「おお、フグ鯨か。渋いチョイスじゃ」
フワ爺は、俺が抱えて戻ってきた二匹のフグ鯨を見るなり、嬉しそうに目を細めた。
俺は息を切らしながら、店の入り口に立っていた。
百気圧の泡から戻ってきたばかりだ。
グルメスモックのおかげで体は無事だったが、番重の中へ息を吹き込み続けたせいで、頭が少しぼーっとしている。
酸素は大事だ。
本当に大事だ。
「これ、いけるか?」
「もちろんじゃ。毒化もしとらん。よう捕ったのう。ノッキングか?」
「いや、ノッキングガン持ってなくて。高いからさ……工夫した!」
俺は少し胸を張って答えた。
トリコや次郎、鉄平たちは、指でノッキングをしていた。
俺も知識としてはある程度知っている。
フグ鯨に関しても、打つ場所は分かっている。
だが、指で正確に撃つ技術はない。
ノッキングは素晴らしい技術だ。
相手を殺さず、食材の状態を保ち、必要な動きだけを止める。
美食屋にとっても、料理人にとっても、食の再生屋にとっても重要な技術。
ただし、学園では本当に触りしかやらない。
なぜなら、ノッキングには膨大な知識と技術が必要だからだ。
その難易度は、人間に対する医学を遥かに超える。
人間の身体は基本的に同じ構造をしている。
もちろん個人差はあるが、それでも骨格や内臓の位置は大きく変わらない。
だが、ノッキングは違う。
相手は猛獣だ。
魚。
鳥。
虫。
植物型。
鉱物型。
液体状。
骨格も筋肉も臓器も、種族ごとにまるで違う。
その全部に対して、どこを打てば止まるのか、どこを打てば毒化しないのか、どこを打てば味を損なわないのかを判断しなければならない。
現在は、食の再生屋が運営するノッキング専門の大学に行かなければ、詳しい技術は学べない。
しかも学費は医大より数倍高い。
とても通えない。
だから俺にできるのは、知識をもとにした工夫だけだった。
「ほう。ノッキングなしでフグ鯨を毒化させずに捕ったか」
フワ爺は楽しそうに笑った。
「それはそれで、大したもんじゃ」
フワ爺はそう言いながら、フグ鯨を両手に持って厨房へ入っていった。
暖簾の向こうから、楽しそうな声が聞こえる。
「おお、よしよし。驚いたじゃろう。だが、悪いようにはせんぞ」
誰と話しているのかと思ったが、たぶんフグ鯨だ。
いや、調理前の食材に話しかけているのか。
フワ爺なら普通にあり得る。
包丁の音がする。
水の音。
皿を置く音。
火を使っている気配は少ない。
今回は刺身だろうか。
俺は席に座り、はむまるを机に下ろした。
「きゅ」
「はむまるも腹減ったか?」
「きゅ!」
「だよな」
俺も腹が減っていた。
アナザを食べた。
アトムも少し飲んだ。
それなのに、動けば動くほど腹が減る。
グルメ細胞が次の食事を求めている。
しばらく待っていると、フワ爺が盆を持って戻ってきた。
「ほれ、フグ鯨の刺身とアナザの出し汁じゃ」
「アナザ!?」
俺は思わず声を上げた。
「フワ爺、俺お金ないからさ……」
アナザ定食は一人一億二千万円。
二人で二億四千万円。
ブラウスが帰ってくるまで支払いを待ってもらっている状態だ。
さらにアナザ料理など出されたら、俺はもう深海で皿洗いをするしかない。
いや、皿洗いで返せる額ではない。
「ただでいいぞ」
「ただ!?」
「出し汁といっても、アナザそのものを使ったわけではない。アナザが泳いだ場所の海水を調理したものじゃ。いつも来てくれる場所に、旨味がたまっておる」
「そうか……!」
アナザが泳いだ場所の海水。
つまり、アナザの旨味が溶け込んだ海水。
それを出し汁にしたのか。
無料と聞いて安心したが、よく考えればそれでもかなり贅沢だ。
「ヒレ酒はいらんか?」
「あ、いや、俺まだ未成年だからさ」
「ほう。見た目通りの年齢じゃったか」
フワ爺が少し驚いたように俺を見た。
「ここまで来るとは、すごいのう」
「まあ、色々あって」
「なら食べ盛りじゃろ。ごはんもつけてやろう」
そう言って、フワ爺はもう一つ大きな器を持ってきてくれた。
白米に見える。
だが、ただの米ではない。
粒の一つ一つがほんのり青白く光り、魚介の香りがする。
「海鮮米の大盛じゃ」
「最高かよ……」
目の前に並んだ料理を見る。
薄く透き通るフグ鯨の刺身。
湯気を立てるアナザの出し汁。
山盛りの海鮮米。
小鉢。
そして、はむまる用らしき小皿まである。
「きゅ!」
「よかったな」
はむまるは目を輝かせていた。
俺は手を合わせる。
「いただきます」
まずは、フグ鯨の刺身。
一切れを箸で持ち上げる。
白く透き通った身。
光を受けると、うっすら虹色に揺れる。
口に入れた。
その瞬間。
「……っ!」
すごい。
疲れが吹き飛ぶ。
体が喜んでいる。
身は弾力があるのに、舌の上でほどける。
噛むと、淡い甘みと深海の旨味が広がる。
脂っこくない。
軽い。
なのに、味が深い。
細胞が一つ一つ起き上がるような感覚がある。
さっきまでの息苦しさが消えていく。
これはうまい。
ただうまいだけではない。
体に効く。
「フグ鯨って、こんなにうまいのか……」
原作でも珍味だった。
知っていた。
でも、実際に食べると理解の次元が違う。
俺は次に海鮮米をかき込んだ。
濃厚な味だ。
米なのに、魚の旨味を感じる。
噛むたびに、貝の出汁のような甘みと、焼き魚の香ばしさが出てくる。
米粒一つ一つが、小さな海鮮丼みたいだ。
意味が分からない。
だが、うまい。
そこへフグ鯨の刺身を一枚乗せる。
かき込む。
「うまい……!」
止まらない。
箸が止まらない。
はむまるも小皿の上の小さく切られた刺身を両手で持ち、夢中で食べている。
「きゅう……!」
幸せそうだ。
俺も同じ気持ちだ。
次に、フグ鯨の刺身をアナザの出し汁にくぐらせた。
軽くしゃぶしゃぶにする。
白い身が、わずかに花開くように変わった。
それを口に入れる。
「……!」
刺身の時とは違う。
熱が入ったことで、フグ鯨の甘みが前に出る。
そこにアナザの出し汁が絡む。
味が複雑になる。
だが、喧嘩していない。
フグ鯨の清らかな旨味と、アナザの海全体を包むような旨味。
それぞれ違うのに、同じ方向を向いている。
深海の味。
黒い海の味。
生命が静かに眠る場所の味。
俺は無言で食べ続けた。
めちゃくちゃ美味しかった。
気づけば、皿は空になっていた。
海鮮米もない。
出し汁も飲み干した。
はむまるも満足そうに丸くなっている。
「ごちそうさまでした」
「きゅう」
俺とはむまるは手を合わせた。
フワ爺は嬉しそうに笑っている。
「よう食うのう」
「めちゃくちゃうまかった」
「それはよかった」
体が温かい。
フグ鯨とアナザの出し汁が、体の奥まで染みている。
食没で無駄なく吸収しているのが分かる。
細胞が喜んでいる。
こういう食事をすると、自分が強くなる感覚がある。
ただ栄養を取るだけではない。
食材の経験ごと体に入るような感覚。
「そうじゃ」
フワ爺が思い出したように言った。
「裏手に温泉もあるぞ」
「え、入っていいのか!?」
「もちろんじゃ」
「最高かよ……」
俺とはむまるは、フワ爺に案内されて店の裏手へ向かった。
そこには、小さな岩風呂があった。
泡の中にある温泉。
深海三万メートルにある温泉。
もう何があっても驚かないと思っていたが、やっぱり驚く。
湯気が立ち上っている。
ほんのり海の香りがする。
俺は服を脱ぎ、はむまると一緒に湯へ入った。
「はぁ……」
「きゅう……」
声が漏れた。
温かい。
最高だ。
百気圧の泡で動き回った疲れが溶けていく。
フグ鯨を捕まえるために息を吹き込み続けた肺も、少し楽になる。
はむまるは湯の端でぷかぷか浮いている。
小さいハムスターが温泉に浮かんでいるのは、なかなか可愛い。
「最高だな……旅行に来てるみたいだ」
深海の定食屋で飯を食べ、温泉に入る。
完全に旅行だ。
地球のフルコースを巡る旅。
危険なはずなのに、今だけは妙に穏やかだった。
ブラウスはまだアナザと向き合っている。
俺はその間、飯を食って温泉に入っている。
少し申し訳ない気もする。
だが、これも必要な休息だ。
温泉に浸かりながら、俺はぼんやり考えた。
なんでこんなに焦っているんだろうか。
俺は一日でも早く強くなりたいと、いつの間にか強く思うようになっていた。
エアを食べた。
ペアを飲んだ。
アトムを飲んだ。
アナザも食べた。
昔なら、それだけで浮かれていたはずだ。
いや、今も浮かれている。
うまいものを食べればテンションは上がる。
トリコの世界の食材を食べられることに、何度も感動している。
でも、それだけではない。
胸の奥に、ずっと引っかかっているものがある。
早く強くならなければならない。
そんな焦りだ。
グリーントロルを見たからか。
エアの時に見た、あの緑の化け物。
ペアの後に出会ったグリド。
支配された種族。
悪魔に食われた存在。
グリドはもう大丈夫だと言っていた。
自分の食欲は自分のものだと笑っていた。
でも、グリドはセーフゾーンを出た。
何かを隠したまま。
ガウンも、メリスタも、何かまだ隠している気がする。
メリスタは俺とブラウスを調査員扱いにした。
全フルコースビオトープにグリーントロルの反応が出たと言っていた。
ガウンは残りのフルコースを半年、いや三か月で回れと言った。
なぜそんなに急がせるのか。
理由は教えてくれなかった。
俺はまだ、何も知らない。
だが……何かが近づいている気はする。
食欲の匂い。
悪い予感。
焦げつくような空気。
根本的な理由は分からない。
俺の考えすぎかもしれない。
でも、もし何かが起こるなら。
その時、何もできないのは嫌だ。
グリドに守られるだけ。
ガウンやメリスタに任せるだけ。
ブラウスを危険に晒すだけ。
それは嫌だ。
俺は湯の中で拳を握った。
まずは――。
グリーントロルを倒せるくらいには強くなりたい。
あの捕獲レベル1000・Bのあいつを。
ガウンが悪魔共食を使ってようやく倒した存在。
今の俺では、まだ届かない。
でも、届きたい。
届かなければならない気がする。
「強くなる」
俺は小さく呟いた。
はむまるがこちらを見る。
「きゅ?」
「なんでもない」
俺は湯に肩まで浸かった。
温泉は温かい。
体は休まっている。
飯もうまかった。
それでも、胸の奥の焦りは消えない。
だからこそ、俺は強く誓った。
もっと食べる。
もっと学ぶ。
もっと鍛える。
そしていつか、グリーントロルを相手にしても、逃げずに立てる自分になる。
深海の温泉の中で、俺は静かにそう決めた。