クラウドテーブルを出て、さらに奥へ進む。
そこから先は、明らかに空気が変わった。
今までは、ガウンの気配を恐れて猛獣が姿を見せなかった。
だが奥へ行くにつれ、猛獣は普通に出現するようになってきた。
雲の壁から飛び出してくる鳥型の猛獣。
足元の雲の中から口を開く魚のような猛獣。
雲草に擬態した蛇。
白い翼を持った猿。
グルメデバシーで確認すると、強さはすべてDだった。
普通なら、ひとつの遭遇だけで命がけになる相手。
だが、その処理はすべて俺に任せられた。
「アマジン、右や」
ガウンの声が飛ぶ。
俺は雲蛇の牙を番重で受け、キッチンハサミで胴体を挟み斬る。
「次、上」
「見えてる!」
雲の中から降ってきた鳥型猛獣を、小さな番重を足場にして避ける。
そのまま羽の根元に食欲エネルギーの刃を飛ばし、体勢を崩したところへ番重を叩き込む。
倒せる。
Dの猛獣でも、倒せる。
もちろん簡単ではない。
一撃一撃が重い。
気を抜けばすぐに腕を持っていかれる。
だが、グリドとの修行で体に染み込んだ感覚がある。
攻撃を受ける場所だけグルメスモックが強くなる。
体勢が崩れそうになる前に、細胞が勝手に重心を戻す。
見える。
動きの筋が。
相手の食欲が、どこへ伸びようとしているのかが。
まだ猿武を完全に使えているわけではない。
だが、基礎は確かに俺の中にある。
道中では、複数の道に分かれることもあった。
右と左。
上へ伸びる道。
下へ沈むような道。
見た目はどれも同じ雲道だ。
俺には違いが分からない。
だが、そこでガウンはあえて答えを言わなかった。
「ブラウス、どっちや」
「……左です。右は美食物質の流れが薄いです」
「正解や」
ブラウスが道を選ぶ。
調理人としての感覚。
食材を見る目。
美食物質の流れを読む力。
ブラウスはそれを使って、正しい道を見極めていた。
ガウンは俺たちの成長の手助けをしてくれている。
俺には戦わせる。
ブラウスには道を読ませる。
ガウン自身はただ助言をするだけだった。
それなのに、安心感がすごい。
もし本当に危険なら、ガウンが一瞬で動く。
そう分かっているから、俺たちは挑戦できていた。
最上位ライセンス美食屋。
そして父親。
ブラウスが少し窮屈そうにしていた理由も分かる。
この人の近くにいたら、守られすぎる。
そして、期待されすぎる。
でも、今の俺にはありがたかった。
「もうじきアトムがマグマだまりのように溜まっている場所につく」
ガウンが前を見ながら言った。
「その手前が最後のフロアや」
「最後のフロア……」
「百進の穴」
ガウンの声が少し低くなった。
「通路が百本伸びており、正解の道はただ一つ」
「百本……」
ブラウスが息を呑む。
「外せば?」
「雲に飲まれる。運が良ければ戻れる。悪ければそのまま終わりや」
やっぱり怖い。
アトムは本当に、道そのものが試練だ。
だが、ガウンは途中で言葉を止めた。
「だが……」
視線の先。
白い空間が開けた。
巨大な円形の場所。
その周囲から、無数の通路が伸びている。
百進の穴。
その中心に、いた。
一体。
奴が。
「やっぱおるか」
ガウンが鼻を鳴らした。
「気配は感じ取ったがな」
緑色の体。
異様に長い四肢。
人の形に近いが、人ではない。
顔には飢えが張りついている。
ただ立っているだけで、周囲の雲が濁って見える。
グリーントロル。
やはりグリドとは全く様子が違う。
グリドは同じ姿でも、どこか人間臭さがあった。
よく喋り、よく笑い、料理を作り、はむまるに甘かった。
だが、目の前のこいつからはそれを感じない。
ただ、食う。
奪う。
支配する。
そんな気配だけがある。
それでも、一度目に見た時ほどの恐怖は感じなかった。
ガウンが横にいてくれるからだろう。
だが――。
絶対に勝てない。
それも分かる。
グリドと同じ硬さ、強さなら、俺ではどうにもならない。
Dの猛獣を倒せるようになった。
それは事実だ。
でも、あれは別物だ。
捕獲レベル1000・B。
今の俺が届く相手ではない。
「こいつはさすがにオレがやるわ」
ガウンが一歩前に出た。
その背中が、急に大きく見えた。
グリーントロルの目が動く。
「おまえが先にしぬノカ……?」
耳障りな声。
言葉は通じる。
だが、そこに会話の意思は薄い。
ただ、目の前の獲物を順番に食うだけ。
そんな声だった。
「アマジン」
ガウンが言った。
「お前が一流の美食屋目指すなら、避けて通れん技を見せたる。よう見とけ」
ガウンの食欲エネルギーが高まる。
空気が重くなった。
いや、逆だ。
空気が動き始めた。
周囲の雲がざわめく。
足元の雲道が震える。
ガウンの背後に、何かが立ち上がる。
山。
風。
香。
供物。
そして、巨大な天狗の影。
背中に羽を持ち、長い鼻を持つ、古い悪魔の影。
俺は息を呑んだ。
「悪魔共食――」
ガウンの声が響く。
「山神供宴(さんじんくえん)!!」
恐ろしいほどのエネルギーが、ガウンに集まった。
立っているのがやっとだった。
ブラウスも必死に踏ん張っている。
ガウンのスーツが風で揺れる。
そして、いつの間にかその手には、天狗羽団扇(てんぐはうちわ)が握られていた。
黒く、深く、ところどころ赤い模様が走る羽団扇。
ただの道具ではない。
そこにあるだけで、周囲の空気が従っているように見えた。
グリーントロルが危険を察知した。
すぐに襲い掛かる。
速い。
見えないほどではない。
でも、俺では反応しきれない。
その爪がガウンの首を狙う。
だが、当たらない。
ガウンはほんの少し体を傾けただけだった。
次の爪。
蹴り。
噛みつき。
すべて外れる。
一切、攻撃が当たらない。
それどころか、当たる気配すら感じない。
グリーントロルの攻撃が、ガウンに近づく前に風に流されていく。
「天狗羽団扇・香風読みや」
ガウンが言った。
声は落ち着いている。
「敵の食欲、殺気、体調、隠れた食材の匂いを読む索敵技や」
香風読み。
匂いで読む。
食欲で読む。
殺気で読む。
だから、攻撃が来る前から分かる。
グリーントロルがどこを食おうとしているのか。
どこを壊そうとしているのか。
どこに力が集まっているのか。
全部、匂いで読んでいる。
グリーントロルが唸り声を上げた。
攻撃がさらに荒くなる。
だが、荒くなればなるほど当たらない。
「天狗羽団扇――」
ガウンが羽団扇を振り上げる。
「山颪(やまおろし)!」
突風が走った。
いや、突風という言葉では足りない。
山そのものが息を吐いたような風だった。
グリーントロルの体が吹き飛ぶ。
「グガ……!」
硬い体が雲の壁に叩きつけられた。
だが、まだ生きている。
さすがに硬い。
グリドと同じ種族。
支配されているとはいえ、その肉体の強さは本物だ。
「形は残しといた方がええな」
ガウンがぼそりと言った。
検体。
メリスタ所長が必要としているもの。
丸ごと消し飛ばしては意味がない。
ガウンは羽団扇を軽く回した。
風が鳴る。
そして、雲の中に細い光が走った。
雷。
「天狗羽団扇――」
ガウンの声が静かに響く。
「雷颪(かみなりおろし)」
風に帯電を乗せて雷を落とす。
その説明を聞く前に、結果は出ていた。
一瞬だった。
雷が落ちた。
グリーントロルの体が硬直する。
緑の外皮が黒く焦げる。
煙が上がる。
そして、そのまま崩れ落ちた。
絶命していた。
「ちとやりすぎたか?」
ガウンは軽く首を傾げた。
軽い。
あまりにも軽い。
あのグリーントロルを、まるで少し面倒な猛獣を処理したかのように倒した。
ガウンは羽団扇を下ろす。
背後の天狗山の悪魔の影が、ゆっくりと薄れていく。
周囲の空気が元に戻った。
ガウンも元の状態へ戻る。
だが、俺の心臓はまだ激しく鳴っていた。
「い、今のは……」
俺はようやく声を出した。
「悪魔共食」
ガウンが答えた。
「グルメ細胞の悪魔に何かを差し出し、一時的に爆発的なパワーを得る」
「すごい……」
ブラウスも呆然としている。
「ガウンさん、グルメ細胞の悪魔が宿ってるんだ」
そう言うと、ガウンは首を横に振った。
「いや、宿ってるわけやない」
「え?」
「一人に対して一人の悪魔が宿る。とてつもない才能や。そんなやつ、オレはこの目で見たことない。知識としてしかしらん」
「そうなんですか?」
「そうや。大半は違う」
ガウンは倒れたグリーントロルへ歩きながら言った。
「オレは代々天狗族を見守ってくれてる、天狗山のグルメ細胞の悪魔と契約しとるんや」
「契約……そんな形もあるのか」
「大半がそれや」
ガウンはグリーントロルの焦げた体を確認する。
形は残っている。
確かに、検体としては十分かもしれない。
「友好的なグルメ細胞の悪魔もおるからな」
「友好的……」
「まぁ、友好的いうても、それなりのもんは差し出さなあかんけどな」
その言い方が、少し引っかかった。
差し出す。
食わせる。
悪魔共食。
ガウンは何かを差し出している。
「今、何か差し出したのか?」
「香りや」
「え?」
「オレらの悪魔は、実際の料理を食べへん」
ガウンは自分の鼻を軽く叩いた。
「料理から立ち上る香り、湯気、供物としての気配を食う」
香りを食う悪魔。
天狗山のグルメ細胞の悪魔。
山に捧げられた供物の香りを喰い、力を貸す存在。
「オレは今ので三日くらいは嗅覚を失う」
「三日……」
「オレの吸った匂いは全部食われるんや」
俺は言葉を失った。
嗅覚。
匂い。
それは食事にとって、とても大事なものだ。
「匂いを感じないって……飯の味がしないじゃないか」
「せや」
ガウンは笑った。
だが、その笑いは少しだけ苦かった。
「今から最悪の三日間の始まりや」
ガウンほどの食い手にとって、三日間匂いがしないというのはどれほどの苦痛なのだろう。
味が半分消える。
料理の香りが分からない。
ブラウスの料理の香りも感じられない。
それを代償に、あの力を得る。
悪魔共食。
すごい技だ。
だが、怖い技でもある。
「二人とも」
ガウンはグリーントロルの体を担ぎ上げた。
「オレはこいつ持って先帰る」
「え?」
「進むべき道も分かるやろ、ブラウス」
ブラウスは少し緊張した顔で頷いた。
「はい。百進の穴の正しい道は、もう見えています」
「なら行け」
「一緒にアトムを飲まないのか?」
俺が聞くと、ガウンは呆れた顔をした。
「あほか! 味せえへんもん飲んでもしゃーないわ」
「あ……」
確かに。
嗅覚がない状態でアトムを飲んでも、味は分からない。
地球のフルコースをそんな状態で飲むなど、ガウンにとってはありえないのだろう。
「それに、こいつを早くメリスタに渡した方がええ」
ガウンは背を向けた。
「お前らは飲んでこい。ブラウス、アマジンをちゃんと見とけよ」
「はい!」
「アマジン」
「はい」
「悪魔共食を見て、何を思うかはお前次第や。けど、力だけ見るな」
「……分かりました」
「ほな、先戻るわ」
そう言って、ガウンはグリーントロルの検体を担ぎ、来た道を戻っていった。
その背中は、さっきまでより少しだけ静かに見えた。
悪魔共食。
すごい技だ。
だが、怖い技でもある。
ガウンは香りを差し出したと言った。
天狗山の悪魔に、料理の香りと湯気を食わせるのだと。
そして、三日間は嗅覚を失う。
なら、他の悪魔共食も同じなのだろうか。
力を得るために、何かを食わせる。
何かを失う。
それが、この技の本質なのか。
メリスタ所長も、さっきガウンと話していた時、何かを知っているようだった。
ガウンも「お前らのと違って」と言っていた。
つまり、メリスタ所長にも似た力があるのかもしれない。
だが、俺はまだそれを見ていない。
何を差し出すのかも知らない。
だからこそ、余計に気になる。
悪魔共食。
名前だけを聞けば、ともに飯を食うことのようにも思える。
でも、今見たものは違った。
悪魔に何かを差し出し、力を借りる。
それは本当に、共に食うという関係なのか。
それとも――ただ、こちらが食われているだけなのか。
俺が美食屋になるなら。
いや、それ以上に。
俺がこれからグルメ細胞の悪魔と関わるなら。
この技について、知る必要がある。
「行きましょう、アマジンさん!」
ブラウスの声で、俺は顔を上げた。
「あの先にあります!」
百進の穴。
百本の通路。
そのうち正しい道は一つ。
ブラウスが指差した先に、微かな美食物質の光が見えた。
「分かった」
俺は頷いた。
ガウンはいない。
ここから先は、俺とブラウスだけだ。
それでも不思議と怖くはなかった。
俺たちは二人で進み始めた。
雲の奥。
クラウドマウンテンの深部。
マグマだまりのように溜まる、三つ目の一皿。
アトムへ向かって。
次回 捕獲レベルの間話です!