しばらくアトムを堪能した後、俺たちは来た道を戻った。
帰り道は、行きよりもずっと楽だった。
理由は単純。
見えるのだ。
さっきまでは、ただの白い雲の道だった。
正しい道も、危険な道も、見た目ではほとんど分からなかった。
だが、アトムを飲んだ後は違う。
雲の中に、きらめく線が見える。
金色、銀色、青白い光。
それらが複雑に絡み合いながら、進むべき道を示してくれる。
これが美食物質。
アトムは本当にすごい。
あれを飲んだ後に勉強や修行をすれば、めちゃくちゃ頭に入りそうだ。
体も冴える。
視界も冴える。
思考も冴える。
コーヒー感覚で飲みたい。
朝起きて一杯。
勉強前に一杯。
修行前に一杯。
いや、さすがに危険か。
見た目は高級ワインになっていたが、元はあの猛毒の溶岩である。
飲みすぎたら絶対に何かある。
たぶん。
でも、うまかった。
水筒型のグルメケースには、ブラウスが調理済みのアトムを少し入れてくれている。
さすがに大量には無理だったが、何杯か分はある。
問題は、これを持ち帰れるかどうかだ。
受付に止められるだろうか。
ペアは持ち帰り禁止だった。
アトムはどうなんだろう。
特別な制限は聞いていない。
でも、地球のフルコースである。
普通に考えれば、持ち出し検査くらいはあるはずだ。
「止められたらどうしよう……」
「その時は研究所の判断に従うしかありませんね」
ブラウスが言った。
現実的だ。
だが、その顔には少し名残惜しさもあった。
ブラウスもアトムが気に入ったらしい。
俺たちは百進の穴を抜け、クラウドテーブルを通り、雲道を戻った。
アトムを飲んだ効果で、帰りは本当に迷わなかった。
行きはガウンの後ろについていくだけだった道も、今ならなんとなく分かる。
美食物質の流れが、正しい道を示している。
これなら、確かにガウンが先に戻っても問題ない。
やがて、危険区域の出口が見えてきた。
「あ、二人とも。おかえり」
管理員らしき人が、俺たちに気づいて声をかけた。
「ガウンさんは先に研究所に戻ってるよ。君たちも急ぎなさい」
「あ、はい」
そう言われ、俺たちはそのまま通された。
チェックも何もなかった。
スキャンもない。
荷物確認もない。
グルメケースの中身についても聞かれない。
あれ。
拍子抜けだ。
「……出る時にいつもされた厳重なチェックがなかったね」
俺は思わず呟いた。
「そうですね」
ブラウスも少し不思議そうにしている。
「僕たちは挑戦者ではなく、調査員みたいな形で入っているからですかね」
「立場が変わったってわけか」
なるほど。
エアやペアの時は、地球のフルコースに挑む挑戦者として入った。
だから食歴確認、持ち出し確認、摂取量確認などが厳しかった。
でも今回は違う。
メリスタ所長の許可を受け、ガウン同行のもとでアトムビオトープへ入った。
目的は、グリーントロルの反応確認と検体確保。
俺たちは挑戦者ではなく、調査協力者。
そういう扱いなのだろう。
なんだか不思議な気分だ。
まだ学生なのに。
いや、今の俺はもう、ただの学生ではないのかもしれない。
研究所へ戻ると、ガウンとメリスタ所長が待っていた。
応接室ではなく、今度は少し広めの会議室のような場所だった。
部屋の端には、グリーントロルの検体らしきものが専用ケースに収められている。
厳重に封じられ、研究員たちが忙しそうに動いていた。
「おう、待ってたで」
ガウンがこちらを見た。
いつもの豪快な声だ。
ただし、どこか機嫌が悪そうにも見える。
たぶん匂いがしないからだ。
今から三日間、嗅覚なし。
本人が言っていた通り、最悪の三日間なのだろう。
「無事に帰ってきたか」
メリスタ所長が言った。
「ガウンが一人で帰ってきた時は、少し驚いたぞ」
「だから言うたやろ。無事に帰ってきたんや」
ガウンは腕を組む。
「さっきの話、ええやろ?」
「そうだな」
メリスタ所長は頷いた。
何かの話が進んでいたらしい。
「えっと、何の話ですか?」
ブラウスが聞くと、メリスタ所長がこちらを見る。
「地球のフルコースのビオトープは、現在すべて閉鎖中だ」
「はい」
「だが、君たちは調査員としての入場を許可する」
「本当か!」
「ええ!?」
俺とブラウスの反応は、かなり違った。
俺は思わず身を乗り出した。
ブラウスは反射的に一歩引いた。
分かる。
俺にとっては大チャンスだ。
ブラウスにとっては、また危険地帯へ放り込まれる宣告に近い。
「アナザ、ニュース、アース、ゴッド」
ガウンが指を折る。
「そんで最後の難関……センターや」
残り五つ。
地球のフルコース。
エア、ペア、アトムまでは食べた。
次に向かうのは、アナザかニュースかアースかゴッド。
そして最後にセンター。
原作を知っている俺からすれば、どれもとんでもない食材だ。
特にセンター。
あれは最後の難関と言われても納得しかない。
「よかった! ありがとう、ガウン!」
「礼はメリスタに言え。許可出すのはこっちや」
「あ、ありがとうございます、メリスタ所長!」
俺は慌てて頭を下げた。
メリスタ所長は静かに頷く。
「ただし、条件がある」
「条件?」
「フルコースを食いながら、グリーントロルの痕跡があったら報告や」
ガウンが代わりに言った。
「今までの感じでいうと、もう遭遇することはないやろうけどな」
「そうなの?」
「ああ」
メリスタ所長が答える。
「すべてのビオトープに、すでに一回は現れている。今のところ二回目はない」
「全部に……」
俺は少し息を呑んだ。
エアに現れた。
ペアにも、グリドとは別に、あいつらの影があった。
アトムにもいた。
そして残りのビオトープにも、すでに一度は現れている。
地球のフルコースを巡っているのか。
何かを探しているのか。
あるいは、確認しているのか。
分からない。
だが、偶然ではない。
「なるほど……」
俺は頷いた。
調査員として入場できるのはありがたい。
フルコースを食べられる。
そのうえ、グリーントロルの痕跡があれば報告する。
俺にとっては、目的が一致している。
美食屋を目指すこと。
そして、グリドに関わる何かを知ること。
どちらも進められる。
「ブラウス!」
ガウンが急に声を張った。
「はい!」
「アマジンを助けたってくれや。一緒に行って分かるやろ?」
「……はい」
「アトム一人で行ったら、そのまま飲んで死んどるで、こいつ」
「いや!」
俺は反論しようとした。
だが、言葉が詰まる。
あの黒い猛毒の溶岩。
ブラウスのろ過装置。
何百層ものフィルター。
最後の調整。
俺一人だったらどうしただろうか。
さすがにそのまま飲む前に危険だとは気づいたと思う。
思うが。
「完全には否定できない……」
「ほら見い」
ガウンが呆れた顔をした。
ブラウスはため息をついた。
「そうですね。行きたくはないですけど……アマジンさんを一人で行かす方が心配です」
「ブラウス、一緒に行ってくれるのか!」
「しょうがないですね」
ブラウスは少し困ったように笑った。
「ちゃんとグルメスモックで守ってくださいね」
「おう! 任せとけ!」
俺は胸を張った。
ブラウスがいてくれる。
これは本当に大きい。
俺は食材を捕る。
ブラウスは食材を調理する。
エアも、ペアも、アトムもそうだった。
たぶん、これからもそうなる。
俺一人では食べられないものが、ブラウスと一緒なら食べられる。
それは、美食屋と料理人のコンビとして、かなり良い関係なのかもしれない。
「おまえら」
ガウンが急に真面目な顔をした。
「なんというか、なるべく急げ」
「え?」
「目標は半年……いや、三か月で残り制覇や!!」
「ええ!?」
俺とブラウスの声が重なった。
三か月。
残り五つ。
アナザ、ニュース、アース、ゴッド、センター。
それを三か月で。
無茶だ。
いや、かなり無茶だ。
でも、ガウンは冗談で言っている顔ではない。
メリスタ所長も否定しない。
つまり、本当に急ぐ必要があるのだ。
グリーントロル。
ビオトープ閉鎖。
何かが迫っている。
俺はグリドの言葉を思い出した。
時間がない。
あいつもそう言っていた。
何かを誤魔化すように。
「もし達成できたら」
ガウンがにやりと笑った。
「オレのレストランで最高級の飯、食わしたる」
「めちゃくちゃ頑張る!!」
「反応早いですね、アマジンさん……」
ブラウスが少し引いていた。
仕方ない。
ガウンのレストランで最高級の飯。
あのジュエルミートとジュエルフィッシュの盛り合わせが普通に出てくるような店だ。
その最高級。
想像するだけで腹が鳴る。
「ブラウスもや。お前には厨房も見せたる」
「……少しだけ頑張る気が出ました」
「お前も現金やな」
「父さんに言われたくありません」
ブラウスとガウンのやり取りに、少し空気が和らいだ。
メリスタ所長は静かにそれを見ていた。
だが、その目の奥にはやはり緊張がある。
俺たちがフルコースを進める。
その裏で、研究所はグリーントロルを調べる。
たぶん、時間はあまりない。
それでも、進むしかない。
いろいろあった。
ペアから戻り、研究所に呼ばれ、アトムビオトープへ入り、グリーントロルと遭遇し、アトムを飲んだ。
そして今。
閉鎖中のビオトープに、調査員として入場できるようになった。
俺はブラウスを見た。
ブラウスもこちらを見る。
「次、どこに行きましょうか」
「そうだな……やっぱ順当にアナザだな!」
地球のフルコース。
残り五つ。
次の一皿が、すぐそこに迫っていた。