ゲートを抜けた先は、観光エリアとはまるで空気が違っていた。
まず、匂いが濃い。
草の匂い。
土の匂い。
甘い蜜の匂い。
それから、かすかに鼻の奥を刺すような毒の匂い。
目に見える景色は、よく整備された自然公園にも見える。
歩道らしき道もあるし、遠くには案内標識も立っている。
だが、その一歩外側に広がる森や草原は、どう見ても安全ではなかった。
木の幹には巨大な爪痕が残り、草むらの奥では何かがうごめいている。
空を飛ぶ鳥の影も、前世の常識でいう鳥ではない。
翼の幅だけで数メートルはある。
羽ばたくたびに、風圧で木々が揺れていた。
「……これが危険区か」
俺は思わず呟いた。
ゲート前のテーマパーク感はどこへやら。
ここは確かに、地球のフルコースへ続くビオトープなのだ。
入場した者たちは、皆、同じ方向へ向かって歩いていた。
屈強な美食屋たちも、装備を固めた料理人らしき人たちも、迷いなく道を進んでいく。
視線の先には、遠く霞む丘陵地帯が見えた。
あれがエアのある方向なのだろうか。
のろま雨の丘。
エアが実る場所。
そこへ行くためには、蜂の巣平野や毒雨草原を抜けなければならない。
俺は肩に力を入れ、荷物を確認しようとして――。
そして、少しだけ悲しくなった。
たくさん持ってきた荷物を入れたカバンはどこに行ったかって?
大半が没収されてクレジットに変わったよ。
いや、正確には没収ではない。
危険区の入口で預けることになったのだ。
危険区内では、持ち込める荷物の量が厳しく制限されている。
理由は単純。
荷物が多すぎると、動きが鈍る。
動きが鈍れば死ぬ。
さらに、外部から持ち込んだ食品や道具がビオトープ内の生態系に影響を与える可能性もある。
だから、危険区内に持ち込めるのは、この小さなポシェットに入る分だけ。
代わりに預けた荷物は一時的にクレジット化され、必要な施設内サービスや補給に使える仕組みらしい。
考えなしに使うと荷物を買い戻せないため注意だ。
便利だ。
便利なのだが。
俺の気合いを込めた大荷物は、入場五分で消えた。
残ったのは、最低限必要なものだけだ。
簡易食材鑑定キット。
グルメID同期端末。
緊急転送ビーコン。
携帯用調理ナイフ。
そして、冒険ノート。
これだけ。
耐圧インナーや環境適応ブーツは身につけているからいい。
だが、携帯食や予備装備、便利そうだから詰め込んだ細々とした道具はほぼ全滅した。
「……まあ、最初からこれくらいで挑めってことか」
俺は自分に言い聞かせるように呟いた。
美食屋を目指すなら、必要なものを見極める力もいる。
何でも持ち込めばいいわけではない。
食材を得るには、まず身軽でなければならない。
そう考えれば納得できる。
納得はできるが、やはり心細い。
とくに問題なのは、食料だった。
この世界には食義がある。
食に感謝し、食を受け入れ、体内のエネルギーを無駄なく使うための技術。
俺も小学校の授業で基礎は習っている。
そして、食没も会得していた。
体内に大量のカロリーを蓄え、必要な時に使う技術。
これがあれば、ある程度の期間は食事を取らずに活動することもできる。
美食屋にとっては必須に近い技術だ。
だが、問題が一つある。
俺は今、カロリーを限界までチャージしていない。
理由は簡単。
食べるには、お金がたくさんかかるからだ。
この時代の食事は美味い。
そして高性能だ。
食没用の高カロリー食など、栄養価も吸収効率も凄まじい。
だが、その分高い。
学園の食堂で出るものや家庭料理でも十分に栄養はあるが、食没を限界まで満たすほど食べようとすれば、普通に家計を圧迫する。
美食屋候補用のカロリーチャージメニューに至っては、値段を見るだけで胃が痛くなる。
だから俺は、普段からある程度は蓄えているものの、満タンではなかった。
今の状態で毒雨草原へ入るのは危険だ。
毒を防ぐにも、雨をしのぐにも、体力を使う。
もし長時間の移動になれば、途中でエネルギー切れを起こすかもしれない。
「毒雨草原に入る前に、しっかりとカロリーを補給しないとだな」
俺は周囲を見回した。
道の先には、他の入場者たちが進んでいる。
このまま流れに乗って行けば、おそらく補給ポイントや案内所もあるだろう。
だが、そこで食事を買えばまた金が飛ぶ。
二千万円問題を抱えている今、無駄遣いはできない。
それに、ここはビオトープだ。
危険区とはいえ、食材はある。
自分で見つけ、自分で食べられるものを判断し、カロリーを確保する。
それも美食屋として必要な力のはずだ。
俺は大きく息を吸った。
空気が重い。
けれど、うまい。
ただ呼吸しているだけで、体の奥に何かが流れ込んでくるような感覚がある。
さすがはエアのビオトープ。
空気そのものが、どこか食材に近い。
俺は道の端に寄り、立ち止まった。
両こぶしをぐっと握る。
そして、全身に力をためていく。
腹の奥に意識を落とす。
グルメ細胞が微かに震える。
食欲を燃やす。
食べたい。
もっと知りたい。
もっと味わいたい。
その欲望を、体の表面へ押し出す。
皮膚の上に薄い膜を作るように。
服の外側に、もう一枚の衣を重ねるように。
「――グルメスモック!」
俺の体を、淡い白色のエネルギーが包んだ。
ふわりと広がったそれは、やがて形を作る。
ゆったりとした白い上着。
丸みのある袖。
胸元には給食当番のような前合わせ。
頭には、これまた給食帽にしか見えない白い帽子。
食欲のエネルギーを全身に纏う、俺のオリジナル技。
グルメスモック。
見た目は完全に、給食着と帽子をかぶった少年である。
はっきり言って、かっこよくはない。
もっとこう、オーラの鎧とか、獣のような闘気とか、伝説の美食屋っぽい威圧感を期待していた。
だが、出てきたのは給食着だった。
俺の食欲のイメージが、小学校の給食に引っ張られすぎているのかもしれない。
とはいえ、性能は悪くない。
いや、むしろ攻守に優れた最高の技だと自負している。
これがなければ、きっと学園総合テストで一位にはなれていなかっただろう。
スモック。
服の汚れを防ぐために、上から重ねて着用するゆったりとした作業着や上っ張りのこと。
俺のグルメスモックは、その役割をしっかりと全うしてくれる。
汚れを防ぐ。
水を弾く。
毒さえも、ある程度は受け止める。
中の服は汚れない。
それだけではない。
物理的な衝撃も吸収してくれる。
殴られた時、転んだ時、何かにぶつかった時。
スモックの表面で力が分散され、体へのダメージが軽減される。
さらに、食欲のエネルギーを纏っているため、軽い身体強化にもなる。
走る。
跳ぶ。
耐える。
どれも、普段より一段階上がる。
学園の実技テストでは、この技に何度も助けられた。
特に環境適応試験では、雨、泥、砂、冷気、煙などをかなり防いでくれた。
そのたびに、周囲からは妙な目で見られたが。
給食着の少年が危険環境を突破する姿は、確かにかなり変だったと思う。
だが、いい。
見た目より実用性だ。
美食屋に必要なのは、かっこよさではない。
食材に辿り着く力だ。
ただし、デメリットもある。
グルメスモックは、常に食欲のエネルギーを纏い続ける技だ。
つまり、発動中は絶えずカロリーを消費する。
短時間なら問題ない。
だが、長時間使えば動けなくなる。
毒雨草原では、おそらくこれをずっと纏わなければならないだろう。
毒を含んだ雨。
名前からして、まともに浴びるものではない。
グルメスモックがあれば、ある程度は防げるはずだ。
だが、その分、カロリー消費は激しくなる。
「やっぱり、カロリー摂取が最優先だな」
俺は腹を軽く叩いた。
まだ余裕はある。
だが、余裕があるうちに補給するべきだ。
危険区で空腹になってから食材を探すのは、素人のやることだ。
……いや、俺はまだ素人なのだが。
それでも、素人なりに考えなければならない。
俺は他の入場者たちが向かう大きな道を見た。
皆、エアを目指して進んでいる。
あの流れに乗れば、いずれ毒雨草原へ向かうのだろう。
だが、その前に補給だ。
俺は道から少し外れた森へ目を向けた。
濃い緑。
湿った空気。
木々の間には、鮮やかな色の実がいくつも見える。
もちろん、全部が食べられるとは限らない。
毒かもしれない。
罠かもしれない。
食材に見えて、実は虫の卵かもしれない。
だからこそ、簡易食材鑑定キットがある。
学園で習った知識もある。
そして、俺自身の腹がある。
食べられるものを見つけて、カロリーを確保する。
最初の試練としては、ちょうどいい。
「よし」
グルメスモックの袖を軽く払う。
白いエネルギーの布が、ふわりと揺れた。
見た目はやっぱり給食当番だ。
だが、今はこれが俺の鎧だ。
食べるための鎧。
汚れを恐れず、食材へ向かうための作業着。
俺は人の流れから少し外れた。
遠くで、屈強なハンターの一人がこちらをちらりと見た気がした。
だが、声はかけられなかった。
止められもしない。
危険区では、自分の行動は自分の責任。
誓約書にサインした時点で、それは分かっている。
森の入口に立つ。
空気がさらに濃くなった。
葉の裏で、何か小さな生き物が跳ねる音がする。
甘い匂いの奥に、わずかな腐敗臭。
そして、そのさらに奥から、焼きたてのパンに似た香ばしい匂いが流れてきた。
食材だ。
俺の腹が、ぐうと鳴る。
グルメ細胞が反応している。
「まずは、腹ごしらえだ」
そう言って、俺は少し外れた森の中へと入っていった。