千年後のグルメ時代   作:鳩夜(HATOYA)

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食材との会話

 アナザが消えた。

 ブラウスが一歩近づいただけで、あれほど穏やかに浮いていた二匹のアナザは、一瞬で姿を消した。

 

 水の塊だけが、厨房の奥にぽつんと残っている。

 ブラウスはしばらく動かなかった。

 伸ばしかけた手を下ろすこともできず、ただ空中を見つめている。

 

「……なんで」

 

 小さな声だった。

 

「なんで僕はダメなんですか……」

 

 その声には、悔しさがにじんでいた。

 ブラウスは食材を雑に扱うような料理人ではない。

 

 むしろ逆だ。

 

 誰よりも食材を大事にする。

 エアも、ペアも、アトムも、ブラウスがいたから俺は食べることができた。

 

 料理の腕もある。

 食材への敬意もある。

 

 それなのに、アナザは逃げた。

 

 おじいさんの手には撫でられるのに、ブラウスが近づくと逃げた。

 その事実が、ブラウスにとってかなりきつかったのだろう。

 おじいさんは、その様子を見て少し考え込んだ。

 深い皺のある顔で、ブラウスをじっと見る。

 

「おぬし、名前は?」

 

「ブラウスです。こっちはアマジンです。おじいさんは?」

 

「わしはフワ爺と呼ばれておる」

 

「フワ爺……」

 

 名前までふわっとしている。

 だが、不思議と似合っていた。

 この泡の中の定食屋も、フワ爺という名前も、深海三万メートルにあるとは思えないほど柔らかい。

 

「ブラウス」

 

「はい」

 

「うちの厨房で飯を作ってみなさい」

 

「え?」

 

「作ってみなさい」

 

 フワ爺はもう一度言った。

 ブラウスは少し戸惑ったように俺を見る。

 俺は頷いた。

 

「やってみたらいいんじゃないか?」

 

「……わ、分かりました」

 

 ブラウスは意を決したように厨房へ入った。

 俺もついていこうとしたが、フワ爺に手で止められた。

 

「おぬしは食べる側じゃ」

 

「俺はそれが一番得意です」

 

「うむ。良い返事じゃ」

 

 褒められた。

 たぶん。

 フワ爺は厨房の奥から、いくつかの食材を取り出した。

 

 魚。

 

 貝。

 

 海藻のようなもの。

 

 どれも俺には見たことがない食材だった。

 ブラウスも同じらしい。

 目を細め、じっと食材を見つめている。

 

「この子たちを使ってみなさい」

 

「……はい」

 

 ブラウスは食材の前に立った。

 

 見たことがない魚。

 殻の形が妙に複雑な貝。

 触ると逃げるように縮む海藻。

 捌き方も分からないはずの食材たち。

 

 だが、ブラウスはすぐに包丁を入れなかった。

 

 まず、じっと見る。

 手に取る。

 匂いを嗅ぐ。

 指で軽く撫でる。

 

 刃を近づけて、食材の反応を見る。

 貝の殻に耳を当てるような仕草もした。

 

 まるで、食材の声を聞いているようだった。

 いや、実際に聞いているのかもしれない。

 

 しばらくして、ブラウスの動きが変わった。

 迷いが消える。

 

 包丁が入る。

 

 だが、速いだけではない。

 無理に切らない。

 

 食材が自然に開く場所を見つける。

 魚は骨の流れに沿って捌き、貝は殻の継ぎ目を壊さずに開く。

 

 海藻は熱を入れる前に軽く塩を当て、ぬめりを残す部分と落とす部分を分けた。

 初めて見る食材のはずなのに、適切な順序で調理していく。

 

 フワ爺は感心したように、その様子を見ていた。

 

「ほう」

 

 小さく呟く。

 ブラウスはその声にも気づいていない。

 

 集中している。

 

 包丁の音。

 火の音。

 油の音。

 

 香りが広がる。

 

 アナザを食べた後だからか、香りの細かい層が以前より分かる。

 焼ける魚の香り。

 貝から出る甘い汁。

 海藻の青い旨味。

 

 すべてが口の中に入る前から、味として立ち上がってくる。

 完成したのは、焼き魚とフライだった。

 

 見た目はシンプル。

 

 だが、皿の上に乗った瞬間からうまそうだった。

 俺は手を合わせる。

 

「いただきます」

 

 一口食べる。

 

 当たり前だが、めちゃくちゃ美味しい。

 焼き魚は身がふっくらしていて、噛むと脂と出汁がじわっと広がる。

 ただ塩を振って焼いただけに見えるのに、皮の香ばしさと身の甘さが完璧だった。

 

 フライは軽い。

 

 衣が薄く、噛んだ瞬間に中の貝の旨味が弾ける。

 噛むたびに甘い。

 

 海の甘さ。

 深海の静かな甘さ。

 

「うま……」

 

 俺は完全に飯に夢中になった。

 はむまるも小さくなったまま、皿の端で目を輝かせている。

 

「きゅ! きゅ!」

 

「ちょっとだけな」

 

 小さく切ってやると、はむまるは両手で持って夢中で食べ始めた。

 

 うん。

 

 これは仕方ない。

 うますぎる。

 俺が一人で飯に夢中になっている時、ブラウスはフワ爺に向き直っていた。

 

「どうでしょうか」

 

 その声は少し緊張していた。

 フワ爺は皿の上の料理を一口食べた。

 

 ゆっくり噛む。

 飲み込む。

 そして、穏やかに笑った。

 

「料理の腕は、わし以上じゃ」

 

「……え」

 

 ブラウスが目を丸くした。

 

「食材の声もよう聞こえとる。この貝、シャイ貝は非常にシャイな貝でな。全然話してくれん」

 

「シャイ貝……」

 

「うむ。殻に触れただけで黙り込む。刃を見せると引っ込む。火の気配を感じると、味まで閉じる」

 

 面倒くさい貝だ。

 いや、シャイなら仕方ないのか。

 

「でもブラウス、おぬしはシャイな食材に対しても正確に読み取ってあげて調理しておる。驚いたぞ。殻を無理にこじ開けず、貝が少しだけ返事をした瞬間に包丁を入れた。火も強すぎず、逃げ道を残しながら旨味を引き出した」

 

 フワ爺は本当に感心しているようだった。

 

「素晴らしいセンスじゃ」

 

「ありがとうございます……」

 

 ブラウスは少しだけ頬を赤くした。

 フワ爺はブラウスをめちゃくちゃ褒めた。

 

 料理の腕。

 食材を見る目。

 包丁の扱い。

 火の入れ方。

 

 食材の小さな反応を見逃さない集中力。

 どれも一級品だと言った。

 俺はそれを聞いて、なぜか自分のことのように嬉しかった。

 

 そうだろ。

 

 ブラウスはすごいんだ。

 俺は心の中で頷く。

 だが、フワ爺の表情が少し変わった。

 

「だがな、ブラウス」

 

「はい」

 

「お前は、聞き役に徹しすぎじゃ」

 

「え?」

 

 ブラウスが固まる。

 

「料理とは、食材との対話が重要じゃ」

 

「対話……」

 

「うむ。おぬしは空気を読む。食材の気持ちを汲み取る。そこに関しては一級品じゃ。いや、わしより上かもしれん」

 

 フワ爺は静かに続ける。

 

「そのせいじゃろうな。会話が疎かじゃ」

 

「会話が……」

 

 ブラウスは真剣に聞いていた。

 褒められた時よりも、ずっと真剣な顔だった。

 

「食材との会話は、相手のことを知らなければできない」

 

 フワ爺は厨房の奥に視線を向けた。

 そこには、さっきアナザがいた水の塊がある。

 今は空っぽだ。

 

「どこに住んでいて、どんな動きをしていて、どんなものを食べたり、遊んだりしているか。何を嫌い、何を好み、何に怯え、何に安心するのか」

 

 フワ爺の声は穏やかだった。

 だが、言葉はまっすぐだった。

 

「背景を知らなければ、薄っぺらな会話しかできん」

 

「……」

 

「おぬしは、皿の上の食材の声はよう聞こえておる。台所に来た後の声は、誰よりも聞ける。じゃが、生きて泳いでいる時の声をあまり知らんのじゃろう」

 

 ブラウスの表情が変わった。

 図星を突かれたような顔だった。

 

 ブラウスは料理が好きだ。

 でも、食材調達は嫌いだ。

 

 危険な場所に行くのも嫌いだ。

 だから父親のガウンに、エアやペアやアトムへ無理やり放り込まれていた。

 

 そういう経験がないわけではない。

 だが、自分から積極的に生きた食材を見に行くタイプではなかった。

 

「おぬしは、生きた食材を見る経験と、食材とのコミュニケーション力が不足しておるな」

 

「……」

 

 ブラウスは何も言えなかった。

 

 悔しそうだった。

 でも、怒ってはいない。

 受け止めていた。

 

 自分でも、どこかで分かっていたのかもしれない。

 

 アナザに逃げられた理由。

 食材を大事にしているのに、近づけなかった理由。

 それを、フワ爺に言葉にされた。

 

「どうすればいいでしょうか」

 

 ブラウスが聞いた。

 声は小さかったが、しっかりしていた。

 フワ爺は笑った。

 

「生きた食材をたくさん見て、もっと会話を楽しめ! それが重要じゃ!」

 

「会話を、楽しむ……」

 

「そうじゃ。食材の機嫌を損ねないように、恐る恐る近づくだけでは駄目じゃ。相手を知りたいと思うことじゃ。皿に乗る前の姿も、泳ぐ姿も、眠る姿も、遊ぶ姿も、逃げる姿もな」

 

 ブラウスは目を伏せた。

 そして、ゆっくりと顔を上げた。

 その表情は、さっきまでとは違っていた。

 

 悔しさはある。

 だが、それ以上に決意がある。

 

「アマジン」

 

「ん?」

 

「ここで待っていてください」

 

「え?」

 

 俺は箸を止めた。

 

「ちょっとアナザと話してきます」

 

「今から?」

 

「はい」

 

 ブラウスはそのまま店の外へ向かう。

 俺は慌てて立ち上がった。

 

「待て待て、深海だぞ!? 一人で行くのか?」

 

「スリープシェルシェルターを使います。無茶はしません」

 

「いや、俺も――」

 

「アマジンはここで待っていてください」

 

 ブラウスが俺を見る。

 その目は真剣だった。

 俺は言葉に詰まった。

 

 ここまでやる気になったブラウスは、初めて見るかもしれない。

 いつもなら、危険な場所には行きたがらない。

 

 食材調達より料理をしたがる。

 それなのに今は、自分からアナザに会いに行こうとしている。

 

 悔しかったのだろう。

 アナザに逃げられたことが。

 

 自分に足りないものを突きつけられたことが。

 そして、それでも料理人として前に進みたいのだ。

 

「ブラウス……!」

 

 俺は店の入り口まで追いかけた。

 ブラウスは振り返る。

 

「気をつけろよ!」

 

「はい」

 

 ブラウスは小さく頷いた。

 そして、泡の外に停めていたスリープシェルシェルターへ一人で乗り込んだ。

 

 貝殻が閉じる。

 ゆっくりと泡の膜へ向かう。

 

 俺はその背中を見送ることしかできなかった。

 

 何か言いたかった。

 でも、言えなかった。

 

 今のブラウスには、止める言葉よりも見送る言葉が必要だと思った。

 スリープシェルシェルターは泡の外へ抜け、黒い海の中へ戻っていく。

 

 金色の魚を探すために。

 食材と会話するために。

 俺はそのまま、何も言えずブラウスを見送った。

 

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