アナザビオトープへ
「久しぶりに乗りました。公共機関」
隣に座ったブラウスが、窓の外を眺めながらそんなことを言った。
「そうなのか?」
「はい。新鮮で楽しいです。いつもは自家用機か父のキャンピングモンスターに乗るので」
「そ、そうか……」
金銭感覚。
移動感覚。
やはりブラウスは俺とは違う世界の住人だった。
怪奇食天狗フーズコーポレーションの社長の息子。
最上位ライセンス美食屋の息子。
自家用機。
父のキャンピングモンスター。
普通の会話の中に、自然とそういう言葉が出てくる。
俺が公共機関に乗るのは普通だ。
むしろ、キャンピングモンスター乗り放題の特急券をもらってありがたいと思っている。
だがブラウスにとっては、公共機関の方が珍しいらしい。
世界が違う。
いや、でも今は一緒に乗っている。
それだけで少し面白い。
「きゅ」
俺の肩の上では、はむまるが小さく鳴いた。
蓄食縮身で手のひらサイズになっている。
このサイズなら本当に助かる。
大きいままだったら、そもそも乗車できたか怪しい。
いや、キャンピングモンスターなら大型ペット枠でいけたかもしれないが、手続きが面倒だったはずだ。
小さくなってくれたおかげで、全く問題なし。
「はむまる、しばらく小さいままで頼むな」
「きゅ!」
はむまるは俺の肩の上で胸を張った。
小さいと、完全に普通のハムスターに見える。
いや、頬袋のふくらみ方は少し異常だ。
また何か入れている気がする。
後で確認しよう。
俺たちはアトムビオトープを離れ、アナザビオトープを目指していた。
アナザ。
地球のフルコースの魚料理。
ブラックトライアングルを中心とした広大な海域に存在する神秘的な魚。
アナザビオトープは、そのブラックトライアングルを囲むように整備された巨大な海上・海中ビオトープだ。
大きさだけで言えば、地球のフルコースの中で一番面積が広いビオトープらしい。
そりゃそうだ。
相手は海だ。
森や山とは規模が違う。
しかもただの海ではない。
ブラックトライアングル。
原作を知っている俺からすると、名前だけでかなり怖い。
鯨王ムーン。
魂の世界。
光速を超えるアナザ。
あのあたりの話は、正直今でも理解しきれていない。
だが、現代ではビオトープ化されている。
整備されている。
管理されている。
そう聞くと安心しそうになるが、これまでの経験上、管理されていても危険なものは危険だ。
エアも危なかった。
ペアも危なかった。
アトムも、ブラウスがいなければ死んでいたかもしれない。
アナザも、油断できるわけがない。
しばらく乗り継ぎ、海上の入場ゲートへ到着した。
そこは巨大な浮島のような施設だった。
海の上に円形の管理施設が浮かび、周囲には船型のキャンピングモンスターや、海中移動用の乗り物が並んでいる。
遠くの海は、黒く見えた。
青ではない。
黒い。
深すぎる海。
底が見えない海。
光を飲み込むような海。
あれがブラックトライアングルへ続く海域なのだろう。
受付へ向かうと、担当者が端末を確認してすぐに頷いた。
「アマジンとブラウスだね。事情は聞いている。入場してくれ」
「あ、はい」
やはり話は通っているらしい。
調査員としての入場許可。
メリスタ所長とガウンのおかげだ。
通常なら閉鎖中のビオトープに入れるわけがない。
それが、今は普通に通されようとしている。
立場が変わると、手続きも変わる。
「あ、あと」
受付の人が付け加えた。
「海の中の移動になる。スリープシェルシェルターに乗り込んで行った方がいい」
「スリープシェルシェルター?」
聞き慣れない名前だった。
受付の人が指差した先を見る。
そこには、大きな貝のようなキャンピングモンスターがいた。
真珠色の殻。
丸みを帯びた形。
二人が入れるくらいのサイズ。
殻の隙間には透明な膜のようなものがあり、内部に座席が見える。
貝型の海中移動用キャンピングモンスター。
それがスリープシェルシェルターらしい。
「二人乗りのサイズだ。自らをセーフゾーンにすることができる。危険な猛獣にもばれずに移動できるから、深海へ行くなら必須だよ」
「自らをセーフゾーンに……」
それはすごい。
グリドが住んでいたセーフゾーンを思い出す。
外から見えず、グルメ細胞が興味を示しにくい場所。
それを移動用キャンピングモンスターが再現できるのか。
改めて考えるとすごい話だ。
「ガウン様から手配されています」
受付の人が言った。
「ガウンが……」
ありがたい。
ものすごくありがたい。
俺は正直、泳いでいくつもりだった。
グルメスモックで水圧や呼吸を何とかできるか試してみようと思っていた。
ペアとアトムで強くなったし、何とかなるのではないかと少し思っていた。
「俺は泳いでいくつもりだったから、すごく助かるな」
そう言った瞬間、ブラウスがこちらを勢いよく見た。
「本当についてきてよかったです」
「え?」
「ブラックトライアングルを泳ぐとか自殺行為ですから!」
「や、やっぱり……?」
「やっぱりです!」
ブラウスの声が強かった。
珍しく本気で怒っている。
「アマジンさんは、たまに自分の防御技を信じすぎです。グルメスモックがすごいのは分かりますけど、海は別です。深海、水圧、暗流、猛獣、毒、魂の世界に関わる現象。泳いでどうにかする場所じゃありません」
「はい……」
完全に正論だった。
やはりブラウスがいてよかった。
ガウンが言っていた通り、俺一人だと危ない。
アトムでそのまま飲んで死ぬまではいかなくても、ブラックトライアングルを泳いで死ぬ可能性はあった。
俺たちはさっそくスリープシェルシェルターに乗り込んだ。
内部は思ったより快適だった。
貝殻の内側は柔らかく、座席のように体を包んでくれる。
中央には操作盤があり、外の様子を映す膜状の窓がある。
水中でも視界は確保できるらしい。
操作はブラウスができると言うので、任せることにした。
「こういうのも操作できるのか?」
「父のキャンピングモンスターで似たようなのに乗ったことがあります」
「便利な経験だな……」
やはり世界が違う。
はむまるは小さいまま、俺の膝の上に乗っている。
スリープシェルシェルターの中なら、大きくなっても少しは動けそうだが、二人乗りなので無理はさせない。
「とにかく、一度深層部まで降りましょうか」
ブラウスが操作盤に触れる。
スリープシェルシェルターの殻がゆっくり閉じた。
外の音が遠くなる。
そして、海へ沈んでいく。
水面を越えた瞬間、世界が変わった。
外は青黒い海。
光が揺れ、泡が上がり、遠くで巨大な影が動く。
だが、こちらには近づいてこない。
スリープシェルシェルターがセーフゾーン化しているからだろうか。
危険な猛獣たちは、こちらを見えていないように通り過ぎていく。
アナザ。
金色に輝く神秘的な魚。
フルコースの中でもトップクラスの旨味を持つ食材。
ブラックトライアングルをはじめとする、グルメ界の全海洋に流れる旨味を絶え間なく生産している存在。
海の味。
魚の味。
潮の旨味。
それらの根源に関わる食材。
そして、鯨王ムーンが天敵だった。
ブラックホールで全てを吸い込む鯨王ムーンに襲われると、アナザは光の速度を超え、魂の世界へ逃げる。
原作で聞いた時は、本当に意味が分からなかった。
魚が光速を超えて魂の世界へ逃げる。
料理漫画の説明ではない。
宇宙物理とか食欲が混ざっている。
でも、これがトリコだ。
ただし、現在のビオトープ内に鯨王ムーンはいない。
当然だ。
あんな存在がいたら、ビオトープどころではない。
天敵がいなくなった影響か、現代のアナザは悠々と泳いでいる姿がよく見られるようになったらしい。
資料にもそう書かれていた。
だが、それで簡単に食べられるわけではない。
アナザは気に入らないものが近づけば、すぐに姿を消す。
光の速度を超えなくても、普通の美食屋が追える相手ではない。
俺たちの前には、果たして現れてくれるのだろうか。
ブラウスの料理人としての気配。
俺の食欲。
はむまるの存在。
それらがアナザにどう映るのかは分からない。
「アマジンさん」
「ん?」
「緊張していますか?」
「少し」
俺は正直に答えた。
「アナザは、他のフルコースと違って戦って倒す感じじゃない気がする」
「そうですね。少なくとも、力ずくで捕まえる食材ではありません」
「だよな」
エアは調理。
ペアは到達と実食。
アトムは毒の調理と美食物質の視認。
アナザは、たぶん出会うこと自体が試練だ。
気に入られなければ消える。
現れなければ終わり。
俺は深く息を吐いた。
スリープシェルシェルターは、静かに深海へ向かっていく。
外の光が少しずつ弱くなる。
青が濃くなり、黒が増えていく。
そして、その黒の奥に、時折金色の何かがちらりと光った気がした。
アナザなのか。
ただの海中食材なのか。
まだ分からない。
そんなことを思いながら、俺たちは深海へと向かっていった。