ブラウスがアナザと話しに行ってから、しばらく時間が経った。
俺はフワ爺の店に残っている。
深海三万メートル。
ブラックトライアングルの底。
巨大な泡に包まれた浜辺の中にある定食屋。
改めて考えると、意味が分からない。
だが、店内は普通だった。
古い机。
木の椅子。
少し色あせた壁。
暖簾の奥にある厨房。
たまに聞こえる、鍋や皿の音。
深海にいることを忘れそうになる。
はむまるは小さいまま、机の上で丸くなっていた。
「きゅ……」
「退屈か?」
「きゅ」
「分かる」
ブラウスを待つだけというのも落ち着かない。
俺は店の片隅に置かれていた本棚に目を向けた。
古い料理本。
深海食材図鑑。
アナザ関連の資料。
その中に、一冊だけ気になる本があった。
「アナザの歴史……」
表紙にはそう書かれている。
著者名は、アールシ。
俺はその本を手に取った。
フワ爺に確認すると、のんびりと頷く。
「読んでもええぞ」
「これ、フワ爺のことも書いてあるのか?」
「うむ。昔、IGOの調査員が何十年もここに滞在しておってな。その時にアールシという者が来たんじゃ」
「何十年も……」
「アナザの調査じゃ。あの者たちは辛抱強かったのう」
何十年も深海の定食屋に滞在して調査。
研究者というのも大変だ。
「それで、そのアールシが来てな。この本にあなたを出していいか、と許可を取りに来たんじゃ」
「へえ」
「わしは別にええぞと言った」
「軽いな」
「悪く書かれておらんしの」
フワ爺は笑った。
俺は本を開いた。
そこには、アナザの調理史が書かれていた。
太古の料理本。
食霊の門。
魂の世界。
鯨王ムーンから逃げるため、アナザが光速を超えて泳いだことで生まれた時空の歪み。
かつては、その歪みに四つの巨大な門が存在し、魂の世界へ通じていたらしい。
そこを通り、通常とは異なる時間の中でアナザを調理する。
それが古来の調理法だった。
だが現代では、その門はすべて消えている。
代わりに、ワープキッチンを備えたキャンピングモンスターで、時間の流れを緩やかにしながら調理する方法が主流になった。
それでも百年以上。
いや、古い記述では何百年、何万年という時間が必要だったとも書かれている。
作り始めた料理人が完成を見られない。
次の世代へ引き継ぎ、また次へ引き継ぐ。
そうやって、調理のバトンを渡していく。
アナザとは、そういう食材だったらしい。
だが、その後に書かれていた内容で、俺は驚愕した。
フワ爺が、アナザの歴史を変えてしまったのだ。
フワ爺が特殊な調理法を生み出したわけではない。
新しい器具を発明したわけでもない。
魂の世界へ行く門を復活させたわけでもない。
そうではなく――。
アナザ自身を変えてしまった。
何百年、いや何万年の調理が必要だったアナザを、調理でどうにかするのではなく、アナザの方が食べやすく変異していった。
身の繊維がほどけやすくなった。
旨味が表に出やすくなった。
火や包丁への拒絶反応が弱くなった。
熟成に必要な時間が短くなった。
理由は、フワ爺に調理してもらうため。
フワ爺に食べてもらうため。
アナザは、競うように食べやすくなっていったと書かれている。
「……想像もできない」
俺は思わず呟いた。
食材が料理人に合わせて進化する。
考えれば考えるほど意味が分からない。
極端に言えば、飼っていた犬が主人と話すために人語を覚え、二足歩行で歩き始めるほどにありえない事象だ。
いや、それよりすごいかもしれない。
アナザは地球のフルコースだ。
ブラックトライアングルの旨味の原点だ。
そんな食材が、たった一人の料理人に調理されたいから変わった。
「こういうこともあるのか……」
俺は感心していた。
フワ爺はただのすごい料理人ではない。
アナザの歴史に影響を与えた人間だ。
本人はのんびりしているが、とんでもない存在なのではないか。
俺は本を閉じた。
その瞬間。
ぐう、と腹が鳴った。
「……」
アナザ定食は食べた。
食べたはずなのに、また腹が鳴った。
アトムを食べてから、頭も体も冴えている。
アナザを食べてから、世界の味が広がった。
だからなのか。
余計に腹が減る。
食べたい。
だが、フワ爺の定食は一人一億二千万円。
食べられるわけがない。
俺は荷物から水筒型グルメケースを取り出した。
中には、アトムのドリンクが少し入っている。
高級ワインのような色。
揺れると複雑な模様が浮かぶ。
俺はそれをちびちびと飲んだ。
「うま……」
アナザの後に飲むアトムもまた違う。
味の層が前より分かる。
香り。
毒を処理した後の澄んだ刺激。
頭の奥が開くような感覚。
コーヒー代わりに飲みたい気持ちがさらに強くなった。
ただ、腹は膨れない。
「腹減ったな……」
俺が呟くと、フワ爺がこちらを見た。
「アマジン」
「ん?」
「この場所は四つの泡に分かれている」
「四つ?」
俺は窓の外を見る。
ここから見える範囲には、俺たちがいる泡しかない。
「ここが気圧一じゃ」
「地上と同じってことか」
「うむ。そして向こうへ行けば百、千、二千の気圧の泡がある」
「二千……」
嫌な記憶が蘇った。
両腕複雑骨折。
ブラウスに怒られた。
あれは本当に痛かった。
「それぞれ、うまい食材があるぞ。自分で取りに行くなら、飯を作ってやろう」
「本当か!?」
俺は一瞬で立ち上がった。
食材を取ってくれば、料理してくれる。
しかもフワ爺が。
これは行くしかない。
定食代は払えない。
でも、自力で食材を取れば飯が食える。
素晴らしい。
「ただし、無理はするでないぞ」
「もちろん」
「その顔は無理をする顔じゃな」
「そんなことはない」
俺はさっそく準備を始めた。
グルメスモックを確認する。
キッチンハサミ。
番重落とし。
水圧対策。
二千気圧の泡には行かない。
たぶん。
いや、少なくとも最初は行かない。
はむまるは机の上で「きゅ?」と首を傾げている。
「はむまるは留守番な」
「きゅ!?」
「危ないから」
「きゅう……」
はむまるは少し不満そうだったが、小さいままでは危ない。
それに、二千気圧どころか百気圧でもどうなるか分からない。
今回は俺だけで行く。
俺は泡の外を見た。
黒い海の中に浮かぶ、不思議な空間。
その奥に、さらに別の泡があるらしい。
「てか、この場所……一体なんなんだ?」
俺は改めて聞いた。
深海にある泡。
地上と同じ気圧。
浜辺。
定食屋。
気圧の違う別の泡。
どう考えても自然にできたものではない。
「もともとはブルーグリルという海底都市があった場所じゃ」
「ブルーグリル……」
俺の心臓が跳ねた。
ブルーグリル。
原作でも出てきた、あの。
グルメ界の七つの文明の一つ。
エリア六の超巨大貝、ジャイアントシェルの中に存在する深海の巨大都市。
手練れの料理人が数多くいる場所。
その繁栄ぶりは、グルメ時代最盛期の人間界に負けないほどだという。
あのブルーグリル。
そこが、ここにあった。
俺は周囲を見た。
浜辺。
泡。
定食屋。
ここにかつて、巨大な海底都市があったのか。
「もうないのか……」
俺は喪失感を覚えた。
千年後。
トリコのいた時代から千年。
分かっていた。
当たり前だ。
多くのものが変わっている。
地球のフルコースも管理されている。
八王の状況も変わっている。
文明だって、そのまま残っているとは限らない。
でも、ブルーグリルがもうないと思うと、胸に穴が空いたような気分になった。
原作で見た場所。
いつか行ってみたいと思った場所。
その一つが消えている。
それは思ったより堪えた。
だが、フワ爺は首を横に振った。
「別に滅んだわけじゃない」
「え?」
「ブルーグリルごと旅立ったんじゃ。宇宙へな」
「宇宙へ……?」
俺は声を失った。
ブルーグリルが。
あの巨大海底都市が。
都市ごと宇宙へ旅立った。
すごい。
本当なら、とんでもないことだ。
いや、この世界ならあり得るのか。
千年前。
未知なる食材を求めて探求する時代。
その舞台は、地球から宇宙へと広がった。
地球のフルコースを食べた者たち。
裏の世界やワープロードを研究した者たち。
グルメ界で生き残っていた文明。
彼らの目が、宇宙へ向くのは当然だったのかもしれない。
「当然、宇宙を目指す者たちも増えた」
フワ爺は言った。
「グルメ界で生き残っていた文明の多くは、地球に留まるだけでは満足せんかった」
「ほかにも行ったのか?」
「わしが知る限りでは、エリア八妖食界のつわもの達。ここエリア六のブルーグリル。エリア四、グルメの園にあるフェアリーバンケットホール。この辺りが宇宙へと旅立った」
「フェアリーバンケットホール……」
原作では聞いたこともない場所だが……知らないところで世界が広がっている。
千年後。
人間たちは宇宙へ行った。
IGO宇宙探査隊もある。
宇宙食材研究所もある。
それだけではない。
地球にあった文明も、それぞれの形で宇宙へ旅立った。
ブルーグリルは都市ごと。
妖食界はつわもの達が。
グルメの園のフェアリーバンケットホールという未知の文明も。
原作で見た場所が、今もどこか宇宙にあるかもしれない。
そう思うと、寂しさと同時に少しだけわくわくした。
「フワ爺……なんでそんなこと知ってるの?」
俺は聞いた。
この人は何者なのか。
ただの定食屋のおじいさんではない。
アナザの歴史を変えた料理人。
ブルーグリルの跡地に店を構える人物。
宇宙へ旅立った文明のことまで知っている。
長生きというだけで済む話ではない気がする。
「これでも長生きしとるからの!」
フワ爺は笑った。
ごまかされた感じがした。
だが、問い詰める気にはならなかった。
今はブラウスもいない。
何より、腹が減っている。
俺はグルメスモックを整えた。
気圧一の泡の外。
その先にある、百気圧、千気圧、二千気圧の泡。
そこには、それぞれうまい食材があるらしい。
「よし」
俺は気合を入れた。
「食材のある場所へ向かおう」
フワ爺の飯を食うために。
そして、かつてブルーグリルがあった場所を、自分の足で少しでも知るために。
俺は深海の泡の奥へ向かうことにした。