IGO第二宇宙研究所。
アトムビオトープに併設されるように建てられた、宇宙食材研究の最前線。
外から見た建物は、観光地であるアトムビオトープとはまるで雰囲気が違った。
白い雲草。
柔らかな光。
カップル向けの展望台。
そういったものから少し離れた場所に、巨大な銀色の施設が建っている。
研究所というより、要塞に近い。
壁は分厚く、窓は少ない。
入口には複数の警備員と、俺には用途も分からない装置が並んでいた。
「皆さま、お待ちしておりました」
受付の研究員らしき人が、深々と頭を下げる。
その声は丁寧だが、目は鋭かった。
俺たちを客として迎えているというより、危険物を検査する前のような緊張感がある。
厳重な扉。
厳重なスキャン。
そして、消毒。
まず靴裏を洗浄され、次に全身を光でスキャンされる。
さらに白い霧のようなものを浴びせられた。
体に害はないらしいが、少しひやっとする。
「うわ……」
思わず声が出た。
中には菌一つ持ち込ませない。
そういう徹底した入場管理だった。
食材研究所。
それも宇宙食材を扱う場所だ。
考えてみれば当然かもしれない。
未知の菌。
未知の胞子。
未知のグルメ細胞。
そんなものが外から持ち込まれたら、それだけで大惨事になる可能性がある。
「荷物はすべて預かります」
研究員が淡々と言った。
「全部ですか?」
「はい。研究所内に持ち込めるものは、こちらが許可したものに限ります」
俺はポシェットを外した。
ブラウスも調理道具を預ける。
ブラウスは少し不安そうだった。
そりゃそうだ。
料理人にとって包丁を預けるのは、戦士が武器を預けるようなものだろう。
ガウンは慣れているのか、文句も言わずにいくつかの装備を預けていた。
いや、文句を言わないだけで顔は不満そうだった。
そして、俺の肩に乗っていた小さなはむまるが「きゅ」と鳴いた。
「はむまるもか?」
「生き物の持ち込みはもちろん禁止です」
研究員は即答した。
「こちらでお預かりします」
「きゅ!?」
はむまるが俺の肩の上でびくっと震えた。
小型化しているとはいえ、はむまるは生き物だ。
当然と言えば当然だが、少し寂しい。
「はむまる。いい子にしてるんだぞ」
「きゅう……」
俺ははむまるの頭を撫でた。
研究員は専用の小型生物用ケースを持ってきた。
透明だが、空気穴もあり、中には柔らかい床材と小さな水入れまである。
意外と待遇は良さそうだ。
「食べ物は?」
「検査済みのものを少量であれば与えます」
「よかったな、はむまる」
「きゅ……」
はむまるは不安そうにケースへ入った。
扉が閉じる。
はむまるが小さな手を透明な壁に当てた。
「あとで迎えに来るからな」
「きゅ!」
はむまるはようやく元気よく鳴いた。
そうして、俺たちはやっと研究所内へ入場した。
通された場所は、応接室のような部屋だった。
ただ、普通の応接室ではない。
壁は白く、清潔感がある。
天井には空調装置がいくつもあり、部屋の隅には見たことのない観測機器が置かれている。
そして何より、テーブルの上に大量の食事が用意されていた。
「うお……すげえ食事」
思わず声が漏れた。
完全に球体で、艶のある肉っぽいもの。
蝶が止まっているように見える葉野菜。
星屑のような粒が浮かぶスープ。
薄いガラス細工のような魚の刺身。
透明なゼリーの中に小さな果実が閉じ込められたデザート。
どれも見たことがない。
だが、匂いだけで分かる。
うまい。
絶対にうまい。
「食べながら話そうじゃないか」
その声は、テーブルの奥から聞こえた。
一人の初老の男性が、すでに食事を始めていた。
白髪混じりの髪。
けっして大きな体ではないが、弱々しさはない。
むしろ、静かに座っているだけなのに、周囲の空気がその人へ引き寄せられているような感覚があった。
食べる所作は静かで、美しい。
だが、その一口ごとに、何か巨大なものが動いているような気がする。
「まさか、メリスタ所長本人がおるとは思ってへんかったわ」
ガウンが少し驚いた表情で言った。
「メリスタ所長……!?」
俺とブラウスは同時に驚いた。
メリスタ。
IGO宇宙食材研究所所長。
宇宙食材研究の第一人者。
俺が将来、宇宙へ行きたいと思うなら、避けて通れない名前。
もちろん知っていた。
名前は知っていた。
研究論文や解説記事、宇宙食材関連のニュースで何度も見た。
だが、実際に姿を見るのは初めてだった。
俺は思わず立ち上がり、一礼する。
「は、初めまして。アマジンと申します!」
隣でブラウスも慌てて頭を下げた。
「ブラウスです。お目にかかれて光栄です!」
メリスタ所長は、スープを一口飲んでから、ゆっくりとこちらを見た。
「そんな堅苦しいのはいらぬ」
声は穏やかだった。
しかし、妙な重さがある。
「さあ、遠慮せずに食うといい」
「は、はい!」
俺たちは席についた。
ガウンは遠慮なく座り、すぐに料理へ手を伸ばした。
ブラウスは緊張しながらも、料理を観察している。
俺はまず、球体の肉を取った。
箸で触れると、ぷるんと弾む。
肉なのか、卵なのか、実なのか分からない。
口に入れる。
噛んだ瞬間、中から濃厚な肉汁が溢れた。
「うまっ……!」
肉だ。
いや、肉だけではない。
スープのようでもあり、果実のようでもある。
完全な球体の中に、いくつもの味が閉じ込められていた。
次に、蝶が止まっているように見える葉野菜を食べる。
葉の先に羽のような模様があり、噛むとふわっと香りが広がった。
苦み。
甘み。
そして、空を飛ぶような軽さ。
宇宙食材なのか、研究所で調理された特殊食材なのか分からない。
だが、どれもうまい。
さすが宇宙食材研究所。
食事の時点で情報量が多すぎる。
俺たちはしばらく食事に集中した。
メリスタ所長も、ガウンも、ブラウスも、それぞれのペースで食べている。
そして、一通り食べ終わった後。
メリスタ所長が静かに口を開いた。
「急に呼んですまなかったな」
「ほんまやで」
ガウンが腕を組んだ。
「ビオトープにも入れんし最悪や。メリスタ所長、あんたなんかしたやろ?」
いきなり失礼だ。
だが、メリスタ所長は怒らなかった。
むしろ、当然の疑問だという顔をしていた。
「フルコースのビオトープにグリーントロルが現れた。ガウン、少しなら知っているだろう?」
「……興味ないわ」
ガウンは不機嫌そうに言った。
「今はブラウスに地球のフルコース食わすので手一杯や」
「今日はその件で呼ばせてもらった」
グリーントロル。
その単語に、俺の体が少し固まる。
ブラウスも表情を変えた。
「あの、グリーントロルって何でしょうか……?」
ブラウスが恐る恐る聞く。
「もしかして、エアビオトープにいたあいつですか……?」
「その通りだ」
メリスタ所長は頷いた。
「君たちは、そのグリーントロルに接触した重要な参考人だ」
参考人。
その言葉に少しだけ背筋が伸びる。
「特にアマジン」
「はい」
「君は長時間接触しているにもかかわらず、無傷で帰還した。詳しい話を聞きたい」
メリスタ所長の視線が俺に向いた。
圧がすごい。
ガウンの圧とは違う。
ガウンは山のような圧だ。
大きく、近く、風を巻き込むような圧。
だがメリスタ所長は違う。
なんというか……巨大な食欲の影を感じる。
静かに座っているのに、背後に黒い食卓のようなものが見える気がした。
食われる。
そう思ったわけではない。
でも、嘘をついたら、その嘘ごと味わわれるような気がした。
「いや……確かに、誰かとは接触していた」
俺は慎重に言った。
「俺の師匠になってくれた……」
「師匠……」
メリスタ所長の眉がわずかに動いた。
ブラウスも驚いている。
「俺もブラウスとグリーントロルってやつには会った。でも、ペアビオトープで会ったやつと同じとは思えなかったよ」
エアビオトープで遭遇したあいつ。
人を喰った化け物。
恐怖しかなかった存在。
それとグリドは、同じ種族だとしてもまるで違った。
グリドは飯を作った。
笑った。
教えてくれた。
はむまるを託してくれた。
俺にとっては、本当に師匠だった。
「だっはっは!」
ガウンが笑った。
「メリスタ、勘違いちゃうか? グリーントロルが師匠とかになるわけあらへん!」
確かに、普通に考えればそうだ。
俺だって、エアビオトープの頃の自分に言われたら信じない。
グリーントロルが師匠になる。
意味が分からない。
「ふむ」
メリスタ所長は、近くの端末を操作した。
「だが、君の食材鑑定キットにスキャン履歴があったのだ。これについて説明はあるかな?」
画面には履歴が表示されていた。
グリーントロル。
捕獲レベル1000・B。
グリドを鑑定した時のものだ。
どうしようか。
回答を間違えると、とてもやばい気がする。
グリドのことを勝手に話していいのか。
でも、隠し通せる気がしない。
メリスタ所長の目を見る。
正直、嘘をつけるとは思えなかった。
俺は息を吸った。
「グリーントロルが……師匠になってくれたんだ」
部屋の空気が止まった。
メリスタ所長は明らかに驚いた表情をした。
ガウンも少しだけ目を見開いている。
ブラウスは、完全に話についていけないという顔だった。
「どういうことや……?」
ガウンが低く言った。
「グリーントロルってあれやろ……あの凶暴な」
「個体差があるのかもしれない!」
俺は少し強く言った。
「だって、グリドはそんな悪いやつには見えなかった」
「グリド……」
メリスタ所長がその名を繰り返した。
「名前を名乗ったのか」
「あ!」
しまった。
言ってしまった。
名前。
グリドは言っていた。
悪魔の名前は食欲の匂いだと。
ただ、グリド自身の名前なら大丈夫なのか?
いや、たぶん大丈夫だ。
たぶん。
「えっと。はい……」
「そうか」
メリスタ所長の表情が、研究者のものに変わった。
「ぜひ彼に会いたい。おそらくそのグリーントロル……グリドは支配から逃れている」
「支配……?」
ブラウスがぽつりと言った。
「あの、全然話についていけないのですが……」
無理もない。
俺も完全についていけているわけではない。
グリドから話を聞いていたから多少分かるだけだ。
メリスタ所長は少し考えた後、言った。
「いずれ話す時は来るだろう」
そして、俺を真っ直ぐ見た。
「アマジン。彼にはどこで会ったのだ? 絶対に悪いようにはしない。教えてくれ」
その声は静かだった。
だが、必死さもあった。
メリスタ所長ほどの人が、グリドに会いたがっている。
それだけ重要な存在なのだろう。
俺は正直に話した。
零山脈の奥。
グルメ界で極稀に出るセーフゾーンのような場所。
そこでグリドと出会ったこと。
三か月修行を受けたこと。
ただし、グリドはもう旅立つと言っていたこと。
俺が戻っても、もういないかもしれないこと。
メリスタ所長は静かに聞いていた。
「そうか……だが、調べる価値はある」
その時だった。
応接室の扉が勢いよく開いた。
研究員の一人が、息を切らして入ってくる。
「メリスタ所長!」
「どうした」
「アトムビオトープに……グリーントロルの反応があります」
空気が変わった。
さっきまで食事をしていた部屋が、一瞬で戦場の入口に変わったようだった。
「何……」
メリスタ所長の顔が険しくなる。
「くそ。こんな時に」
グリーントロルがアトムビオトープに。
エア。
ペア。
そして、アトム。
やはり地球のフルコースのビオトープを狙っているのか。
俺の背中に冷たいものが走った。
ガウンが立ち上がった。
「メリスタ所長」
「何だ」
「そいつはオレがぶっ倒してきたる。だから、アマジンとブラウスの同行を許可してくれや」
「危険です!」
研究員が叫んだ。
「さすがにガウン様とはいえ、グリーントロルは――」
「メリスタ所長もそう思うか?」
ガウンは研究員ではなく、メリスタ所長を見ていた。
その目は真剣だった。
「それに、どうせ要るんやろ? 検体は」
メリスタ所長は黙った。
だが、答えは表情に出ていた。
「ああ。その通りだ」
「なら、オレの方が向いてるやろ」
ガウンは鼻を鳴らした。
「オレの……いや、オレら天狗族の悪魔は繊細な動きができるからな。お前らのと違ってな」
悪魔。
その言葉に、俺は反応した。
メリスタ所長の背後に感じた黒い食欲の影。
ガウンの言う、天狗族の悪魔。
この二人は、普通の美食屋とは違う何かを持っている。
メリスタ所長は目を閉じた。
短い沈黙。
研究員たちも何も言わない。
そして、メリスタ所長は目を開けた。
「分かった」
静かな声だった。
「三名のアトムビオトープ入場を許可する」
「よっしゃ、任しとき!」
ガウンがにやりと笑う。
「ほな行くで、二人とも!」
「え、今からですか!?」
「当たり前や!」
ブラウスは一瞬だけ戸惑ったが、すぐに表情を引き締めた。
「分かりました」
俺も立ち上がる。
心臓が早く鳴っている。
アトムビオトープ。
三つ目の一皿。
そして、そこに現れたグリーントロル。
グリドのような存在なのか。
それとも、エアビオトープにいたあいつと同じなのか。
分からない。
でも、行くしかない。
俺はメリスタ所長に頭を下げた。
「行ってきます」
「無理はするな」
メリスタ所長はそう言った。
その声には、研究者としての冷静さと、何か別の重さがあった。
俺たちは急いで応接室を出る。
預けた荷物を受け取り、はむまるを迎えに行く余裕はない。
いや、さすがに危険区域に小型化中のはむまるを連れていくのは危ない。
今回は研究所で待機だ。
「はむまる、待っててくれ」
ケースの中のはむまるに声をかけると、はむまるは「きゅ!」と鳴いた。
俺は頷き、ガウンとブラウスの後を追った。
研究所の厳重な扉が開く。
白い雲草の景色の先。
アトムビオトープの危険区域へ続く道が、俺たちの前に広がっていた。