あの後、俺たちはさらに二か所のアナザスパイラルを見つけた。
黒い海底に描かれた、美しい螺旋。
金色の粒を巻き込んだ砂の渦。
アナザが泳いだ後だと言われる痕跡。
そこにスリープシェルシェルターを沈め、息を潜め、待った。
そして、実際にアナザにも会うことができた。
一度目は三匹。
二度目は一匹。
どちらも、黒い海の中で金色に輝いていた。
神秘的だった。
美しかった。
あれが海の旨味を生み出す魚だと言われれば、納得してしまうほどの存在感があった。
だが――。
ブラウスが捕獲しようとした瞬間、逃げられた。
捕獲アームを少し動かしただけで消える。
網を広げようとしただけで消える。
こちらが敵意を出したつもりはない。
食欲を荒立てたつもりもない。
それでも、アナザは姿を消した。
光の速度。
本当に、その言葉通りだった。
「また逃げられましたね……」
ブラウスが小さく呟く。
「うん……」
俺も頷くしかない。
失意の中、それでも探す。
アナザを食べるためにここまで来た。
諦めるわけにはいかない。
だが、気分は重い。
ブラウスは珍しく落ち込んでいた。
自分の料理人としての気配なら、アナザも少しは心を開いてくれるのではないか。
どこかでそう期待していたのだと思う。
俺も同じだった。
ブラウスがいればいける。
そう思っていた。
でも、現実は甘くなかった。
アナザは逃げる。
気に入らないものが近づけば、あっという間に消える。
今の俺たちは、アナザに選ばれていない。
その事実が重かった。
そんな時だった。
「あれ……?」
黒い海の奥に、異様に明るい場所が見えてきた。
深海三万メートル。
本来ならほとんど光などない場所。
なのに、そこだけぼんやりと明るい。
金色ではない。
白っぽい光。
まるで海底に小さな昼間が落ちているようだった。
「なんでしょう?」
ブラウスが首を傾げる。
「気分転換に行ってみようぜ」
「危険かもしれませんよ」
「でも、ずっと待って逃げられてばかりだしさ。少し見るだけ」
ブラウスは少し考えてから、頷いた。
「分かりました。近づくだけですよ」
「うん」
俺たちはスリープシェルシェルターを明るい場所へ向かわせた。
近づくにつれ、その正体が少しずつ見えてくる。
巨大な泡だった。
黒い海底に浮かぶ、半透明の巨大な泡。
その中だけ、まるで別世界のようになっている。
海水がない。
いや、泡に包まれている。
その内側には、浜辺があった。
白い砂浜。
波打ち際。
そして中央には、小さな建物。
「な、なんだここ……」
俺は思わず声を漏らした。
深海三万メートル。
ブラックトライアングルの底。
そこに浜辺があり、建物がある。
意味が分からない。
泡の中だけ、まるで地上の海辺みたいだった。
ご丁寧に、泡の一部には看板まである。
【入り口】
「入り口って書いてますね……」
「書いてるな……」
俺たちは言葉を失いながらも、その入り口へ向かった。
スリープシェルシェルターが泡に近づく。
ぶつかるかと思った瞬間、泡がぐぐぐっと押し込まれるように形を変えた。
そして、そのまま緩やかに中へ侵入することができた。
膜を抜けるような感覚。
水の抵抗が消える。
殻の外に、空気がある。
「……この場所、気圧が地上と変わらない」
ブラウスが計器を見て言った。
「なんだここ!? てか、貝から出ても平気そうだぞ」
「そのようですね……」
念のため確認してから、俺たちはスリープシェルシェルターの殻を開いた。
外へ出る。
足元は砂浜だった。
さらさらしている。
本物の砂だ。
空気もある。
潮の匂いもする。
深海三万メートルのはずなのに、地上の海辺に立っているような感覚だった。
はむまるは小さいまま俺の肩に乗っている。
「きゅ?」
「俺も同じ気持ちだよ」
意味が分からない。
でも、どこか懐かしい。
そして、中央の建物を見たブラウスが声を上げた。
「アマジンさん、この建物……定食屋と書いてます……」
「なに!」
俺は一気に元気になった。
「早速入ろうぜ!」
「え、まだ何も確認してませんよ!」
「定食屋だぞ!」
「それが理由になるんですか!?」
「なる!」
俺たちは建物へ向かった。
木造の小さな店。
暖簾がかかっている。
看板には、確かにこう書かれていた。
【深海定食】
なんだそれ。
入りたいに決まっている。
俺たちは店の扉を開けた。
からん、と小さな音がした。
店内には、年季の入った机やテーブルが並んでいた。
木の椅子。
少し色あせた壁。
厨房へ続く暖簾。
どこか懐かしい雰囲気の定食屋だった。
前世で見た、街角の古い定食屋を思い出す。
ここが深海三万メートルであることを忘れそうになる。
店内には誰もいなかった。
「すいませーん」
俺が声をかける。
少し間があって、暖簾の奥から声がした。
「お? おー! お客さん。いらっしゃい」
出てきたのは、小柄なおじいさんだった。
白髪。
丸い背中。
皺の多い顔。
だが、目はとても元気だ。
深海の底にいるとは思えないほど、普通の定食屋のおじいさんだった。
「二人かね?」
「はい」
「きゅ!」
「おや、そっちは小さいお客さんか」
おじいさんは、俺の肩のはむまるを見て笑った。
はむまるは少し得意げに胸を張る。
「A定食かB定食、どっちにするかね?」
「えっと、内容は……?」
ブラウスが聞こうとしたが、俺はすぐに言った。
「なんでもいいだろ! AとBそれぞれ頼んでみようぜ!」
「アマジンさん、もう少し慎重に……」
「定食屋のAとBはだいたいうまい!」
「その理屈は何ですか……」
結局、俺たちはA定食とB定食を一つずつ頼んだ。
「はいよ」
おじいさんは笑って暖簾の奥へ戻っていく。
しばらくすると、トントンと調理の音が聞こえてきた。
包丁の音。
油のはねる音。
皿を置く音。
そして、楽しそうに話すおじいさんの声。
「ほかにも誰かいるのかな……?」
「分かりません……」
ブラウスも耳を澄ませている。
おじいさんは誰かと会話しているように聞こえた。
だが、返事は聞こえない。
ひとりごとなのか。
それとも、本当に誰かがいるのか。
不思議な店だ。
いや、深海の泡の中にある定食屋の時点で十分不思議だ。
「お待たせしました」
おじいさんが料理を運んできた。
俺の前に置かれたのは、魚のフライ定食。
白いご飯のようなもの。
味噌汁に似たスープ。
小鉢。
そして、黄金色に揚がった魚のフライ。
ブラウスの前に置かれたのは、お刺身の定食だった。
同じく白い主食とスープ、小鉢。
そして、薄く切られた刺身が美しく並んでいる。
どちらを選んでも魚だったらしい。
だが――。
この魚。
金色に輝いている。
フライの衣の隙間から見える身が、淡く金色に光っている。
刺身はもっとはっきりしていた。
透明感のある金。
光を反射するのではなく、内側から輝いているような色。
俺は一瞬、サンサングラミーを思い出した。
水晶のように美しく透き通り、光り輝く魚。
銀色の身を持つ魚。
だが、これはそれとは違う。
もっと深い。
もっと濃い。
海そのものの旨味が凝縮されたような輝き。
「いただきます」
俺たちは手を合わせた。
俺は魚のフライを一口かじる。
その瞬間。
「……っ!」
死ぬほどうまい。
衣はさくりと軽い。
だが、その中の身が異常だった。
ふわっとほどけた瞬間、口の中に海が広がる。
ただの海ではない。
旨味の海。
出汁。
脂。
潮。
魚の甘み。
何層にも重なった味が、一気に押し寄せる。
なのに重くない。
透き通っている。
熱々のフライなのに、どこか澄んだ刺身のような透明感がある。
意味が分からない。
うますぎる。
「一体なんの魚だ……?」
俺は呟いた。
「なぁ、これ……」
ブラウスに話しかけようとした。
だが、ブラウスは驚愕の表情をしていた。
箸で刺身を持ったまま、固まっている。
目が見開かれている。
料理人として、何かに気づいた顔だ。
「おじいさん」
俺は思わず聞いた。
「これ、なんの魚?」
「なんのって……」
おじいさんは不思議そうに首を傾げた。
「アナザのフライと刺身の定食じゃ」
「アナザ!?」
思わず吹き出しそうになった。
だが、耐えた。
ひとかけらでも口から出たらもったいない。
絶対にもったいない。
俺は必死に口を閉じ、飲み込んだ。
アナザ。
今まで探していた魚。
逃げられ続けた魚。
光の速度で消えた魚。
それが、定食で出てきた。
フライと刺身で。
意味が分からない。
そもそもアナザは調理に途方もない時間がかかるはずだ。
それは短時間で刺身とフライに一体どうやって……。
だが、うまい。
圧倒的にうまい。
ぜったいにアナザだ。この魚は。
そして、俺は気づいた。
「なんだこれ……」
周囲にあるものすべてが、おいしそうに見える。
机。
椅子。
壁。
砂浜。
泡。
深海の黒い水。
全部が食材に見えるわけではない。
でも、そこに含まれる味を感じる。
石ころでも、木片でも、砂でも、海水でも。
極端に言えば、何でもおいしく食べられる気がする。
グルメ細胞が、忘れていた記憶を思い出させてくれる。
味のないものの味。
食材ではないものの旨味。
ニュースなどの味がない食材の味も認識できるようになる。
それがアナザの力なのだろう。
世界の味が増えた。
いや、世界にはもともと味があった。
俺がそれを感じられなかっただけだ。
「ブラウス、ラッキーだったな!」
俺は笑った。
「これでアナザは完了だな」
「完了……」
ブラウスはまだ呆然としている。
だが、すぐに料理人の顔になった。
「おじいさん。このアナザはいったいどうやって捕獲を……? それに調理だって……」
「捕獲か……こっちに来てみ」
おじいさんは暖簾をくぐり、厨房の奥へと俺たちを案内した。
俺たちは定食を食べ終え、皿をきれいにしてからついていく。
厨房の奥には、小さな水槽のような空間があった。
いや、水槽ではない。
空気の中に、水の塊が浮いている。
その中で、二匹のアナザがふよふよと泳いでいた。
リラックスした状態だった。
まるで昼寝でもしているように、ゆっくりと漂っている。
「お客さんが来るとな」
おじいさんはアナザを優しく撫でながら言った。
「自分からやってきてくれるんじゃ」
「自分から……」
「うん。今日はええ客が来る、食べてもらってええ日じゃ、とな」
おじいさんの手に撫でられたアナザは、逃げない。
むしろ気持ちよさそうに体を揺らしている。
「おお、おまえさん、なかなか良い状態だが、もっと泳いだ方がいいな」
おじいさんは魚に話しかけるように言った。
いや、実際に話しかけている。
アナザも、聞いているように見える。
ブラウスがゆっくり近づいた。
目には興奮と敬意があった。
逃げられ続けた食材が、目の前にいる。
それも、穏やかな状態で。
料理人として、触れてみたかったのだろう。
だが――。
ブラウスが俺の横まで近づいた瞬間。
アナザは一瞬で姿を消した。
水の塊だけが残る。
ブラウスの手が空中で止まった。
「……」
「……」
おじいさんは、困ったように笑った。
「まだ警戒されとるのう」
ブラウスは、しばらく固まっていた。
俺も何も言えなかった。
俺が近づいてもアナザは逃げなかった。
食べたからだろうか。
それとも、俺の中のグルメ細胞が、もうアナザの味を受け入れていたからなのか。
理由は分からない。
だが、少なくとも今この瞬間、アナザは俺を拒んではいなかった。
なのに、ブラウスが近づいた瞬間だけ消えた。
料理人であるブラウスが。
誰よりも食材を大切に扱うブラウスが。
それは、俺が思っている以上に、ブラウスには堪えたはずだ。
アナザは食べられた。
だが、捕まえられたわけではない。
選ばれたのは、俺たちではなく――。
たぶん、このおじいさんなのだ。