は自分のものだと知った。

 ならば、もう逃げるだけでは終われない。

 

「開くで」

 

 誰に言うでもなく、グリドはそう言った。

 デバイスに残ったメッセージを開く。

 赤い文字が、空中に浮かび上がった。

 

『地球侵攻、第一波失敗確認』

 

『総長グリド隊、通信断絶』

 

『原因不明』

 

『主に致命的なダメージ。回復が必要』

 

『本体への接続、一時低下』

 

『侵攻失敗。体制を立て直し、再度襲撃する』

 

 グリドの目が細くなる。

 文字は続いた。

 

『再襲撃予定時刻――』

 

 表示された数字を見て、グリドは一瞬黙った。

 その後、額に手を当てる。

 

「……近いうちとは思ったけど……あと半年くらいしかないやんけ」

 

 九百年前の予定。

 それは、人間の感覚で見れば遥か昔のものだ。

 だが、宇宙の食欲にとって九百年など、長い準備期間に過ぎないのかもしれない。

 

 地球侵攻が失敗した。

 なら、体制を立て直す。

 

 さらに大きな食欲を集める。

 

 さらに強い器を作る。

 

 さらに深く星を喰らう準備をする。

 

 そして、再度襲撃する。

 

 予定時刻まで、残り半年。

 もちろん、この記録が正しいとは限らない。

 九百年の間に計画が変わっている可能性もある。

 すでに失敗している可能性もある。

 逆に、もっと早く動いている可能性もある。

 だが、グリドの腹の奥が告げていた。

 これは無視していいものではない。

 

 アマジンには言わなかった。

 言えるわけがない。

 

 今のアマジンはまだ成長途中だ。

 猿武の守りの入口に立ったばかり。

 地球のフルコースもまだ途中。

 背負わせるには早すぎる。

 それに、これはグリド自身の問題でもある。

 

 自分の種族を食った悪魔。

 自分たちを支配した食欲。

 

 自分がかつて従っていた侵攻計画。

 その後始末を、人間の少年に押しつけるわけにはいかない。

 

「……ほんま、九百年も寝かせてくれるなや」

 

 グリドは苦笑した。

 だが、その目は笑っていない。

 

 彼はデバイスを閉じる。

 箱へは戻さない。

 腰の収納具に収めた。

 

 それから、装備を固めた。

 

 古いが頑丈なグリーントロル製の戦闘衣。

 食欲の気配を隠す外套。

 

 調理道具。

 

 保存食。

 

 岩塩。

 

 乾燥サンドリコ。

 

 アマジンとの修行で使った道具の一部。

 そして、空になったはむまる用の器を一つ。

 グリドはそれを見て、少しだけ笑った。

 

「まあ、あいつなら大丈夫やろ」

 

 はむまるは臆病だ。

 食いしん坊だ。

 勝手に頬袋へ何でも詰め込む。

 だが、危険を察知する力は高い。

 逃げ足も速い。

 

 アマジンと一緒にいれば、きっと役に立つ。

 そして、アマジンもはむまるを粗末には扱わない。

 それは三か月で分かっていた。

 

 グリドは荷物を背負う。

 セーフゾーンの中央に立ち、ぐるりと周囲を見た。

 

 九百年住んだ場所。

 

 自分を隠してくれた場所。

 

 呪縛から切り離してくれた場所。

 

 食えないまま料理を作り続けた場所。

 

 アマジンとはむまると飯を食った場所。

 

「世話になったな」

 

 そう言って、グリドは頭を下げた。

 返事はない。

 セーフゾーンはただ静かにそこにある。

 グリドはゆっくりと歩き出した。

 

 九百年ぶりに、彼は自分の意思でセーフゾーンを後にする。

 外へ出た瞬間、零山脈の薄い空気が体を撫でた。

 

 酸素はない。

 音も少ない。

 

 だが、今のグリドにはそれが心地よかった。

 閉じこもるための静寂ではない。

 進むための静寂だ。

 

 グリドはデバイスを取り出し、別の機能を起動する。

 

 赤い光が周囲へ広がった。

 しばらく何も起こらない。

 やがて、空間がわずかに揺れた。

 岩の影でもない。

 ワープロードでもない。

 まるで畳まれていたものが開くように、そこへ一機の小型飛行機が静かに出現した。

 

 黒い機体。

 

 昆虫の羽のように薄い翼。

 

 鋭い機首。

 

 グリーントロルが地球侵攻時に使用していた、偵察用の小型飛行機だった。

 長い時間、裏側の格納空間に隠されていたのだろう。

 

 九百年経っているにもかかわらず、機体はまだ生きていた。

 グリドは機体の側面に手を置く。

 低い振動が返ってくる。

 

「よし、しっかりと動いとるな」

 

 コックピットが開いた。

 グリドは乗り込む。

 内部の計器は古い。

 だが、必要な情報は表示されている。

 

 残燃料。

 

 機体強度。

 

 隠密航行機能。

 

 目的地設定。

 

 通信は切れたまま。

 

 それでいい。

 今は、こちらから繋ぐ必要はない。

 グリドはゆっくりと息を吐いた。

 

 九百年前。

 

 自分は支配されていた。

 総長でありながら、自分の食欲は自分のものではなかった。

 命令され、侵攻し、喰らおうとした。

 

 だが今は違う。

 

 自分の腹で飯を食った。

 

 自分の舌でうまいと感じた。

 

 自分の意思で、戦いに行く。

 

 機体が浮かび上がる。

 零山脈の岩場が下へ遠ざかる。

 グリドは前方を見据えた。

 

「待ってろや、マザーグリード」

 

 その名を、彼は一人で口にした。

 アマジンの前では決して言わなかった名。

 食欲の匂いを帯びる、悪魔の名。

 だが、もう隠れて震えるだけの自分ではない。

 

「お前は、わいがぶっ倒したる」

 

 小型飛行機は音もなく加速した。

 零山脈の静寂を切り裂き、雲の向こうへ消えていく。

 九百年止まっていたグリドの時間が、再び動き出した。

 

・・

・・

・・

 

 おまけ話 アマジン両親の会話

 

「アマジン、そろそろビオトープを出るって!」

 

 母は嬉しそうに端末のメッセージを見ながら、父にそう言った。

 食卓の上には、湯気の立つお茶と、軽い焼き菓子が置かれている。

 

 いつもの家。

 

 いつもの食卓。

 

 だが、アマジンがいないだけで、少し広く感じる場所だった。

 

「また一度、帰ってくるそうよ」

 

「そうかい」

 

 父は穏やかに笑った。

 

「ペアを取ったけど、修行するって言ってたね。うまくいったのかな」

 

「きっとそうよ」

 

 母は端末を胸に抱くように持った。

 

「何せ、天然のフルコースを二つも食べたのよ!」

 

「ああ、そうだね」

 

 父は頷いた。

 

「自慢の息子だ」

 

 その声には、誇らしさと、ほんの少しの寂しさが混ざっていた。

 少し前まで、アマジンは家にいた。

 美食屋になりたいと言い出し、危険な場所へ向かう息子を、二人は何度も心配した。

 

 エア。

 

 ペア。

 

 どちらも地球のフルコース。

 現代では管理されているとはいえ、本来なら子どもが気軽に挑むものではない。

 

 それでもアマジンは食べた。

 

 そして、帰ってくる。

 

「もう、心配しすぎなくても大丈夫かもしれないね」

 

 父が静かに言った。

 

「そうね」

 

 母も微笑む。

 

「でも、帰ってきたらたくさん食べさせないと。きっとまたお腹を空かせているわ」

 

「それは間違いないね」

 

 二人は顔を見合わせて笑った。

 その時、母が端末の続きを見て、少し首を傾げた。

 

「あら」

 

「どうしたんだい?」

 

「あと、ハムスターを拾ったから飼いたいそうよ」

 

「ハムスター?」

 

 父は少し意外そうに瞬きをした。

 そして、すぐに笑う。

 

「いいんじゃないか」

 

「そうね。ハムスターケージとか買っておいた方がいいかしら」

 

「まあ、それは帰ってきてから相談すればいいよ」

 

「そうね。餌も必要かしら。ひまわりの種とか?」

 

「最近はグルメペット用のいい餌もあるらしいよ」

 

「そうなのね。小さい子なら、アマジンの部屋にも置けるかしら」

 

「大丈夫じゃないかな」

 

 二人は、穏やかに話していた。

 

 ハムスター。

 

 小さくて、丸くて、手のひらに乗るような可愛い生き物。

 そう思っていた。

 まさか、アマジンとブラウスが二人で乗れそうな大きさの、巨大な蔵頬ハムスターだとは知らずに。

 母は嬉しそうに端末へ返信を打つ。

 

「帰ってくるの、楽しみね」

 

「ああ」

 

 父はお茶を一口飲んだ。

 

「にぎやかになりそうだ」

 

 その予感だけは、正しかった。




第3章 失われた猿武 完
感想、お気に入り、評価頂き有難うございます。

次回は
第4章 雲の山と宇宙研究所 がスタートします。

更新頻度も(大幅変更など発生しなければ)落とさずやっていく予定なので
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