フワ爺の店を出て、俺は隣の泡へ向かった。
ここは、かつてブルーグリルがあった場所。
今は巨大な泡がいくつか残っている。
フワ爺の店がある泡は、地上と同じ一気圧。
そして、その奥には百気圧、千気圧、二千気圧の泡があるらしい。
それぞれの泡に、うまい食材がいる。
自分で取ってくれば、フワ爺が飯を作ってくれる。
なら行くしかない。
アナザ定食は一人一億二千万円。
そんなものを気軽に頼めるわけがない。
いや、めちゃくちゃうまかったけど。
払えるかどうかは別問題だ。
俺はグルメスモックを全身にまとい、百気圧の泡の入り口へ向かった。
泡の膜に触れる。
ぐに、と押し返されるような感覚。
そのまま体を押し込むと、膜が俺を包み込むように変形した。
そして――。
「ぐっ……」
中に入った瞬間、体全体がぐっと押さえつけられた。
一気圧の泡とは違う。
空気ではない。
ここは水中だった。
百気圧。
深海で言えば、相当な水深に相当する圧力だ。
全身を重い布団で押し潰されるような感覚がある。
だが、いける。
二千気圧で死にかけた俺からすれば、百気圧はまだ耐えられる。
グルメスモックも安定している。
ギギ、と嫌な音もしない。
あの音が聞こえたら即撤退だ。
絶対に。
たぶん。
「ここなら十分に耐えられるな」
俺はゆっくり息を吐いた。
グルメスモックのマスクが、水中でも呼吸できるように空気を確保してくれている。
ただし、動きは地上ほど軽くない。
水の抵抗と圧力がある。
でも、訓練にはちょうどいい。
周囲を見る。
そこには、色とりどりの魚が泳いでいた。
深海の黒い海とは違う。
泡の中だけ、澄んだ水に満たされている。
赤い魚。
青い魚。
透明な魚。
ヒレが花びらのように広がった魚。
見たことのない貝や海藻もある。
かつてブルーグリルの一部だった場所だからだろうか。
天然の海というより、巨大な水中庭園のようだった。
「すごいな……」
これだけでも十分に食材の宝庫だ。
だが、俺はさらに奥へ進もうとした。
この調子なら、千気圧の泡も少し覗けるかもしれない。
もちろん、二千気圧はまだ無理だ。
両腕複雑骨折の記憶がある。
ブラウスに怒られた記憶もある。
でも千なら、訓練でも耐えた。
そう考えて、百気圧の泡を抜けようとした時だった。
俺はある魚を見て、思いとどまった。
「……え?」
丸い体。
小さなヒレ。
独特の存在感。
魚なのに、どこか鯨のようにも見える。
ゆっくりと泳ぐその姿に、俺は見覚えがあった。
「フグ鯨……?」
深海の珍味と呼ばれる幻の鯨。
いや、魚。
分類は魚乳類。
魚類と哺乳類の特徴を併せ持つ食材。
普段は深海に棲息しているが、十年に一度、産卵のため浅瀬に上がってくる。
原作では、その浅瀬に上がってきた個体を狙っていた。
だが、ここにいるフグ鯨は違う。
浅瀬に上がる前のやつらだ。
深海にいる、産卵前のフグ鯨。
原作とは少し違うかもしれない。
だが――。
「飯はこいつに決定だ!」
俺は即決した。
アナザの後にフグ鯨。
なんだこの贅沢。
だが、問題がある。
俺にノッキングの技術はない。
気配を断って近づくことはできる。
猿武の基礎もある。
食義も食没もある。
気配を消し、細胞の動きを静かにすることはできる。
だが、フグ鯨は繊細な食材だ。
不用意に触れれば毒化してしまう。
せっかく見つけても、毒化したら意味がない。
どうする。
俺は水中で腕を組んだ。
フグ鯨はゆったり泳いでいる。
今のところこちらには気づいていない。
いや、気づいているかもしれないが、反応していない。
近づくことはできる。
問題は、どう無力化するかだ。
「……そうだ」
俺は水筒型グルメケースを見た。
中にはアトムのスープが入っている。
高級ワイン色の、頭が冴えるスープ。
人間の俺が飲めば、眠気が吹き飛ぶほど目が覚める。
頭が冴える。
世界の線が見える。
では、魚ならどうなる?
人間には刺激でも、魚には強すぎるかもしれない。
もしかすると、昏睡状態になるのではないか。
「もったいないけど……ほんの少しだけだ」
俺は水筒を開けた。
アトムを水中に直接出すのは、正直もったいない。
かなりもったいない。
ブラウスが苦労して調理してくれたアトムだ。
でも、フグ鯨を取れるなら試す価値はある。
俺はほんの一滴に近い量を水中になじませた。
アトムのスープが水に溶け、淡い紫色の筋を作る。
それをグルメスモックの手でゆっくり誘導し、フグ鯨のエラへ流れるようにした。
フグ鯨がその水を吸い込む。
次の瞬間。
びくっ。
フグ鯨の体が一瞬震えた。
そして、そのまま白目をむいて、ふわりと浮いた。
「成功だ」
俺は小さくガッツポーズした。
毒化していない。
眠っている。
いや、気絶している。
アトム効果、すごい。
ただし――。
「アトムを使うのは、さすがに割に合わないな」
貴重すぎる。
一匹捕るたびにアトムを使っていたら破産する。
いや、金の問題だけではない。
量が限られている。
もっと安く、もっと俺らしい方法が必要だ。
俺は気絶したフグ鯨をそっと回収しながら、次のフグ鯨を探した。
少し離れた場所に、もう一匹いる。
ゆっくり泳いでいる。
今度はアトムなしでいきたい。
「番重で上下から挟んで、水を抜いたらどうだ?」
俺は考える。
フグ鯨を傷つけずに閉じ込める。
水を抜く。
いや、水中で完全に水を抜くのは難しい。
でも、密閉空間を作ることはできる。
その中の酸素を減らし、二酸化炭素を増やせば、気絶するのではないか。
魚に効くのかは分からない。
だが、フグ鯨は魚乳類。
魚類と哺乳類の特徴を併せ持つ。
なら、ガス濃度の変化には反応するかもしれない。
「やってみる価値はある」
俺は食欲エネルギーを静かに練った。
番重。
ただ落とすのではない。
今回は箱として使う。
深い番重。
上下から挟む。
フグ鯨を驚かせないように、ゆっくり。
静かに。
俺はフグ鯨の上下に、透明感のある白い番重を出した。
水圧で潰れないよう、やや厚め。
だが、気配は薄く。
食欲を荒立てない。
フグ鯨の動きに合わせ、そっと上下から近づける。
ぱたん。
音もなく閉じた。
成功。
まだ毒化していない。
番重の中に、フグ鯨を閉じ込めた。
俺は一部に小さな穴を開けた。
そこに口を近づける。
グルメスモックのマスクを少し調整し、穴へ息を吹き込む。
ぶくぶくぶく。
番重の中に、俺の吐いた息が入っていく。
ひたすらに吹き込む。
中の二酸化炭素濃度を上げる。
たぶん上がっている。
たぶん。
科学的に正しいかは分からない。
でも、やるしかない。
俺は何度も何度も息を吹き込んだ。
フグ鯨が中で少し動く。
毒化するな。
頼む。
気絶してくれ。
さらに吹き込む。
肺がきつい。
水中で息を吐き出し続けるのは普通に苦しい。
そして――。
フグ鯨の動きが止まった。
俺は番重の中を確認する。
フグ鯨は白目をむいて、ぷかりと浮いていた。
「よし、気絶してる」
成功だ。
アトムを使わずに捕れた。
お金をかけずに、なんとか手に入れることができた。
これは大きい。
俺は気絶したフグ鯨を慎重に回収した。
毒化していない。
たぶん大丈夫。
フワ爺なら調理できるはずだ。
いや、フワ爺なら、俺が多少ミスしていても何とかしてくれそうな気がする。
「よし……戻ろう」
そう思った瞬間。
「……まずい」
息を吐きすぎた。
苦しくなってきた。
頭が少しぼーっとする。
水中で息を吹き込み続けるとか、冷静に考えればかなり馬鹿なことをした。
だが、フグ鯨は取れた。
勝ちだ。
俺はフグ鯨二匹を抱え、急いで百気圧の泡の出口へ向かった。
体が重い。
百気圧の圧力も、さっきよりきつく感じる。
酸素は大事だ。
当たり前だけど大事だ。
俺は泡の膜を抜け、一気圧の空間へ戻った。
そして、フワ爺の店へ向かって走る。
「フワ爺!」
俺は息を切らしながら叫んだ。
「飯の材料、取ってきた!」
腕の中には、二匹のフグ鯨。
深海の珍味。
幻の食材。
俺はそのまま、フワ爺の元へと戻った。