ブラウスが選んだ道を進む。
百進の穴。
百本ある通路のうち、正しい道は一つ。
その正解を、ブラウスは迷わず選んだ。
最初はただの雲道にしか見えなかった。
だが、進むにつれて少しずつ景色が変わっていく。
白かった雲が、徐々に紫へ変色していった。
綺麗な紫ではない。
毒々しい色だ。
雲の表面に、ぬめるような光沢が浮かび始める。
空気の匂いも変わった。
甘い。
苦い。
焦げたような匂い。
そして、喉の奥を刺すような刺激。
明らかに普通ではない。
「アマジンさん」
ブラウスが足を止めた。
「これ以上は、防毒なしには進めません」
「分かった」
俺は頷き、ブラウスの前に立った。
そして、ブラウスの口元に手を当てる。
「少しじっとしてて」
「はい」
俺は食欲エネルギーを流した。
白いグルメスモック。
それをブラウスの体にまとわせる。
今回は口元と鼻を重点的に覆う。
給食マスクのような形。
ただし、ただの布ではない。
毒を弾き、空気を浄化し、必要な呼吸だけを通す。
ブラウスの顔に、白いマスクがすっと装着された。
「すごいです」
ブラウスが目を丸くする。
「この浄化力」
「だろ?」
俺は少し得意になった。
「以前よりもしっかり防ぐようになってるぜ」
グリドとの修行で、グルメスモックはかなり変わった。
もともと防御だけなら完成度が高いと言われた技だ。
だが今は、ただ全身を覆うだけではない。
必要な場所へ、必要な強度で、必要な性質を持たせる。
毒なら毒を防ぐ。
衝撃なら衝撃を防ぐ。
汚れなら汚れを弾く。
俺の食欲エネルギーで作った服なのに、どんどん本物の装備みたいになっていく。
いや、ある意味では本物以上かもしれない。
俺たちはそのまま進んだ。
紫の雲道。
毒の空気。
足元の雲が少しずつ重たくなる。
まるで雲が水を吸いすぎた布のように沈む。
奥へ行くにつれ、音が聞こえてきた。
どろり。
どろり。
何か粘ついたものが流れる音。
そして、視界が開けた。
「あった……」
上から、黒い液体が落ちていた。
真っ黒だ。
ただ黒いだけではない。
紫。
赤。
緑。
青。
液体の中に、いくつもの毒々しい光が混ざっている。
それが上からどろどろと流れ落ち、巨大なマグマだまりのように溜まっていた。
そして、さらに下へ落ちていく。
どこかへ続く黒い滝。
「ここから猛毒の滝につながっているのかもしれないな」
俺は呟いた。
この毒の流れが、どこかで地上へ、あるいは別の区域へ落ちていく。
そんな想像をしてしまう。
「アマジンさん」
ブラウスが静かに言った。
「あれがアトムです」
「あれが……?」
俺は改めて黒い液体を見た。
正直、食材には見えない。
猛毒の溶岩。
そう表現するのが一番近い。
「あれ、猛毒の溶岩って感じだな」
「まあ、あながち間違っていませんよ」
ブラウスは苦笑した。
「これは調理が非常に難しいです……そのまま飲んだら流石に死んでしまいますね」
「……だよな」
見た目だけで分かる。
絶対に飲んではいけない。
喉どころか、胃も腸も溶ける気がする。
いや、グルメ細胞ごと変なものにされそうだ。
「液体から猛毒を抜くのか? どうやるんだ……」
エアはブラウスの調理で空気を食べられる形にした。
ペアは専用コップで安全に飲めるよう管理されていた。
ではアトムは?
この毒の塊を、どう食べ物にするのか。
想像もつかない。
だが、ブラウスは少しだけ得意そうに言った。
「でも、それは昔の話です」
「え?」
ブラウスは背負っていた道具を下ろした。
そして、手際よく組み立てていく。
折りたたまれた筒。
透明な管。
金属の枠。
何枚もの薄い板。
小さなポンプのようなもの。
あっという間に、それは大型のろ過機のような装置になった。
装置の中央には、何百層ものフィルターのようなものが重なっている。
それぞれのフィルターが微妙に色も厚さも違う。
白。
銀。
薄青。
淡い金。
見ているだけで高級そうだ。
「え、これでろ過できるのか?」
「ええ。ほとんどできます」
「ほとんど」
「ろ過後に多少の調整は必要ですが、それは僕ができます」
「頼もしい……」
本当に頼もしい。
今更ながら思う。
俺一人で来たら、危険そうと思いつつも、そのまま飲んで死んでいたかもしれない。
いや、さすがに見た目で飲むのは躊躇したと思う。
でも、調理方法が分からなければどうにもならない。
アトムに辿り着いても、食べられない。
捕獲と実食は違う。
食材を食べ物にするのは、料理人だ。
やっぱりブラウスがいてくれてよかった。
「アマジンさん、これに汲んでください」
ブラウスが専用の容器を渡してきた。
分厚い透明素材でできた器だ。
ただの容器ではない。
表面に細かい紋様が走っており、毒や熱に強そうな加工がされている。
「分かった」
俺は容器を受け取り、アトムへ近づいた。
黒い液体へ一歩近づく。
その瞬間。
じゅっ。
変な音がした。
「まじか……!」
俺のグルメスモックが、すぐに変色した。
白かった生地が紫に染まり、端からぼろぼろと崩れていく。
毒が強すぎる。
直接触れてもいないのに、周囲の空気だけで食欲エネルギーが削られている。
俺は慌てて着替え直した。
グルメスモックを脱ぎ捨てるように解除し、新しいものをまとわせる。
さらに近づく。
また変色する。
もう一度着替える。
容器を黒い液体に近づける。
熱い。
いや、毒い。
熱さというより、存在そのものが体に悪い。
容器でアトムをすくう。
どろりと重い液体が入った。
すぐに戻る。
途中でまたグルメスモックが崩れた。
三回目の着替え。
ようやくブラウスの元へ戻る。
「とんでもない毒だな……」
俺は息を吐いた。
グルメスモックがなければ近づくだけで危なかった。
いや、グルメスモックがあっても危なかった。
昔の美食屋は、これをどうやって飲んだのだろう。
本当に意味が分からない。
「ありがとうございます」
ブラウスは容器を受け取った。
「では早速、ろ過していきます」
ブラウスはてきぱきと作業を始めた。
アトムを装置の上部へ流し込む。
黒い液体が何百層ものフィルターを通っていく。
一層目で紫が抜ける。
二十層目あたりで赤が消える。
五十層目で粘り気が変わる。
百層を越える頃には、黒い液体の中に金色の光が見え始めた。
何層も何層も通り抜けるたび、毒の色が抜けていく。
しかし、完全に消えるわけではない。
最後に残る複雑な色。
それをブラウスは小さな器具で調整していく。
温度。
濃度。
香り。
美食物質の流れ。
俺には何をしているのかほとんど分からない。
だが、ブラウスの手つきに迷いはなかった。
響金包丁ハルシアも少しだけ使っていた。
液体なのに包丁を使うのかと思ったが、ブラウスは液面を軽く撫でるように刃を通し、余計な毒の筋を切り離しているようだった。
やがて。
「できました!」
ブラウスが顔を上げた。
器には、アトムのスープが盛られていた。
色は高級ワインに近い。
深い赤。
しかし、ただの赤ではない。
スープが揺れるたび、複雑な模様が顔を出す。
金色の線。
紫の影。
青い輪。
星雲のような模様が、液面の中でゆっくりと動いていた。
さっきまで猛毒の溶岩にしか見えなかったものが、今は美しいスープになっている。
料理ってすごい。
いや、ブラウスがすごい。
「いただきます」
俺とブラウスは手を合わせた。
そして、アトムのスープを口に運ぶ。
その瞬間。
頭が、今までにないほどすっきりした。
「……!」
目が開く。
脳の奥まで光が通ったような感覚。
眠気も疲労も、頭の中の濁りも、一気に吹き飛んだ。
カフェインを取った時の高揚感。
その何倍もだ。
思考が速くなる。
視界が広がる。
耳が澄む。
体の中の細胞が、一斉に目を覚ますような感覚。
これは、まずいのではないか?
麻薬食材なのか?
一瞬そう思った。
だが、その感覚はすぐにすっと収まった。
高揚感だけが過剰に膨らむわけではない。
頭が冴え渡る感覚はそのままに、心は落ち着いていく。
熱く、冷静。
矛盾した状態。
でも、気持ち悪くはない。
むしろ、体が本来の状態に整えられたような感覚だった。
「アマジンさん……」
ブラウスが周囲を見ている。
「すごいです。周囲の景色が」
俺も顔を上げた。
さっきまで、雲しか見えなかった場所。
白と紫の毒雲しかなかった空間。
そこに、きらめく線が見えた。
無数の細い光。
金色。
銀色。
青白い光。
それらが複雑に絡み合い、雲の中を走っている。
線はただ光っているだけではない。
流れている。
呼吸している。
そして、道を示している。
「これが美食物質……!」
俺は思わず呟いた。
美しい。
ただ綺麗というだけではない。
食材の流れ。
道の正解。
雲の中に隠れた危険。
それらが、線として見える。
アトムを飲むことで、美食物質を視認できるようになる。
ガウンが言っていたことの意味が、ようやく分かった。
「綺麗ですね……」
ブラウスが静かに言った。
「これなら問題なく帰れそうです」
「ああ」
帰り道の不安が一気に消えた。
正しい道が見える。
雲の罠も、毒の流れも、薄くではあるが分かる。
アトム。
すごい食材だ。
頭を冴えさせ、美食物質の道を見せる。
これを飲んだ昔の美食屋は、世界の見え方が変わっただろう。
俺は器の中のスープを見た。
まだ少し残っている。
そして、上を見ればアトムは大量に流れている。
「なぁ」
「はい」
「アトムは別に制限されてないし……もうちょっと飲んでいこうぜ。いっぱいあるし」
ブラウスは少しだけ考えた。
そして、笑った。
「そうですね」
珍しく即答だった。
やはりブラウスも気に入ったらしい。
俺たちはもう一度、アトムを汲み、ろ過し、調整した。
もちろん、グルメスモックはまた何度も着替えることになった。
それでもいい。
目の前にあるのは、地球のフルコース。
三つ目の一皿。
アトム。
俺たちは雲の奥で、もうしばらくアトムのスープを堪能することにした。
アトムは資料が少ない為、独自設定マシマシとなっております!
また、誤字報告もありがとうございます!
助かっております。