数日が経った。
ブラウスはまだ帰らない。
アナザと話してくる。
そう言って、スリープシェルシェルターに一人で乗り込み、黒い海へ出ていった。
最初はかなり心配だった。
いや、今も心配ではある。
だが、フワ爺は大丈夫だと言っていた。
この辺りに危険な猛獣は少ない。
アナザの好む場所には、荒っぽいものは近づかない。
それに、ブラウスは無茶をするタイプではない。
俺と違って。
だから、俺もずっとのんびりしているわけにはいかない。
飯を食べて、温泉に入って、待っているだけでは駄目だ。
ブラウスがアナザと向き合っているなら、俺も俺でやることがある。
強くなる。
もっと強くなる。
グリーントロルを相手にしても、逃げずに立てるくらいに。
そのために、俺は今、二千気圧の泡の中にいる。
水深二万メートル相当。
あの時、俺が調子に乗って設定し、両腕を骨折した圧力。
その圧力の中に、今度は静かに入っている。
水中。
体中が押さえつけられる。
全身を巨大な手で掴まれているような感覚。
骨が軋む。
内臓が重くなる。
呼吸が深く沈む。
だが、あの時とは違う。
俺は動かない。
泡の底で座禅を組んでいる。
力で押し返さない。
硬く固めない。
すべてを受け流すように。
圧力を敵だと思わない。
水圧を食材だと思う。
噛み砕くのではなく、飲み込む。
グルメスモックを厚くしすぎると軋む。
薄すぎると潰れる。
だから、均等に。
柔らかく。
番重のように面で受けるのではなく、布のように圧を流す。
「……ふぅ」
ゆっくり息を吐く。
無理に動くと危ない。
素早く動くと、グルメスモックがきしむ。
ギ、と。
錆びたネジのような音にはまだ遠い。
だが、嫌な音だ。
あの音は覚えている。
聞いた瞬間、終わる音。
だから焦らない。
ゆっくり。
慎重に。
今の俺は、この二千気圧の中で、ゆっくり歩く程度ならできるようになった。
一歩。
また一歩。
水中を踏みしめるように進む。
走れない。
跳べない。
戦えない。
だが、歩ける。
前に進める。
それだけでも、数日前の俺からすれば大きな進歩だった。
そして、もう一つ。
俺は今、なんでも食えそうだった。
アナザを食べてから、世界の味が変わった。
味のないものにも、味が見える。
食材ではないものにも、旨味の輪郭がある。
石。
砂。
水。
泡。
全部が食えるとは言わない。
だが、食えないとも思えない。
グリドは言っていた。
鉱物でもなんでも食って、番重に反映しろと。
俺の番重落としは、ずっとステンレスのイメージから抜け出しきれていない。
重さを変える。
大きさを変える。
厚みを変える。
そういう応用はできるようになった。
だが、素材そのもののイメージが弱い。
もっと硬く。
もっと重く。
もっと深い圧力に耐える素材。
その知見が欲しい。
俺は二千気圧の泡の中をゆっくり歩いた。
泥にまみれた海底。
そのあちこちから、黒い結晶が突き出ている。
まるで牙だ。
ガラスのように鋭く透き通っている。
だが、ただのガラスではない。
拾い上げると、見た目以上にずっしりと重かった。
指に食い込むような硬さ。
黒く、透明で、冷たい。
高水圧に何万年も耐え抜いたような硬度がある。
「スティショバイト……だったか」
スティショバイト。
スティショフ石。
たしか、シリカが超高圧で変化した鉱物だったはずだ。
前世でも聞いたことがある気がする。
隕石衝突や高圧環境でできる、非常に硬い鉱物。
この世界では、ブラックトライアングルの深海圧でさらに変質し、漆黒色の牙のような結晶になっているらしい。
鉄よりは軽い。
だが、知見のために食ってみよう。
「いただきます」
俺は黒い結晶の欠片を口に入れた。
普通なら、歯が砕ける。
だが、今の俺は普通の食事として口に入れているわけではない。
アナザで広がった味覚。
食没で無駄を消す。
グルメ細胞で、素材の記憶を噛む。
がり、と噛んだ。
硬い。
めちゃくちゃ硬い。
歯に響く。
だが、砕けないほどではない。
いや、砕いているというより、食欲で削っている感覚だ。
味はない。
いや、ある。
冷たい味。
圧力の味。
長い年月、海底の泥の中で押され続けた味。
透明なのに黒い。
軽いのに硬い。
その矛盾した感覚が舌の上に残る。
「……なるほど」
俺は手のひらに、小さな番重を出してみた。
今食べたものを反芻しながら。
いつもの白い番重。
だが、そこに黒い筋が入った。
ほんの少し。
まだ素材が変わったとは言えない。
でも、何かが混ざった。
ステンレスの表面に、黒い結晶の硬さが薄く乗ったような感覚。
いける。
鉱物を食べて、番重に反映する。
この方向性は間違っていない。
ただ、まだ足りない。
もっと重い素材が欲しい。
もっと圧力に耐える素材が欲しい。
昨日、フワ爺に聞いてみた。
「鉄より重くて、丈夫な鉱石ってある?」
フワ爺は少し考えた後、言った。
「この海底にあるぞ」
深海オスミウム隕石。
それは、スティショバイトとは違って、俺の前世では存在しないものだ。
遥か昔、宇宙から地球に激突した超高密度な小惑星の核心部。
オスミウムやイリジウムといった、地球の表面にはほとんど存在しない超重金属でできた隕石。
その凄まじい重さゆえに、海底の泥を突き抜け、地殻の最も深い水深二万メートルの裂け目へと沈み込んだ。
さらに長い年月をかけ、深海の超高圧で周囲の岩盤や旨潮と馴染み、異常な密度と硬度を得たもの。
それが、この付近にあるらしい。
「万が一、いくつか持って帰れたら、わしが買い取ってやろう」
買い取るといったがあげようと思う。
フワ爺にはそれだけ世話になっている。
とにかく欲しい。
番重の素材として、これ以上ないくらい欲しい。
重い。
硬い。
宇宙由来。
高圧に耐えた。
まさに、今の俺が求めている知見だ。
だが、簡単には近づけない。
その付近には、特殊な磁場が発生しているという。
あらゆる機械を狂わせる。
キャンピングモンスターでさえ異常状態にする。
スリープシェルシェルターも近づけない。
調査用の機械も壊れる。
つまり、生身で近寄るしかない。
そして、その深海オスミウム隕石がある裂け目は、水深三万メートル級。
三千気圧。
「まだ駄目だ」
俺は黒い結晶の牙を握りしめた。
今の俺は、ようやく二千気圧になんとか耐えられるようになったばかりだ。
この泡の中で歩けるようになった。
だが、自由に動けるわけではない。
走れば危ない。
戦えば壊れる。
無理をすれば、またグルメスモックが圧壊する。
深海オスミウム隕石に触れるには、三千気圧に耐えなければならない。
ただ耐えるだけでは駄目だ。
そこまで行き、拾い、食い、戻ってくる。
そのためには、この二千気圧の場所で自由に動けるようにならなければならない。
同じ事故に遭うわけにはいかない。
二千気圧に調子に乗って突っ込み、両腕を骨折した。
ブラウスに怒られた。
はむまるにも噛まれた。
あれを忘れてはいけない。
「同じ失敗はしない」
俺は静かに呟いた。
焦るな。
急ぐな。
でも、止まるな。
ブラウスはアナザと向き合っている。
俺は水圧と向き合う。
食材と向き合う。
鉱物と向き合う。
番重を変えるために。
グリーントロルに届く力を得るために。
俺は二千気圧の海底で、もう一度座禅を組んだ。
黒い結晶の牙を口に含みながら。
全身にかかる圧力を、ゆっくりと食べるように。
俺は、静かに呼吸を続けた。