千年後のグルメ時代   作:鳩夜(HATOYA)

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観察する料理人

 スリープシェルシェルターが黒い海の中へ消えていく。

 泡の膜の向こう側。

 深海三万メートルの闇。

 その中へ、ブラウスは一人で向かっていった。

 

「ブラウス。大丈夫かな」

 

 俺は思わず呟いた。

 

 止めなかった。

 止めるべきではないと思った。

 

 けれど、心配ではある。

 

 ここはブラックトライアングルの最深部だ。

 いくらスリープシェルシェルターがあるとはいえ、一人で行かせていい場所なのか分からない。

 

「心配はないじゃろう」

 

 隣でフワ爺がのんびりと言った。

 

「危険な猛獣などは少ないからの」

 

「そうなのか?」

 

「この辺りはアナザが好んで泳ぐ場所じゃ。荒っぽいもんはあまり近づかん」

 

「なるほど……」

 

 それを聞いて少しだけ安心した。

 確かに、これまで深海を移動していても、猛獣らしい猛獣はほとんど見なかった。

 

 オリーブゼリーフィッシュや七色ゼリーナマコのような、ぶにょぶにょした食材はいた。

 だが、襲ってくるような気配はなかった。

 

 深海三万メートル。

 

 それだけで十分に過酷な環境だ。

 ここで生きている時点で、みんな自分のことで精一杯なのかもしれない。

 

「フワ爺は、アナザと仲良くなったのはいつなの?」

 

 俺は聞いた。

 この人はアナザに触れた。

 

 アナザが逃げなかった。

 むしろ、撫でられて気持ちよさそうにしていた。

 

 ブラウスがあれほど悔しがるのも分かる。

 食材を大事にする料理人として、自分が拒まれ、目の前の老人は受け入れられている。

 それはかなり堪えるだろう。

 

「もう何百年も前からじゃな」

 

「何百年……」

 

 さらっとすごいことを言った。

 見た目通りのおじいさんではないらしい。

 いや、この世界のすごい人はだいたい見た目と年齢が合わない。

 

「わしも昔はフルコースを巡っておっての。ここで初めてアナザを見た時、その美しさに惚れてしまったんじゃ」

 

 フワ爺は懐かしそうに目を細める。

 

「金色の光が、黒い海を泳いでおった。あれを見た瞬間、わしは思った。この魚のそばで料理をしたいとな」

 

「それでここに?」

 

「うむ。当時勤めていたレストランを辞めて、ここに開業したんじゃ」

 

「行動力すごいな」

 

 深海三万メートルに定食屋を開く。

 

 普通なら狂っている。

 いや、今聞いても十分狂っている。

 

 でも、フワ爺が言うと不思議と自然に聞こえた。

 アナザのそばにいたい。

 そのためにレストランを辞めて、ここに店を構える。

 

 料理人としては、ある意味ものすごく真っ直ぐなのかもしれない。

 

「客……来るのか?」

 

 俺は素朴な疑問を口にした。

 だって深海三万メートルだ。

 来る方がおかしい。

 

「まぁ、三か月に一組来るか来ないかじゃな」

 

「思ったより来てる!」

 

「たまに物好きがおるんじゃ」

 

「俺たちもその物好きか……」

 

「うむ」

 

 否定されなかった。

 

 まあ、深海三万メートルの定食屋に入った時点で、物好きなのは間違いない。

 俺は店の中を改めて見回した。

 

 年季の入った机。

 木の椅子。

 厨房へ続く暖簾。

 

 壁に貼られた手書きの品書き。

 深海というより、地上の港町にある古い定食屋みたいだ。

 でも、ここで出てくるのはアナザ定食。

 

 意味が分からない。

 そして、そこで俺は大事なことに気づいた。

 

「あ」

 

「どうしたんじゃ?」

 

「そういえば、定食のお金払ってない。いくら?」

 

 アナザを食べた。

 地球のフルコースの一つだ。

 

 当然、安いわけがない。

 

 アトムも高級品だった。

 ペアは現地飲みのみだったから料金体系が特殊だったが、地球のフルコースを普通に定食として出されたのだ。

 

 さすがにタダではないだろう。

 

「おお、そうじゃったな」

 

 フワ爺はぽんと手を打った。

 

「二人合わせて二億四千万円じゃ」

 

「……」

 

 俺は固まった。

 

 二億四千万円。

 におくよんせんまんえん。

 

 待ってくれ。

 

 聞き間違いかもしれない。

 いや、聞き間違いであってほしい。

 

 とりあえず財布の中身を見る。

 四十八円しか入っていない。

 

「えっと……」

 

 俺はゆっくり口を開いた。

 

「お支払いは、ブラウスが帰ってくるまで待ってください」

 

「うむ。よかろう」

 

 フワ爺はあっさり頷いた。

 

 危なかった。

 いや、何も解決していない。

 ブラウスに押し付ける形になる。

 でも、ブラウスなら払える。

 

 たぶん。

 

 いや、ガウンなら払える。

 

 きっと。

 

 俺の財布ではどうにもならない。

 アナザうまかったな、で済む金額ではない。

 アナザ定食、恐ろしい。

 

 食べた後に値段を聞くのは良くない。

 今後は気をつけよう。

 

 たぶん忘れるけど。

 

・・・

・・

 

 その頃、ブラウスは黒い海の底にいた。

 スリープシェルシェルターの中。

 

 泡の定食屋を離れ、アナザスパイラルの一つへ戻っている。

 

 今回は捕獲道具を出していない。

 アームも網も使わない。

 

 ただ、窓の向こうにいるアナザを眺めていた。

 二匹のアナザが、螺旋状の砂の上を楽しそうに泳いでいる。

 

 金色の魚体が、黒い海の中を滑る。

 光が尾を引く。

 螺旋の砂がふわりと舞う。

 

 泳ぐたびに、海底の砂が美しい渦を描いていく。

 まるで遊んでいるようだった。

 

 逃げるためではない。

 食べ物を探しているわけでもない。

 ただ、泳ぐことそのものを楽しんでいるように見えた。

 

「生きてる食材を、こうやって眺めるの……初めてかもしれませんね」

 

 ブラウスはぽつりと呟いた。

 料理人として、食材を見てきた。

 

 まな板の上の食材。

 鍋の中の食材。

 皿の上の食材。

 市場に並ぶ食材。

 

 父に連れられて、あるいは放り込まれて、危険な場所で食材を見たこともある。

 だが、こうして何もせず、捕まえようともせず、ただ生きている姿を眺める時間は、あまりなかった。

 

 いや、なかったのかもしれない。

 ブラウスはアナザを眺めながら、悔いていた。

 

 今までの食材に対する対応。

 

 真摯に向き合ってきたつもりだった。

 食材を雑に扱ったことはない。

 声を聞こうとしてきた。

 誰よりも食材の声が聞こえるとも思っていた。

 

 けれど、それはあくまで、まな板の上にいる食材だった。

 

 調理される準備が整った食材。

 自分の前に差し出された食材。

 その声を聞くのは得意だった。

 だが、生きて泳いでいる食材は違う。

 

 まだ誰のものでもない。

 まだ皿に乗ると決まっていない。

 

 自分の意思で泳ぎ、遊び、逃げ、近づく。

 その食材の声を、ブラウスはどれほど聞いてきただろうか。

 

「まだまだ、足りていませんでしたね」

 

 小さな声だった。

 自分に言い聞かせるような声だった。

 アナザは泳ぎ続けている。

 

 二匹は時折、互いの周りを回るように泳いだ。

 

 片方が砂を巻き上げると、もう片方がその渦の中を通り抜ける。

 

 光が揺れる。

 金色の線が交差する。

 ブラウスはただ見ていた。

 

 何が好きなのか。

 どう泳ぐのか。

 どの距離なら警戒しないのか。

 

 何に反応するのか。

 どんな時に尾びれを震わせるのか。

 

 会話をするなら、まず相手を知らなければならない。

 フワ爺の言葉が胸に残っている。

 

「アナザ……僕はブラウスです」

 

 ブラウスは窓越しに話しかけた。

 声が届くのかは分からない。

 水を隔て、貝の殻を隔て、深海の圧力を隔てている。

 それでも、言った。

 

「料理人です。あなたたちを捕まえようとして、何度も逃げられました」

 

 アナザは無関心で泳ぎ続ける。

 聞いているのか、聞いていないのか。

 

 まるで分からない。

 それでも、ブラウスは続けた。

 

「僕は、あなたたちのことを何も知りませんでした。どんな風に泳ぐのかも、何を楽しんでいるのかも、どんな距離を嫌うのかも」

 

 金色の魚が、ゆっくりと螺旋の外へ出る。

 もう一匹がその後を追う。

 

 楽しそうだった。

 ブラウスは少しだけ笑った。

 

「綺麗ですね」

 

 どうすればいいのか。

 まだ分からない。

 

 近づけば逃げる。

 捕ろうとすれば消える。

 話しかけても反応はない。

 

 だが、それでもブラウスは、アナザをまずはよく観察していた。

 

 食材の声を聞くために。

 食材と会話するために。

 

 皿の上ではなく、海の中で生きているアナザを知るために。

 ブラウスは一人、黒い海の中で金色の魚を見つめ続けた。

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