スリープシェルシェルターは、海底を静かに進んでいく。
外は黒い。
ただ暗いだけではない。
海水そのものが黒く、重く、旨味を含んでいる。
時折、窓の外を旨潮の流れが通り過ぎる。
濃い紫。
深い茶色。
金色の細い筋。
黒い海の中に、複雑な味の層が見えるようだった。
生物の気配はほとんどない。
深海三万メートルまで来ているのだから、当たり前かもしれない。
普通の生物なら、水圧だけで一瞬で潰れる。
光もほとんど届かない。
酸素も、温度も、流れも、何もかも地上とは違う。
ここに生きている時点で、普通ではない。
それでも、まれに何かが泳いでいる。
「あれは……」
俺は窓の外に目を凝らした。
黒い海の中に、巨大な透明の影が浮かんでいた。
クラゲだ。
ただし、俺が知っているクラゲとは規模が違う。
超巨大なクラゲ。
体の中に、淡い緑色の液体がゆらゆらと満ちている。
「オリーブゼリーフィッシュですね」
ブラウスが説明する。
「体内を油で満たしている深海生物です。その油が、最高級のオリーブオイルになるらしいですよ」
「体内がオリーブオイル……」
すごい。
普通なら意味が分からないが、この世界では食材として成立している。
窓の外のオリーブゼリーフィッシュは、ゆっくりと泳いでいく。
スリープシェルシェルターがセーフゾーン化しているからか、こちらにはまったく気づいていない。
いや、気づいていても気にしていないのかもしれない。
この深海では、動きの遅いものほど長く生きていそうだ。
少し進むと、今度は別の生き物がいた。
海底をぷるぷると這う、七色に光るナマコ。
体全体が半透明で、揺れるたびに虹色の光を反射している。
「七色ゼリーナマコもいますね」
「あれも食材?」
「はい。百パーセントがゼリー質の水分でできた生物です。濃厚な果汁を使ったゼリーのような味がするらしいですよ」
「ナマコなのにゼリー……」
「はい」
「深海すごいな」
分かってはいた。
分かってはいたが、さすが深海。
基本的にぶにょぶにょの生物しかいない。
硬い骨や殻では、この水圧に耐えられないのかもしれない。
柔らかく、潰れず、流れに逆らわず、生きる。
深海には深海の生き方がある。
俺は少しだけ、自分の水圧訓練の失敗を思い出した。
二千気圧で死にかけた俺とは違う。
こいつらは、この世界で当たり前のように生きている。
食材って本当にすごい。
「見てください」
ブラウスが急に声を潜めた。
「アナザスパイラルがあります」
「アナザスパイラル?」
ブラウスが操作盤を少し動かし、外の映像を拡大する。
海底の砂が、きれいに渦巻き状に螺旋している場所があった。
黒い砂。
金色の粒。
それらが、誰かが筆で描いたように美しい渦を作っている。
ただの海流ではない。
明らかに何かが通った跡だ。
「これが探していた環境です」
ブラウスが言った。
「砂が渦巻き状に螺旋している場所。アナザが泳いだ跡だと言われています」
「アナザが……」
俺は窓に近づいた。
アナザ。
金色に輝く神秘的な魚。
ブラックトライアングルの旨味を生み出す存在。
その痕跡が、目の前にある。
それだけで少し鼓動が速くなる。
「ここでしばらく待ってみましょうか」
「そうだな」
俺たちはスリープシェルシェルターを海底のくぼみに静かに沈めた。
セーフゾーン化している貝の中で、息を潜める。
音を立てない。
余計な光を出さない。
食欲を荒立てない。
アナザが近づいてくるのを待つ。
戦うわけではない。
追いかけるわけでもない。
ただ、待つ。
これはこれでつらい。
俺は窓の外をじっと見た。
黒い海。
螺旋の砂。
時折通り過ぎる、ぶにょぶにょした深海生物。
アナザは現れない。
その日、アナザが現れることはなかった。
次の日も、俺たちは待ち続けた。
スリープシェルシェルターの中で、交代で睡眠を取り、軽く食事をし、外を監視する。
時々、はむまるが小さく鳴く。
はむまるも退屈そうだった。
そりゃそうだ。
大きくなれない。
外にも出られない。
飯も決められた分だけ。
頬袋に何かを詰める楽しみも少ない。
俺だって退屈だ。
アナザとは根気との勝負。
これはこれでつらい。
「一ヶ月くらいは待たないと駄目かもしれませんね」
ブラウスがぽつりと言った。
「そ、そんなにか……!」
「アナザは気まぐれな食材ですから。痕跡があっても、すぐに戻ってくるとは限りません」
「一ヶ月、貝の中か……」
想像すると、かなりきつい。
安全ではある。
食料もある。
水もある。
でも、黒い海底で一ヶ月待つ。
精神的に削られる。
「てか、現れたとしてもどうやって取るんだ?」
俺はふと気になって聞いた。
「この貝の捕獲アームと網で取るしかないですね」
ブラウスが操作盤の一部を指す。
画面には、スリープシェルシェルターの外部装備が表示されていた。
貝殻の隙間から伸びる捕獲アーム。
柔らかいが頑丈な網。
対象を傷つけずに包み込むための装備らしい。
「深海に身を任せるわけにはいかないしな。妥当か」
俺が外に出て泳ぐのは論外。
水圧で死ぬ。
グルメスモックで耐えられるか試した結果が両腕複雑骨折だ。
反省している。
たぶん。
「アナザが心を開けば、そのまま捕まってくれるみたいですよ」
「心を開けば……」
食材に心を開かせる。
普通なら意味が分からない。
だが、地球のフルコースならあり得る。
アナザはただの魚ではない。
旨味の根源。
魂の世界へ逃げる魚。
そんな存在なら、相手を選んでもおかしくない。
「なるほど……ブラウスがいるから行けるかもな」
俺は言った。
ブラウスは料理人だ。
食材を大事に扱う。
エアも、ペアも、アトムも、ブラウスがいたから食べ物になった。
アナザが食べられる相手を選ぶなら、ブラウスはかなり良いはずだ。
ブラウスは少し驚いたように俺を見た。
それから、力強く頷く。
「任せてください!」
その声には自信があった。
ブラウスは食材調達が嫌いだ。
危険な場所も嫌いだ。
だが、料理と食材への敬意は本物だ。
アナザもそれを分かってくれる。
俺も、どこかでそう期待していた。
そして、その時は現れた。
黒い海の奥に、金色の光が二つ。
最初は、旨潮の流れかと思った。
だが違う。
光が生きている。
揺れる。
泳ぐ。
優雅に、音もなく、黒い海を滑ってくる。
「アナザ……」
ブラウスが息を呑んだ。
アナザ。
それも二匹。
大きさはマグロ程度。
俺が原作で想像していたものより、小ぶりなサイズだ。
管理された現代のビオトープだからなのか。
鯨王ムーンがいない影響なのか。
それとも、もともと今見えている個体が小さいだけなのか。
理由は分からない。
だが、美しい。
金色に輝く魚体。
光を反射しているのではない。
アナザ自身が発光している。
その周囲の黒い海が、アナザの近くでだけ黄金色に染まっていた。
「すごい! ブラウス、任せた!」
「はい!」
ブラウスが操作盤に手を伸ばした。
慎重に。
ゆっくりと。
捕獲アームを展開する。
貝殻の隙間から、柔らかいアームが外へ伸びる。
同時に、網がふわりと広がった。
アナザを傷つけないように。
包み込むように。
食材へ敬意を向けるように。
その瞬間。
アナザは消えた。
光の速度で。
比喩ではない。
本当に、金色の光が一瞬で消えた。
そこにいたはずの二匹は、もうどこにもいない。
黒い海だけが残っている。
「……」
「……」
俺とブラウスは、しばらく無言だった。
「逃げられた……!」
ようやく俺が声を出した。
「そんな……」
ブラウスの声は小さかった。
信じられないというより、悔しさを噛み殺している声だった。
どこかで期待していた。
アナザは俺たちを選んでくれるのではないか。
ブラウスがいれば、心を開いてくれるのではないか。
おとなしく捕まってくれるのではないか。
だが、駄目だった。
アナザは逃げた。
捕獲アームと網を見た瞬間、消えた。
それはつまり、俺たちはまだ選ばれていないということだ。
いや、もしかしたらやり方が悪かっただけかもしれない。
でも、少なくとも今は駄目だった。
「気を落とすなよ」
俺は言った。
「ほかの場所を探そう」
「そうですね……」
ブラウスは頷いた。
だが、珍しく少し落ち込んでいる。
ブラウスは料理人として、食材に選ばれると思っていたのかもしれない。
それだけの敬意を持っていた。
それだけの準備をしていた。
なのに、逃げられた。
期待していただけ、悔しいよな。
「ブラウス」
「はい」
「次は別の方法を考えよう」
「……はい」
ブラウスは少しだけ顔を上げた。
「アナザに、捕まえるつもりじゃないと伝える方法が必要かもしれません」
「なるほど」
力で捕るのではない。
網で囲むのでもない。
アナザに来てもらう。
アナザが食卓につきたいと思うようにする。
それが必要なのかもしれない。
俺たちはスリープシェルシェルターを再び動かした。
アナザスパイラルの残る海底から離れ、黒い海の奥へ進んでいく。
深海の闇。
旨潮の流れ。
金色の魚の幻。
俺たちは再び、海底を進んでいった。