スリープシェルシェルターは、静かに海の中を沈んでいく。
貝殻のような殻に包まれた内部は、不思議なくらい揺れが少ない。
外の景色は、透明な膜のような窓に映し出されていた。
黒い。
ただの暗さではない。
海そのものが黒い。
光を通さない黒。
飲み込むような黒。
その中に、時折ゆらりと旨味の流れのような色が混ざる。
茶色。
深い紫。
濃い緑。
金にも見える筋。
黒一色ではない。
いくつもの味が溶け合ったような、複雑な色だ。
「複雑な色だな……」
俺は窓のような場所から外を見ながら呟いた。
ブラックトライアングル。
グルメ界で三番目に深い海。
最大水深は三万メートル。
海水自体がブラックコーヒーやイカ墨のように真っ黒に染まっている。
そして、グルメ界の海に連なる旨味の海流――旨潮の原点。
この海は、ただ黒いだけではない。
水深によって旨味が異なるらしい。
浅い層は軽い出汁のような味。
中層は濃厚な魚介スープ。
深層は煮詰めたソース。
部位によっては、そのままスープにして飲めたり、料理のソースとして使うこともできるという。
海水そのものが調味料。
海そのものが食材。
改めて考えると、とんでもない場所だ。
前世で知っていた世界の海とは、何もかも違う。
マリアナ海溝のチャレンジャー海淵で、たしか約一万九百メートル。
それでも人類にとっては想像もできないほど深い場所だった。
だが、ブラックトライアングルは三万メートル。
それよりさらに深い。
想像もできない。
いや、想像しても意味がない。
深すぎる。
暗すぎる。
黒すぎる。
「三万メートルって、水圧どれくらいなんだ……?」
「単純計算なら、約三千気圧ですね」
操作盤の前に座ったブラウスが答えた。
「三千……」
数字が大きすぎて、逆に実感がない。
ただ、危険なことだけは分かる。
もし生身で潜れば、三トンの水圧で一瞬で死ぬだろう。
いや、三トンという表現で合っているのかも分からない。
全身を巨大な手で押し潰される。
骨も内臓も、何もかも平らになる。
想像しただけで体がぞわっとした。
「このスリープシェルシェルター、すごいな」
「かなり高級な海中用キャンピングモンスターですよ。自分自身をセーフゾーン化するだけでなく、水圧調整もできますから」
「ガウン、本当に手配が早いな……」
「父はそういうところだけは早いです」
「そういうところだけ?」
「はい」
ブラウスは即答した。
父親への評価がなかなか厳しい。
スリープシェルシェルターは、基本的にフリー落下で深海へ降りていくらしい。
つまり、ブラウスもずっと操縦している必要はない。
一定の深度ごとに自動で姿勢を調整し、危険な海流を避けながら沈んでいく。
最深部まで、約十時間。
思ったより長い。
いや、三万メートルも潜るのだから当然か。
むしろ十時間で着くのがすごい。
「それまで結構暇かもしれないな」
「休んでおいた方がいいですよ」
ブラウスが言った。
「アナザに会えるかどうか分かりませんし、何が起きるかも分かりませんから」
「分かってる」
分かってはいる。
でも、じっとしていると落ち着かない。
外は黒い海。
内部は安全。
時間は十時間。
何もしないには長い。
俺は席を立ち、スリープシェルシェルターの中を探索することにした。
とはいえ、それも一瞬で終わった。
内部は意外と広いが、構造は単純だ。
二人が寝泊まりできるくらいの居住空間。
簡単な調理スペース。
小さな収納。
それと、二つの部屋。
感覚としては、2LDKに近い。
貝の中とは思えない。
グルメ時代のキャンピングモンスターは本当に何でもありだ。
そのうちの一つ、小さな部屋の前で足が止まった。
扉に文字が書かれている。
「飽和潜水のための部屋……?」
俺は首を傾げた。
扉の横には説明が表示されていた。
飽和潜水。
あらかじめ船上の特殊なカプセルの中で、数日から一週間かけて目的の深さと同じ気圧まで空気の圧力を上げ、体に慣らす。
体の中と外の圧力を同じにしてから海に出る技術。
なるほど。
前世でも聞いたことがある気がする。
ただし、飽和潜水をしたところで、せいぜい四百メートルくらいが限界だったはずだ。
それでも十分に深い。
普通の人間なら、そこまででも命がけだ。
だが、今このスリープシェルシェルターは、すでにその域を超えている。
これから向かうのは三万メートル。
水圧三千気圧。
飽和潜水の技術だけでどうにかなる世界ではない。
だが――。
「グルメスモックなら、耐えられるかもしれない」
俺は自分の手を見る。
グルメスモック。
毒を防ぐ。
衝撃を防ぐ。
水を弾く。
そして、攻撃された場所だけ自発的に強化するようになった。
アトムの猛毒にも、着替え続ければある程度耐えられた。
なら、水圧はどうだ?
深海の圧力。
全方向から押し潰す力。
それに対して、グルメスモックはどこまで耐えられるのか。
試しておく価値はある。
いや、絶対にある。
もし外に出ることになった時、いきなり三千気圧に晒されたら終わる。
ここで少しでも慣れておくべきだ。
「アマジンさん?」
ブラウスの声が聞こえた。
「何してるんですか?」
「ちょっと訓練できそうな部屋を見つけた」
「嫌な予感しかしないんですが」
「大丈夫。無茶はしない」
「アマジンさんの大丈夫は、あまり信用できません」
「ひどいな」
「アトムをそのまま飲みかけた人に言っています」
「飲みかけてない!」
完全には否定できないが、飲んではいない。
俺は小さな部屋の扉を開けた。
中はカプセルのような空間だった。
一人が入れる程度の広さ。
壁には圧力調整用らしき端末がある。
防水、防圧、防菌。
いろいろな機能が詰め込まれているようだ。
端末を見ると、水圧の設定ができるようになっていた。
表示は一から三千。
「一から三千……」
水深に合わせた圧力設定。
たぶん、一気圧から三千気圧まで調整できるという意味だろう。
普通に考えれば狂っている。
だが、ここはグルメ界の海へ向かうためのキャンピングモンスターだ。
非常時を想定しているのだろう。
まだ時間はある。
いい訓練になりそうだ。
「ブラウス」
「何ですか?」
「俺、ちょっと水圧に慣れてくる」
「やっぱりそうなりますよね……」
ブラウスがため息をついた。
「絶対に一気に上げないでくださいよ。まずは低い圧力からです」
「分かってる」
「本当に分かってますか?」
「分かってるって」
俺はカプセルの中へ入った。
はむまるが肩の上で「きゅ」と鳴く。
「はむまるは外で待ってろ」
「きゅ?」
「さすがに危ない」
はむまるをブラウスに預ける。
ブラウスは小さなはむまるを両手で受け取り、少しだけ表情を緩めた。
「かわいいですね」
「きゅ!」
「でも、アマジンさんを止める役にはなってくださいね」
「きゅ?」
「いや、それは無理だろ」
俺は苦笑しながら扉を閉めた。
カプセル内に白い光が灯る。
俺はグルメスモックを全身にまとった。
いつもの白い服。
帽子。
マスク。
そして、今回は全身を薄く圧力に対応するよう意識する。
全方向からの圧迫。
押されても潰れず、逃がさず、支える。
番重の硬さ。
スモックの柔らかさ。
その両方を混ぜる。
「まずは……十気圧くらいからか?」
端末に触れる。
設定を上げる。
カプセル内の空気が変わった。
ぐっと体が押されるような感覚。
まだ大したことはない。
だが、確かに圧がある。
俺は息を整えた。
細胞に意識を向ける。
押し潰されるのではなく、包まれる。
耐えるのではなく、受け止める。
グリドの声が頭の中に響く気がした。
怖がるな。
恐怖も食材や。
なら、水圧も食材だ。
俺はゆっくりと笑った。
「よし」
十時間。
深海へ着くまでの時間。
俺はその時間を、水圧に慣れる訓練に使うことにした。