クラウドパントリーへ足を踏み入れた。
雲の食料庫。
そう聞いていた通り、そこは不思議な空間だった。
白い雲の壁に、色とりどりの食材が生えている。
雲の棚のような場所には、果実のようなものが並び、壁際にはきのこが群生していた。
足元にも、柔らかい雲草とは違う、弾力のある苔のような食材が広がっている。
食材の匂いが濃い。
甘い匂い。
土の匂い。
肉の匂い。
そして、血の匂い。
グルメパントリーの奥に、一匹の猛獣がいた。
何かをむさぼっている。
ぐちゃり。
ばきり。
硬い殻を砕くような音が響く。
多くの猛獣がいると思っていた。
だが、周囲に気配は少ない。
おそらくすでに逃げたのだろう。
ガウンの気配かもしくは……。
どちらにしてもあそこにいるのは、その気配にあてられても逃げなかった猛獣。
俺は足を止め、グルメデバシーを構えた。
ブラウスにもらったグルメデバシー。
その鑑定機能を起動する。
表示が出た。
【デッドフォースマンティス】
【捕獲レベル85・D】
捕獲レベル85。
強さD。
巨大なカマキリだった。
普通のカマキリとは比べものにならない。
体長は俺の何倍もある。
細長い胴体は黒緑色に光り、外骨格は金属のような艶を持っている。
そして、腕。
鎌が四つあった。
二本ではない。
四本。
左右二対の巨大な鎌が、むしゃむしゃと食材を切り裂きながら動いている。
ゴッドとほぼ同格の猛獣。
そう考えると、今までの俺なら体が固まっていたかもしれない。
だが、不思議と恐怖はなかった。
目の前にいるのは、確かに強い猛獣だ。
油断すれば切り裂かれる。
でも、エアビオトープで感じた絶望とは違う。
グリーントロルを初めて見た時の、内臓を握り潰されるような恐怖とも違う。
俺はただ、思った。
こいつ……うまいのか……?
デッドフォースマンティスが、こちらに気づいた。
複眼がぎょろりと動く。
口元から、食べかけの食材がぼとりと落ちた。
次の瞬間。
四つの鎌が振るわれた。
速い。
雲の床を削りながら、斬撃が一気に迫る。
「番重」
俺は食欲エネルギーを前方へ集中させた。
ステンレスの番重。
ただし、昔の薄い箱ではない。
グリドとの修行で形を変えた、厚く、重く、持って使う番重。
それを盾のように構える。
ギィンッ!!
四つの鎌が番重にぶつかった。
重い。
だが、受けられる。
手首に衝撃が走る。
足場の雲が沈む。
けれど、崩れない。
グルメスモックが体の各所を自然に補強している。
意識しなくても、攻撃を受けた場所が勝手に硬くなる。
猿武の基礎。
細胞が、守り方を覚えている。
見える。
次の攻撃が。
鎌の動き。
足の重心。
羽の震え。
首の角度。
デッドフォースマンティスが四本の鎌を引き戻し、交差させるように振るおうとする。
俺は番重を少し傾けた。
鎌の一本を滑らせる。
もう一本を受ける。
残り二本が横から来る。
「キッチンハサミ」
右腕に食欲エネルギーを集める。
刃を作る。
挟む。
切る。
グリドに言われた。
切るだけなら良い刀でいい。
この技を使うなら、挟め。
止めろ。
ずらせ。
動きを奪え。
俺は迫る鎌の付け根を狙い、キッチンハサミを閉じた。
ザンッ。
一本目の腕が落ちる。
デッドフォースマンティスが甲高い声を上げる。
だが、止まらない。
残り三つの鎌が同時に迫る。
俺は小さな番重を足元に出した。
それを踏み台にして、体を横へずらす。
鎌が雲の床を裂いた。
その瞬間、俺はもう一度キッチンハサミを振るう。
今度は飛ばす。
短い刃を、食欲エネルギーの塊として射出する。
ザシュッ。
二本目の腕が裂ける。
完全には切断できなかった。
だが、動きは鈍った。
見える。
もう、分かる。
こいつの攻撃は速い。
でも、速いだけだ。
恐怖で体が固まるほどではない。
俺は番重を両手で持った。
重く。
さらに重く。
一枚の厚い番重。
落とすのではなく、持って叩きつける。
デッドフォースマンティスが残った鎌を振り上げた。
俺は一歩踏み込む。
グルメスモックが足を支える。
雲の床に沈み込む前に、猿武で体の重心を整える。
そして、頭部へ番重を叩きつけた。
ズトン……。
鈍い音がした。
デッドフォースマンティスの頭が雲の床へ沈む。
複眼の光が消えた。
巨体がぐらりと揺れる。
そして、その場に倒れた。
終わった。
「……」
俺はしばらく、その場に立っていた。
あっけなかった。
いや、弱かったわけではない。
油断すれば危なかった。
鎌の一本でもまともに食らえば、グルメスモック越しでも大怪我をしたかもしれない。
でも、勝てた。
かなり余裕を持って。
俺はゴッドにびびりすぎていたのかもしれない。
少なくとも数値上は、ゴッドと同じ強さの敵。
それを、たやすく倒せるところまでは来ている。
エアを食べた。
ペアを飲んだ。
グリドに鍛えられた。
猿武の基礎を会得した。
技も、少しずつ形を変えた。
その結果が、今ここにある。
「もっと……自分を信じていいのかもしれないな」
俺は小さく呟いた。
それから、デッドフォースマンティスの状態を確認する。
肉は硬そうだ。
だが、鎌の付け根や胴体の一部から、濃厚な匂いがする。
ブラウスなら何とかしてくれるだろう。
いや、何とかどころか、きっとうまくしてくれる。
俺はデッドフォースマンティスを食欲エネルギーの番重に乗せた。
重い。
だが、持てないほどではない。
ついでに、雲の壁に生えていたきのこを採取する。
白く丸い傘。
触れると少しふわふわする。
グルメデバシーで確認すると、クラウドマッシュルームと表示された。
雲の水分と美食物質を吸って育つきのこらしい。
匂いはかなり良い。
「よし」
俺はデッドフォースマンティスとクラウドマッシュルームを抱え、ブラウスたちの元へ戻った。
クラウドテーブルへ戻ると、ガウンがすぐに気づいた。
「おー! Dの猛獣倒したか!」
ブラウスが目を丸くする。
「デッドフォースマンティス……! かなり良い食材です!」
「ブラウス、早速調理や!」
「はい!」
ブラウスはすぐに動いた。
疲れていたはずなのに、食材を前にすると目が変わる。
響金包丁ハルシアを取り出し、デッドフォースマンティスの外骨格を確認する。
鎌。
腕。
胴体。
腹部。
節ごとに包丁を入れる位置を見極めていく。
俺にはただ硬いだけに見える外殻を、ブラウスは迷いなく切り開いていった。
「この鎌の内側、身が詰まってますね。焼きに向いています。胴体は少し癖があるので、クラウドマッシュルームと一緒に蒸しましょう」
「おお、ええ判断や」
ガウンが満足そうに頷く。
ブラウスはてきぱきと調理を進めていく。
外殻を割り、身を取り出し、筋を外し、火を入れる。
クラウドマッシュルームを薄く切り、デッドフォースマンティスの身と合わせる。
やがて、香りが立ち始めた。
香ばしい。
甲殻類に近い匂い。
そこにクラウドマッシュルームのふわっとした香りが混ざる。
俺の腹が鳴った。
戦った後だから余計にうまそうだ。
「アマジン、どや? 自信ついたか?」
「Dはもっと強いと思ってた」
「せやろな。ゴッドにビビりすぎやったって事や。もっと自分の強さを信じてもええ。さ、飯や!」
「いただきます!」
ガウンは俺がDというランクを恐れすぎていた事を見抜いていた。
それを克服するきっかけをくれた。
ゴッドイコール地球最強生物という頭がどうしてもあった。
でも今は違う。
倒せる。ゴッドだってきっと。
・・・
・・
・
デッドフォースマンティスの鎌肉を食べている途中、ガウンがふと口を開いた。
「アマジン」
「はい?」
「メリスタ所長に伝えたグリドの情報、ちょいちょいフェイク入れとったやろ」
俺は肉を噛む手を止めた。
ブラウスも、調理道具を片付けながらこちらを見る。
「……やっぱり分かるよな」
「もろバレや」
ガウンは当然のように言った。
「メリスタ所長にも、もちろんバレとる」
「う……」
やっぱりか。
いや、分かっていた。
あの人の目を見て、完全に誤魔化せるとは思っていなかった。
グリドと出会った場所。
セーフゾーンのこと。
修行の内容。
旅立つと言っていたこと。
俺は大事な部分を話しながらも、少しずつぼかした。
とぼけたりもした。
全部を正直に話していいのか分からなかったからだ。
グリドのことを守りたかったからだ。
「やけどな」
ガウンは鎌肉を豪快に噛み切った。
「同時に、めちゃくちゃ伝わったことがある」
「……」
「お前が、そのグリドってやつを大事にしとるってことや」
俺は何も言えなかった。
ガウンは続ける。
「だから、それ以上追及せんかったんやろ。メリスタ所長もな」
「……少しだけ迷ったんだ」
俺は正直に言った。
「グリーントロルってバレたら……グリドは殺されてしまうと思った」
エアビオトープで見たグリーントロル。
人を喰った化け物。
あれと同じ種族だと知られたら、グリドも同じように扱われるかもしれない。
捕まえられるかもしれない。
殺されるかもしれない。
研究材料にされるかもしれない。
そんなことを考えた。
だから、全部は言えなかった。
「グリドに色々教えてもらったんだ」
俺は小さく続ける。
「強さも、大事なことも」
猿武のこと。
技の使い方。
恐怖も食材だということ。
自分の食欲は自分のものだということ。
はむまるのこと。
九百年ぶりの食卓。
あの時の、グリドの笑顔。
「俺にとって……大事な人なんだ」
言ってから、少し不思議な気持ちになった。
人。
グリーントロルを人と呼んでいいのかは分からない。
でも、俺にとってグリドはただの猛獣でも、ただの外宇宙生物でもなかった。
師匠だった。
飯を一緒に食べた相手だった。
大事な存在だった。
ガウンはしばらく黙って俺を見ていた。
それから、少しだけ表情を緩めた。
「その気持ち、大事にせえ」
「え?」
「お前は、見た目とか匂いとかに囚われん」
ガウンはそう言った。
「それは素晴らしいことや」
俺は目を瞬かせた。
ガウンは続ける。
「美食屋は、食材を見る。匂いを見る。気配を見る。危険かどうかも判断する。せやけどな、それだけで全部決めたらあかん時もある」
ガウンの視線が、少し遠くなる。
「悪魔みたいな匂いがしても、悪魔とは限らん。猛獣みたいな見た目でも、ただ腹を空かせとるだけかもしれん。人間みたいな顔しとっても、ろくでもない奴は山ほどおる」
「……」
「お前は、そのグリドってやつと飯を食ったんやろ」
「うん」
「なら、その食卓で感じたもんを信じろ」
ガウンはそう言って、俺の肩を叩いた。
相変わらず痛い。
「その気持ちは大事にせえ」
「……うん」
俺は頷いた。
グリドを守りたかった。
あの場で、それが正しかったのかはまだ分からない。
でも、少なくともガウンは否定しなかった。
それだけで、少しだけ胸の奥が軽くなった。
ブラウスが静かに言う。
「僕も、アマジンさんがそう言うなら……そのグリドさんに会ってみたいです」
「ブラウス……」
「だって、アマジンさんにそこまで言わせる相手ですから」
俺は少し笑った。
「うん。いつか会わせたい」
グリドはもう、あのセーフゾーンにはいないかもしれない。
どこへ向かったのかも分からない。
それでも、また会える気がした。
いや、会いたいと思った。
その時は、ブラウスの料理を食べさせたい。
はむまるも一緒に。
そして、もう一度言いたい。
ごちそうさまでした、と。